7. 申酉(しんゆう)事件 1
 三時を過ぎた。小休憩を利用して、津船はオーディオのCDを入れ替えている。音楽がないと気がすまないのだ。それもクラシック。
 大学入学の年、上野文化会館で年末恒例の『第九』を聴いて、クラシックにはまった。中央線沿線・武蔵小金井の下宿で六畳間にこもり、図書館で借りたLPを安プレーヤーに載せては聴いた。交響曲から器楽曲、ソナタまで、何でもよい。一方、同好の学友と吉祥寺のクラシック喫茶に、コーヒー一杯で入り浸った。

 紀伊半島の和歌山県南、三重県との県境にある漁師町・新宮市三輪崎に生まれ育った。串本節や鯨踊り、熊野古道、那智の滝、速玉大社、……。景勝・土俗歴史・伝統文化には浸りきったが、クラシック音楽は大学入学で上京するまで無縁だった。

 六十過ぎた今もクラキチであることに変わりはないが、作曲家、ジャンル、演奏、……好みはいろいろ変化している。いま、ベートーヴェン、モーツアルト、シューベルト、そしてショパンは別格だ。
 …………

 今度はダンディの『フランス山人の歌による交響曲』を選んでいた。フランス出身のシャルル・ミュンシュがボストン交響楽団を指揮している。
 イングリッシュホルンの雄大なメロディに乗って曲がはじまる。月一度の山歩きを欠かさない津船が、奥多摩や奥武蔵の山道でよくこのところをハミングする。
「あら。津船さん、山歩きしているから?」
 笑窪(えくぼ)を見せながら訊ねる恵理子に、
「そうなんですよ」
 山男まがいは自慢そうに答える。
 彼、軽症ではあったが、二十年前に脳梗塞を患った。何年か前の山仲間との出会いが機縁で、リハビリを兼ねて近郊の低山ハイキング主体に、やみつきになっている。
「とてもさわやかよね」
 恵理子は、ステレオの音響に声を弾ませる。
 四人とも、マリが注いだばかりの煎茶を味わって寛いでいる。

「私思うのですけど」
 恵理子が須賀作成の資料を確かめながら話し出す。
「江戸末期の一八六七年だったかしら、パリ万博使節に随行した渋沢栄一がその三十年余り後の明治三十三年(一九〇〇)に『商業大学設立すべし』と説いて、その一年後に強力に同調したのがベルリン宣言よね。その宣言をなした八教授に至るまで、ここに出てくる大半の人たちが、ヨーロッパになじみがあるわ。向こうは当時、美術ではロマン主義、写実主義、印象主義といった流派が入り乱れて、この分野、ルネッサンスの再生って感が強かったのだけど……、音楽も近代クラシックの時代よね。ダンディのこの曲もその頃だったのではないかしら?」
 津船はジャケットを見つめて、声が大きくなる。
「まさしく。一八八七年にパリのコンセール・ラムルーで初演されてますね」
 恵理子はわが意を得たようだ。
「ですから、ベルリンやパリ、ローマ、ロンドンといった大都市では、このようにコンサートや展覧会が目白押しだったはずだわ。ヨーロッパにいた彼らは、きっと当時・当地の文化を深く味わっているはずよ。芸術以外に、文学や思想も……。あらゆる分野にわたって」
 須賀老も自ら進んで話に加わる。
「江戸幕府になって海外との通商を()った鎖国体制は二百年以上続いていたんだね。やっと安政年間の一八五八年にアメリカと修好条約を結んで幕を閉じる。パリ万博への使節はその十年後で、日本はやっと井の中の蛙が外界に向かって顔を出したといったところだ。渋沢が受けたカルチャーショックは計り知れないよ。向こうにいる間に明治維新があって江戸時代は終わり、維新政府の指令で使節団のヨーロッパ滞在は二年足らずで打ち切られる。が彼のことだから、存分に欧州の文化を吸収して帰ったのだろう」
 津船も年表を見ながら、話に首を突っ込む。
「勝海舟、福沢諭吉らが咸臨丸で米国に渡ったのはその何年か前ですよね。その後の日本の形が欧米の文化に接した彼らによって作られていく……」
 わかったような表現だが、彼なりに時代背景を理解しようとしている。
 須賀は二度うなずき、
「手作り・手探り、それも短期間でね」
 と、相づちしてバトンを受ける。
「激論を闘わしたり、束になって事に当たったり……、血なまぐさい事件も頻繁に起きている。そんな中で、政治・経済は言うに及ばず、文化の発展も彼らに負うところが多かった。こうした流れが欧米留学ブームに受け継がれ、東京高商からも、佐野善作や福田徳三らがヨーロッパに何年間も留学した。当然文明・文化を胸一杯に吸って帰国しただろうし、日本側でも、ある程度それを受け入れる態勢だったのではないか」

 文明開化の話は尽きそうにない。マリもここは熱心だ。恵理子の横で身を乗り出し加減。
 いつしか話題は小休憩の茶飲み話を越えている。須賀は小さく息をして本題に舵を切る。
「福田徳三らが商業大学設立を熱く訴えたベルリン宣言から八年たって、申酉(しんゆう)事件≠ェ起きた。内容は津船君がよく知っているから、ここはおまかせしていいかな」
 またもからかいともつかぬ問いかけに、
「ご冗談!」
 津船は応じられるはずがない。
「そんなこともあろうかと……」
 須賀老は二枚腰だ。言いながら、資料を三人に渡す。
「この事件は、明治四十一年(一九〇八)の(さる)年から四十二年(一九〇九)の(とり)年にかけて起こったので、申酉(さるとり)申酉(しんゆう)事件といっている。この一連の出来事は、当時社会問題としても大きかったし、学園のその後を左右するほどの出来事だった。私の独演では、申酉(しんゆう)≠フ名前だけが独り歩きして、肝心の中身がお座なりになってしまいそうだから、ここは津船君との二人三脚としたい。すまんが印の付いたところを津船君に読んでもらう」
 津船の顔から気楽な素振りが消えて、資料と首っ引きになっている。やがて、
「これなら何とか……。私の理解も深まりそうですし」
「おじいちゃんの跡継ぎね」、マリは茶化す。
 先輩の指図を受けて、津船は咳払いではじめる。

7.申酉事件ー1の朗読 10’ 31”
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目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
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