17. 堅い蕾
「それまでの功績を最後に丸ごと台無しにしてしまった佐野学長ですが、兼松講堂完成に至るまでの活躍を忘れてはいけないんじゃないですか? 取り巻きに恵まれていたにせよ、あの頃のリーダーシップと情熱……」
 津船後輩が整理のつかないまま須賀老に食い下がる。
 老先輩も思い直しているようで、
「そうだね。腹いせと言わないまでも、すべてを消し去ってしまうのもなんだね。公正を欠くというか…」
 と、自身に語りかける。
「大学昇格のために躰を張り、大震災を逆手(さかて)にとって武蔵野原野に学園都市を実現させた。このキャンパス移転の頃が彼の一番輝いたときだった。彼の陣頭指揮で全校あげて復興に邁進した」
 そう言ってから、今度は天井に目を向けて話す。
「兼松講堂は正にその時の金字塔で、ファサードの四神像に未来への思いが込められている。熱情、誇り、気概、希望──。伊東忠太博士の言うように、兼松講堂は、ゴシック様式のような見栄えの良さがない堅い(つぼみ)≠ゥもしれない。が、見事な開花を予感させる夢の蕾と言えた」
 須賀五郎次は、兼松講堂が完成して十年目に入学したのだった。七十年近く前で、入学二ヶ月前に二・二六事件があった。
 国立駅から南へ一直線の大学通りは、幅四十メートルもあり、両側は若い桜並木で白一色だった。
 その年、キャンパスの象徴たる兼松講堂は、予科・専門部併せて約四百人の新入生を受け入れた。彼らは殿堂を仰いで、入学の喜びと誇らしさを満身に受けた。
 須賀は学生時代七年間の大半を、ボートのコックスで謳歌した。いまその思い出の中にある。
「僕たちが玄武号≠ナ競っていたあの頃の戸田プール対校レースが、つい昨日のようだ。エイトは、漕手八人と僕のコックスで一体だった。その一体で勝ちもし、悔しい負けもした。水飛沫(しぶき)を上げてデッドヒートも演じた。ゴール寸前では敵も味方もなかった。一体が解け合ったあの一瞬の空白というか、それが今も私の青春だ」
 四神会議はいつ果てるともなく続いている…………

*   *   *

 あれから一ヶ月しかたっていない。
 浅草の十和田で、蕎麦味噌を肴に枡酒を旨そうに飲んで、終始ご機嫌だった須賀が……、白いベッドで横たわっている。
 津船の胸に様々な思いが去来する。
 あの時、時間を忘れて調査の経緯を話してくれた。半年間に亘って、杖を頼りの体をいとわず、精力的に活動された結果を。
 ハワイ土産を誕生祝いとして届けたとき、店員の指示通り「私の心が詰まっていますので、なにも入れないように」と言うと、うれしそうに目を潤ませていた。
 何日かに一度は電話があった。
「君の背丈ほどの資料で、埋まってしまいそうだ」
「野暮用が多くてね、思ったようにはかどらない」
「できたところから、君と深海さんにチェックをはじめてもらおうかと……」
 須賀の声は朗らかだった。
 年を越す前に一度会わなければ、そう思っていた矢先のことだ。
 八十五歳の高齢で動脈瘤破裂。三時間の手術に耐えた。回復は医師が驚くほど早いと言う。が、病の詳細についての明言はない。
 意識がはっきりしている時もあるが、依然混濁状態を繰り返している。予断は許されない。
「何度も死地をくぐり抜けてきたのですから」
 恵理子が声を潜めて言う。
 『兼松講堂』を書き上げるまでは、簡単に終止符を打てるはずがない。
 目を閉じた老人は、深い寝息を立てている。

「怪獣の棲む講堂物語」
おわり
17.堅い蕾の朗読 6’ 36”
総朗読時間: 10時間08分51秒
(2020.04.25)
2006.11.19 初稿
2008.09.10 改訂
2015.09.01 改訂
2017.04.29 改訂
2018.09.14 改訂
2020.04.25 改訂
< 16.白票事件ー2 怪獣の棲む講堂物語
おわり
参考文献
一橋大学百二十年史
 (一橋大学、1995年)
一橋大学百年史写真集
 (財界評論新社、1981年)
一橋大学七十五周年記念アルバム
 (記念アルバム委員会、1951年)
一橋大学年譜
 (一橋大学、1976年)
建築巨人・伊東忠太
 (読売新聞社、1993年)
伊東忠太動物園
 (藤森照信、筑摩書房、2001年)
伊東忠太を知っていますか
 (鈴木博之編著、王国社、2003年)
一橋大学社会学部長提供資料
中路信氏論文
 (JFN・ML)
HQ (Hitotsubashi Quarterly)
 (一橋大学広報誌)
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 次の2枚の写真は、本作品で重要な役割を為した伊東忠太博士(一橋大学兼松講堂の設計・建築者)のお墓です。(横浜市鶴見区、總持寺)
 米国アイオワ州にお住まいのデビッド・タッカー氏(Mr. David Tucker、アイオワ大学で教鞭)が2003年に總持寺を訪れ、撮影されました。
 ここに掲載ご許可に感謝。(2022年2月28日)
< 16.白票事件ー2 怪獣の棲む講堂物語
おわり
目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
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書籍化のため、テスト朗読

目次 原文
2020
04.25
目次 書籍へ
2022
12.23
目次、登場人物
1.オールド・コックス 1 9:14 1.オールド・コックス 8:27
2 16:35 8:52
3 21:48 19:44
2.怪獣 1 22:50 2.怪獣 20:19
2 21:43 20:56
3.模索 1 9:11 3.模索 9:01
2 23:01 20:40
3 13:17 12:10
4.追う 1 11:16 4.追う 9:24
2 10:30 9:08
3 6:11 11:18
4 11:32 - - -
5.史料館 1 6:26 5. 史料館 5:36
2 14:51 13:36
3 11:14 12:01
4 10:06 - - -
6.黎明期 1 9:47 6. 黎明期 6:46
2 21:10 16:56
3 12:57 13:49
7.申酉事件 1 10:31 7. 申酉事件 8:12
2 14:06 12:50
3 14:15 12:47
8.商大誕生 1 12:26 8. 商大誕生 16:37
2 6:48 - - -
9.大震災 1 15:16 9.大震災、武蔵野へ 13:28
2 26:42 23:36
10. 武蔵野へ 1 13:56 13:58
2 10:53 - - -
11.集古館 1 14:19 10.集古館 8:14
2 11:59 8:26
3 9:46 - - -
12.建築者 1 13:46 11.建築者 7:41
2 16:50 14:21
3 10:56 9:31
13.ロマネスク 1 17:12 12.ロマネスク 14:33
2 19:03 15:40
14.四神像 1 13:31 13.四神像 11:59
2 21:12 19:08
3 15:04 13:41
15.籠城事件 23:31 14.籠城事件 20:55
16.白票事件 1 11:16 15.白票事件 11:11
2 15:16 18:21
17.堅い蕾 6:36 - - -
合計 10:08:51 合計 8:13:52