「それまでの功績を最後に丸ごと台無しにしてしまった佐野学長ですが、兼松講堂完成に至るまでの活躍を忘れてはいけないんじゃないですか? 取り巻きに恵まれていたにせよ、あの頃のリーダーシップと情熱……」
津船後輩が整理のつかないまま須賀老に食い下がる。
老先輩も思い直しているようで、
「そうだね。腹いせと言わないまでも、すべてを消し去ってしまうのもなんだね。公正を欠くというか…」
と、自身に語りかける。
「大学昇格のために躰を張り、大震災を
逆手にとって武蔵野原野に学園都市を実現させた。このキャンパス移転の頃が彼の一番輝いたときだった。彼の陣頭指揮で全校あげて復興に邁進した」
そう言ってから、今度は天井に目を向けて話す。
「兼松講堂は正にその時の金字塔で、ファサードの四神像に未来への思いが込められている。熱情、誇り、気概、希望──。伊東忠太博士の言うように、兼松講堂は、ゴシック様式のような見栄えの良さがない堅い
蕾≠ゥもしれない。が、見事な開花を予感させる夢の蕾と言えた」
須賀五郎次は、兼松講堂が完成して十年目に入学したのだった。七十年近く前で、入学二ヶ月前に二・二六事件があった。
国立駅から南へ一直線の大学通りは、幅四十メートルもあり、両側は若い桜並木で白一色だった。
その年、キャンパスの象徴たる兼松講堂は、予科・専門部併せて約四百人の新入生を受け入れた。彼らは殿堂を仰いで、入学の喜びと誇らしさを満身に受けた。
須賀は学生時代七年間の大半を、ボートのコックスで謳歌した。いまその思い出の中にある。
「僕たちが玄武号≠ナ競っていたあの頃の戸田プール対校レースが、つい昨日のようだ。エイトは、漕手八人と僕のコックスで一体だった。その一体で勝ちもし、悔しい負けもした。水
飛沫を上げてデッドヒートも演じた。ゴール寸前では敵も味方もなかった。一体が解け合ったあの一瞬の空白というか、それが今も私の青春だ」
四神会議はいつ果てるともなく続いている…………
* * *
あれから一ヶ月しかたっていない。
浅草の十和田で、蕎麦味噌を肴に枡酒を旨そうに飲んで、終始ご機嫌だった須賀が……、白いベッドで横たわっている。
津船の胸に様々な思いが去来する。
あの時、時間を忘れて調査の経緯を話してくれた。半年間に亘って、杖を頼りの体をいとわず、精力的に活動された結果を。
ハワイ土産を誕生祝いとして届けたとき、店員の指示通り「私の心が詰まっていますので、なにも入れないように」と言うと、うれしそうに目を潤ませていた。
何日かに一度は電話があった。
「君の背丈ほどの資料で、埋まってしまいそうだ」
「野暮用が多くてね、思ったようにはかどらない」
「できたところから、君と深海さんにチェックをはじめてもらおうかと……」
須賀の声は朗らかだった。
年を越す前に一度会わなければ、そう思っていた矢先のことだ。
八十五歳の高齢で動脈瘤破裂。三時間の手術に耐えた。回復は医師が驚くほど早いと言う。が、病の詳細についての明言はない。
意識がはっきりしている時もあるが、依然混濁状態を繰り返している。予断は許されない。
「何度も死地をくぐり抜けてきたのですから」
恵理子が声を潜めて言う。
『兼松講堂』を書き上げるまでは、簡単に終止符を打てるはずがない。
目を閉じた老人は、深い寝息を立てている。