| 津船良平はJR大船駅からタクシーで、鎌倉市郊外高台の深海恵理子邸に着いた。正午前だ。 須賀老は庭に出て、盆栽いじりに余念がない。陽差しが眩しい。植木は色づきはじめている。
 この広い庭付きの二階建ては、昨年秋まで、須賀が息子夫婦と住んでいた。いまは勝手知ったる友人宅だ。
 〈マンションのご自宅より、こちらでのほうが寛いでいる……〉
 津船の思い過ごしか。ひと月もすれば八十五歳を迎えるご老体は、赤いタートルネックのセーターにチロリアン・ハットで、ハサミを片手に微笑んだ。
 恵理子は昼食の支度に忙しそうだ。
 「いらっしゃい」
 と陽気に声をかけた。
 野溝マリもいる。彼女は、伯母・恵理子のマネジャーの仕事にかこつけて、絵画教室≠大いに利用している。クリッとした黒目がちの面長な顔をほころばせて、カンボジア式の合掌であいさつした。
 抑えた萌葱色のワンピースに民俗色豊かなクロマーのスカーフが目を引く。どちらも彼≠フ見立てなのだろう。
 津船は庭に出て、老先輩の盆栽いじりに見入る。カチッカチッカチッ、小枝を剪定する音が庭の芝生と澄んだ空気に反射する。
 からっとした秋晴れで、風もない。富士山は近所の高い屋根に阻まれて見えないが、箱根連山の眺めは悪くない。
 「ごめんくださ〜い。お持ちしました」
 玄関で呼び鈴に合わせて男の声。マリが応対している。
 「御前様が届いたようだね」
 須賀はそう言って盆栽を切り上げ、洗面所へ行く。しばらくして、
 「お席へどうぞ!」
 恵理子の声が聞こえた。
 十二畳の洋間の中ほどにテーブルがしつらえられている。須賀が賓客をもてなす定番の寿司御前≠ェ、テーブルを囲む四人それぞれの前にある。松花堂弁当風で、寿司めしが横の小仕切りに、大仕切りは海の幸の具沢山。恵理子の心づくしもテーブルに並んでいる。
  食事をはじめる前に、津船はオーディオ装置に目を付けていた。恵理子が北鎌倉のマンションから運んだようだ。「いいですか?」
 と言いながら、既に歩を進めている。
 恵理子宅もクラシック音楽が大半で、ラックにはCDが数百枚並んでいる。
 黒塗りの重量感に満ちたスピーカー一対をまじまじ見て、津船は表情を変える。わが家のお気に入りと同じYAMAHA・NS1000Xではないか。
 三センチ・ツイーターと八・八センチ・スコーカーはベリリウム振動板で、三十センチ・ウーハーはピュアーカーボン。ひと頃評判を取った優れもので、津船も二十年ほど前に、クラキチの友の強い勧めで大枚をはたいたのだった。一本ゆうに三十キロは超えて、彼の腰痛の元凶でもある。
 ラックからマーラーの交響曲第七番を取り出す。全曲聴けば八十分と長い。思惑があるのだろう、二枚組の二枚目をトレイに置く。冒頭は第四楽章で、最終楽章の《黎明》に導く《夜の歌》だ。ノイマン指揮でチェコフィルが演奏している。
 ……弱い弦と笛の音が流れている。数年前に高校時代の学友と登った上越・苗場山頂での日の出のさまがよみがえる。
 「好きなんですよ、この曲のこのところが」
 津船が言うと、
 「夜の歌≠ナしょ、私もよ。フィレンツェにいたときよく聴いたわ」
 恵理子が感慨深げに話す。
  料理を味わいながら、津船の目は見慣れた床の間の掛け軸にいっている。送元二使安西=i元二君が安西に使するを送る)だ。 
                
                  
                    
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                              | 渭城朝雨悒輕塵 |  | 渭城の朝雨輕塵を悒(うるお)し |  
                              | 客舍青青柳色新 |  | 客舍(かくしや)青青柳色新たなり |  
                              | 勸君更盡一杯酒 |  | 君に勸む更に盡せ一杯の酒 |  
                              | 西出陽關無故人 |  | 西のかた陽關(ようかん)を出ずれば故人無からん |  |   須賀は津船の様子に笑みを浮かべる。「王維の有名な詩だが、これはずいぶん昔、西安で求めたものだ」
 部屋になじんでいるでしょうと言いたげな素振りに、恵理子がニコッとうなずく。
 「お願いして、そのまま残していただいたの。こちらのシャンデリアも、ね」
 ボヘミア・クリスタル製という須賀ご自慢を指差す。いずれも恵理子の趣味と調和している。
 掛け軸に目を戻して、
 「彼の別の曲で大地の歌≠セけど、お聴きになっているでしょう?」
 と一応の同意を求める。
 「中で王維の送別≠ニいう詩が歌われているのご存知? 掛け軸のとは違うけど、意味合いは同じ」
 「……大地、友、酒、別れ、ですか」
 津船がわかった風にいう。
 「時々この掛け軸を見ながらマーラーを聴いているのよ」
 横でご老体が、彼女の得意顔に満足げだ。
 食後も、マーラーの曲をバックに、話題が行き来して尽きない。
 絵画教室のことになると、マリが自分の油絵習作を奥の教室から何枚も持って来る。津船がお世辞入りで批評すると、彼女は気をよくして丁寧に応える。カンボジアの恋人の話は、言いそびれたようだった。
 開け放った窓から陽光が涼しい風を運んでいる。庭の芝生が目に痛い。須賀は昨年まで三十年間、この芝生を愛でもし、苦労もさせられた。
 手入れは自身の仕事だから、そういつも家族に頼むわけにはいかない。それと知らない来客は、何よりも芝生を褒めたがる。土曜日曜の日課だが、用ができてままならない日が多い。とくに近年は、老齢の身に憂鬱な重荷で、大半は業者任せになっていた。
 その須賀老人が感心するほど恵理子の手入れは行き届いている。
 ナシのデザートで昼食が終った。
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