10. 武蔵野へ 1
 現一橋大学の本部は、都心から西へJR中央線経由で今でも一時間近くはかかろうという、国分寺と立川の間に駅を有する国立市にある。この国立(くにたち)キャンパスの看板ともいえる兼松講堂はロマネスク様式で建築されており、講堂内外に怪獣・妖怪が跋扈(ばっこ)している。ファサード上部に飾られてある円形レリーフ四体も奇妙な怪獣紋様である。
 須賀五郎次はその四体を中国神話の四神≠ニ見なし、これらの像がなぜ最も目立つファサードにあるのか、講堂自体なぜこうも化け物がうようよいるのか、その謎を解くカギが学園史に潜んでいると信じている。
 昼過ぎにその歴史を学園創立から辿りはじめて、ようやく彼が意図した最後の区切りが目の前だ。シャンデリアの柔らかい光が投げかけるこの居間だけが、夜の闇に孤立している。

「講堂建築まで来たじゃない!」
 マリは彼女なりに老人を(ねぎら)う。津船は自分が弁士のように、フッとため息をつく。
 恵理子が気がかりな顔で、年表のその行を指で示して言う。
「『兼松商店、兼松記念講堂として、寄贈を申入れ』とあるわね」
 またも先手と、須賀老はうれしそうに応える。
「そうなんだ。ここで肝心なことに触れておかなければ。まぎれもなく講堂生みの親の話で、私たち同窓生が胸に刻み込んでいなければいけないことなんだ」
 改まった表情になる。
「東京商大にとっては実にタイミングのいい話なのだが、政府が武蔵野移転を認可する半年前に、兼松商店から願ってもない朗報が舞い込んだ。この年が同店創業者である兼松房次郎翁の十三回忌にあたっていて、それに因んで、商業教育の天王山と見なす東京商大に『五十万円を講堂建築資金として寄付する。建築は兼松側にて行い、兼松記念講堂≠ニして引き渡したい』と」

 兼松商店(現兼松株式会社)は、オーストラリアとの貿易で大を為した関西の大手商社だ。同社の成り立ちと講堂寄贈の背景について、須賀老持参の資料にはこうある。

一.  創業者兼松房次郎は江戸時代弘化二年(一八四五)大阪生まれで、商家に奉公したのが人生のスタートだった。学歴はない。
 豪州(オーストラリア)の重要性と将来性に着目し、明治二十二年(一八八九)、神戸に日豪貿易兼松房次郎商店を設立、羊毛の輸入を手がけた。苦労力行の士で、透徹した人間味のある人生哲学・経営哲学を有した。
 『儲けはカス=xと称し、余ったものは還元すべし、と唱え、さらに自らの人生経験から商業高等教育の重要性を痛感し、『日本の将来は、商業の振興にかかっている。商業を学び、社会に貢献できる人々のために役立つことをしたい』という強い意欲を持っていた。
一.  その遺訓を、前田卯之助、北村寅之助、藤井松四郎ら、後継役員たちが継承し、その精神を不朽化するために、『永久性に富める公益事業を興し、以て記念事業とする事』と、三大事業を為している。
 第一回(房次郎翁七回忌)、大正八年(一九一九)
 神戸高商(現神戸大学)に、『兼松商業研究所』の建築及び研究基金として、合計八十万円を寄贈・寄付した。
 第二回(十三回忌)、大正十四年(一九二五)
 商業高等教育の梁山泊たる東京商大に、工費五十万円をかけて、『兼松記念講堂』を寄贈した。そのときは、全社員がボーナスを献上した、と言われている。
 第三回(十七回忌)、昭和四年(一九二九)
 豪州シドニーホスピタルに豪貨二万五千ポンドを寄付、豪政府からの資金と合わせて、『兼松病理学研究所』の寄贈となった。
一.  兼松講堂竣工式における佐野学長の謝辞(抜粋)。
 『(兼松商店は公益事業≠フ一つとして、本学にこの大講堂を寄贈された)。本学の幸何物か之に如かん。吾人はこの美挙に対し喜悦の情禁ずる能わず。本講堂を大いに利用して学徒の教養及び一般文教の進歩に資し、以て寄贈者の厚意に報いんことを期す』
 設計・建築の総責任者である伊東忠太博士の工事報告(抜粋)。
 『一般工事では当事者間に三角関係あるを常とするが、今回寄付者が入り、四角関係を生ずるにも関わらず、円満に出来たのは、全く兼松翁の美しき遺志による』
 金額の多寡を知りたいのはマリだけではない。ストレートに発言する。
「五十万円ってどれくらいなの?」
 須賀は表現しづらそうに、
「今の金で十億円台ってところかな。比べる物差しにもよるだろうが……。因みに東大の安田講堂は延べ床面積がこちらの2倍で、当時建築二百万円かけたと云われている。いずれにしても、元々政府による建築予算は十三万円だったのだから、夢のような話だね」
 膨大な金額以上に、彼女も兼松商店の志を理解したようだ。須賀老は続ける。
「この寄付によって、国立キャンパスで兼松講堂だけが私費で建築されることになった。国の予算に縛られて思うに任せそうもない新講堂のイメージがこの棚ぼたのような話で吹っ飛んで、それこそ正夢というか、理想の殿堂の実現に向かって動き出すわけだ」
 三人の顔がほころぶのを満足そうに見ながら、
「これがざっと東京商大の国立移転までの話だ。憶測混じりだが……」

 須賀は腰を上げ、(うるし)の盆に載った残りの芋羊羹を、一つほおばる。恵理子が茶を入れ替えている。
「いよいよ兼松講堂の建築だ。兼松商店が寄付を申し出た翌年の大正十五年八月に、竹中工務店の手で着工している。完成は一年三ヶ月後の昭和二年(一九二七)十一月だった」
 津船がそれとなく壁の時計を見る。もう数分で九時だ。
 須賀老はやっと予定を終えた面持ちになって、頬が緩んでいる。少し間をおいてから、
「四神像の探求≠ニいうもう一つの命題だが」
 と、確認するような口振りになる。
「寄り道が長かったが、これらが合わさって『四神像』に凝縮されているのではないだろうか。これをファサード上部にいただく兼松講堂が、講堂としての機能や国の登録有形文化財という建築物的価値を超えて、もっと奥深い重みを我々に気づかせようとしている。私にはそう伝わってくる」
 続けてひと言、伊東忠太博士に触れる。
「今以てこれも謎が多いのだが、東京帝大教授で建築学界の権威だった伊東忠太が、当時としては辺境の建築物を、設計から建築まで進んで引き受けたとされている。博士の立場・状況からして、常識では考えにくい。が、現実に起こっている。しかも『精魂込めて造った』と本人の談話にある」
 聞き手の三人とも、一つの核心≠ニ受け止めているようだ。
「では、どのようにして博士の担ぎ出しが実現できたのか。なぜ博士がその気になり、出来映えを自身が気に入るまで打ち込まれたのか。これもわれわれの追っている真相≠ノ迫る大きなカギだ。その辺の事情を私なりにまとめてみたい」
 そう言いながら壁のカレンダーを見る。
「集中すれば半月ほどで片付くはずだから、でき次第郵送するよ。読んでいただいたあと、浅草の十和田≠ノでも繰り込みたいね。祝田君と山辺君も誘ってほしい。彼女たちにも送っておくから。マリさんも出来るだけ都合を付けて」
 マリはまじめくさってうなずいている。須賀老はだれともなくつぶやく。
「十和田の『蕎麦(そば)味噌』は、私には商法講習所発祥の銀座『鯛味噌屋二階』になんとなく通じるのでね」

10.武蔵野へー1の朗読 13’ 56”
< 9.大震災ー2 10.武蔵野へー2 >
目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
閉じる