12. 建築者 1
 店頭が柿でにぎわっている。富有柿、次郎柿、刀根柿、西村柿……。産地も岐阜、和歌山、福岡、奈良……。津船良平の楽しみは、晴れた日に、旨そうなのを一個選んで丸かじりしながら、境川沿いの並木道を浦安海岸へ歩くこと。今年も秋の幸せを味わっている。
 四十五歳のとき、脳梗塞で倒れた。もう二十年も前だ。医者に、早すぎると笑われた。早すぎたおかげか、左腕と左足のしびれだけという軽傷ですんだ。が、再発の可能性がないわけではない。それが悩みの種で、医者にずっと(いまし)められている。常備薬、飲食の細かい掟、運動……そして、「太っちゃいかん!」
 毎日曜日に海岸へ速足で歩くことが、会社を辞めてからは日課となっている。いつの間にか楽しい習慣になった。秋は柿の味が足取りを軽やかにする。あの時の病と後遺症は外見ではだれにもわからない。年相応の贅肉はあるが、キャップ・ポロシャツ・短パンツ、一七〇aの体型は悪くない。
 目の前は東京湾、彼方で太平洋に開けている。
 波打ち際で見る海景色は、いつも新鮮だ。遠く左に房総半島が弧を描くようにせせり出ている。右遠方は三浦半島だ。沖でタンカーがのろまに行き来している。あちこちに漁船やヨットが浮かび、レジャーボートが何隻も波しぶきを上げている。すぐそこで海鳥が餌を求めてしきりに潜っている。
 トライポッドを何重にも敷き詰めた一キロほどの防波堤は太公望のたまり場だ。西は港湾が(さえぎ)って行き止まりになっており、その向こうは広大なディズニーリゾートだ。が、人気のビッグサンダー・マウンティンも、炎まじりの噴煙を吹き上げるプロメテウス火山も、鉄鋼団地の工場やクリーンセンターの煙突が邪魔して、ここからは見えない。早朝彼方に見える富士山はいい眺めだが……。
 ウオーキングにあきたらず、山歩きをはじめたのはいつ頃だったか。それなりの喜びが加わった。近場の低山だが、月に一度は出かける。
 ……津船の住む十二階建て大型マンションも、境川沿いの海岸まで三キロほどのウオーキングコースも、五十年前は東京湾の海の中だった。
浦粕(うらかす)町は根戸川のもっとも下流にある漁師町で、貝と海苔(のり)釣場(つりば)とで知られていた。………
 町は孤立していた。北は田畑、東は海、西は根戸川、そして南には「沖の百万坪」と呼ばれる広大な荒地がひろがり、その先もまた海となっていた。………
 西の根戸川と東の海を通じる堀割が、この町を貫流していた。この蒸気河岸とこの堀に沿って、釣舟屋が並び、………』

 山本周五郎の『青べか物語』の舞台は、彼が浦安(作中では浦粕町)に住んだ大正十五年から昭和四年にかけてだ。
 もちろん堀割は津船のウオーキングコースのもっと北で、いまその延長が海に向かって境川という名の運河となっている。東側がマンションビル林立の埋め立て地を南へ突っ切り、浦安海岸で東京湾に注いでいる。『沖の百万坪』はどの辺りだったのだろうか。
 周五郎が東京府の東、根戸川対岸の浦粕町にいたちょうどその頃、府下西の果てで、兼松講堂の建築が行われたのだった。

 ウオーキングでうっすらと汗して帰宅すると、須賀五郎次先輩から封書が届いていた。シャワーですっきりしたあと、寛いで開封する。
 『ご一読を請う……』との直筆便せんを添えて、ワープロ文書は分厚い。まとめが出来たのだ。
 あの日、鎌倉市郊外の深海恵理子邸で、須賀はこう約束していた。
「建築学界の大権威である伊東忠太博士が、当時としてはずいぶん辺境の地の建築物を、設計から建築に至るまで全てを進んでお引き受けになった。多忙を押して現地通いを重ねられ、『精魂込めて造った』と本人の談話にある。これは法外な出来事だ。まず、商大側がどのようにして伊東博士に接触できたのか? 何が博士をその気にさせたのか? これもファサードに飾られた四神像の真相≠ノ迫る大きなカギだ。その辺の事情を私なりにまとめてみたい」
 几帳面な須賀老のこと、資料は紙縒(こより)で右肩が綴じられている。津船は見栄えだけでも感心しながら、本文を読みはじめた。
 …………

 国立新キャンパスの兼松講堂建築は、伊東忠太博士の設計で大正十五年(一九二六)八月に起工しました。この事業に携わった業者・関係者は、先日お見せしたように、竹中工務店をはじめ、伊東博士自らの選定じゃないかと思ってしまうほど、博士の旧知ばかりです。
 加えて、忠太博士に関する書籍や、当時の学内新聞、博士の談話、その他関係資料を(ひもと)きますと、まるで映画を見ているような錯覚に陥ります。

 ご承知のとおり、大正十二年九月の関東大震災で、商大の神田キャンパスが壊滅したあと、教授陣による復興委員会が昼夜を分かたず討議を重ね、年末には政府・議会に対し『新キャンパス建設案』を提出しました。残念ながら翌年初めに議会が解散したため、建設案は廃案になってしまいます。
 但し水面下では、案の通過を前提に、府下北多摩郡谷保(やほ)村の森林買収活動が開始されており、事実上、教授たちで構成するキャンパス復興委員会の案に沿って『国立(くにたち)学園都市』プロジェクトが進められていました。それによる新講堂の政府建築予算案は十三万円でした。

 そこへ、大正十四年二月に、神戸の商社・兼松商店が『記念講堂』として寄贈を申し出てくれました。卒業生の一人として、政府予算案の四倍に近い金額の五十万円も感謝この上ありませんが、同社の尊い志にただただ頭が下がります。
 そのため、新講堂だけが政府予算案から外れて、兼松商店の私設として建築されることになりました。
 その結果、他の建物と切り離しての工事進行が可能となり、早期着工も幸いして、工事大規模化に拘わらず、完成は政府管理下の図書館や本館の三年前、昭和二年(一九二七)十一月になりました。工期一年三ヶ月で、建築の全てを陣頭指揮したのが、設計者でもある伊東忠太博士です。

 いつどの段階で、博士に設計を引き受けていただいたかですが、私の考えはこうです。
 兼松商店の寄付を受けることになった大正十四年二月以降で、大正十五年八月の起工より少なくとも一年前、つまりその年(大正十四年)の春から初夏にかけて。谷保村原野に学園都市開発がスタートした頃です。
 それ以前では、小規模予算で融通性のない政府管轄でしたから、頑固で予算に縛られない伊東博士の出番もなかったでしょうし、以降だと独立独行の博士の準備が間に合わなかったはずです。
 余談ですが、場所が国分寺町と立川町の間であったため、キャンパス復興委員会はこの地を『国立(くにたち)』と名付けました。
 兼松講堂の建築ですが、建築委員長に佐野善作学長を据え、伊東博士ご自身は設計監督のみならず、建築委員にも名を連ねており、工程・業者の選定に至るまで、全てにタッチされたはずです。勿論業者決定は適宜適切な方法に依ったでしょうが……。
 さて、大正十四年(一九二五)の風薫る五月(としましょう)、東京帝大教授伊東忠太博士に『兼松記念講堂』建設構想が持ち込まれる……。博士五十八歳、東京商大・佐野学長は五十五歳でした。

12.建築者ー1の朗読 13’ 46”
< 11.集古館ー3 12.建築者ー2 >
目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
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