16. 白票事件 1
 蕎麦処(そばどころ)十和田の二階で、七人の四神会議がまだ続いている。
 三時にはじまった会議は、予定の六時を三十分も超えた。
「そろそろ夜の部にしましょうよ」
 幹事役の祝田睦美が声を掛ける。
「そうですよ。お堅い話はそれまで。テーブルの上をきれいにして」
 名物女将がテキパキと係員たちに指図する。
 たちまち会議は宴席へと変わった。津船良平は立ち上がって、窓越しにすしや通りを見下ろす。街路灯が煌々(こうこう)として、アーケードの通りは明るい。結構人通りもある。ここでは用のない傘をぶらぶらさせながら行き交っている。
「浅草の夜ね。寒そうだけど、にぎやかになってるわ。食堂は満席よ」
 野溝マリは階下で気分転換をしてきたのか、席に着くや伯母の恵理子に話しかけている。
 大振りのハマグリ貝に乗った十和田特製の『蕎麦味噌』が出て、料理が次々と運ばれてきた。
 座がにぎやかになって、思い思いにグラスを傾け、料理に箸をつけはじめる。女性は近況談義に花を咲かせている。
「枡酒はまだ?」
 須賀老人は待ちきれないようだ。蕎麦味噌にはこれがなくては。

 テーブルに並んでいた料理は、あらかた無くなり、酔いも手伝ってか、先ほどまでの堅い雰囲気は消え、歓談たけなわである。
 胡座をかいて談笑していた川治啓造が、思い立ったように正座した。周囲のけげんな顔々をよそに、ビールを一杯(あお)って天井を仰ぐ。ほろ酔いも手伝ってであろう、表情は往年のバンカラだ。
「話を戻すようですが……」
 一オクターブも低いバリトンで須賀に迫る。
「先輩は佐野学長をどう思われますか? 白票事件で失脚したのは有名な話ですが……。キャンパス移転や国立(くにたち)学園都市建設では第一の功労者だったでしょう!」
 不意の問いかけに、須賀は枡酒を注意深くテーブルに置く。聞き耳を立てる周囲を意識してか、重い口でぼそっと言う。
「アキレス腱なんだよね、この事件は、学園にとっても……」
 いずれ話さねばと思っていたようだ。逃げるわけにいかない。
「籠城事件はともかく、正直いってこれは純粋に後日談だから。講堂完成から八年も経っているし、講堂建設のいきさつと四神像には一応無縁なのでね」
 と言いつつも、須賀は孫ほども若いマリと目があって、踏ん切りがついたようだ。
 彼女は〈もったいぶらないで!〉と言っている。
「白票事件は昭和十年(一九三五)の出来事だ。籠城事件からでも四年後になる。先生方の派閥争いが高じたのでもあろうが、佐野学長が責任を取って辞任したあと、山形から元教授の三浦新七氏が急きょ後任として呼び戻され、収拾にあたったということになるのだが……」
 どのように話を進めようか、須賀はあれこれ迷っている。
「私は昭和十一年の入学だから、まだ事件の余韻があったね。が入学直前に二・二六事件が起きるやらで、世の中(あわ)ただしくなっていた」

 須賀の言う二・二六事件は、陸軍皇道派の青年将校ら約千五百人が、『昭和維新』、『尊皇討奸』をスローガンにして起こしたクーデター未遂事件のことだ。内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清らが殺害された。岡田啓介首相は警察官の応戦の隙に押入れに隠れ、危うく難を逃れた。反乱将校らは秘書官を殺害し、それを首相と誤解したことによるとされている。首相はその後、弔問客に変装して、官邸から救出された。

「東京でも雪降りしきる日だったようですね。あの年でしたか……先輩が入学されたのは」
 映像の記録を思い浮かべたのだろう。川治が須賀を見つめて、ため息まじりに言う。老先輩もつかの間懐かしんだか。
 その前年の白票事件に戻って、
「佐野さんは、長年にわたる君臨のツケで追われた身。弁護するような雰囲気は全く感じなかったね。学内の評判は最悪だった」
 テーブルに片手を置いたまま、老先輩は欄間を見るともなく話している。
「私たちは、三浦さんやすぐあと学長になられた上貞さん(上田貞次郎教授)を敬愛してやまず、その分、先輩たちの受け売りで、佐野さんをこき下ろした。だから三十年ほど前に百年史の編さんにたずさわったときも、佐野さんを特別に功労者として取り上げた覚えがない」
「ねえ、おじいちゃん。白票事件はまだ?」
 マリはじれったそうだ。老人の感慨までは気が及ばない。
「ここでまとめられてはいかがですか」
 恵理子が優しく促す。
 須賀は遠い過去から目覚めたように、
「わかった。これも学園史の一断面ということで……」
 と、手製の年表を広げ、兼松講堂完成以降のところをなぞっていく。

昭和二年
(1927)
11月、兼松講堂竣工
昭和五年
(1930)
福田徳三死去
図書館・本館完成
昭和六年
(1931)
5月、キャンパス国立移転式挙行
5-6月、佐野学長辞任騒動
10月、籠城事件
11月、渋沢栄一翁死去
昭和一〇年
(1935)
7月、白票事件
10月、佐野学長依願免官
 白票事件の四年前に起きた佐野学長の別の辞任騒動≠ノついては、渋沢翁の最晩年の絡みということもあって渋沢史料館を訪れた帰りに、須賀が津船と恵理子に話していた。
「そのときはご子息の左傾問題ということでしたわね」
 恵理子の問いかけに応えて、少しかいつまむ。
「あの騒動はちょうど神田キャンパスの国立への移転完了式の直後に起きた。そういう特別なときでもあって、学内総掛かりで慰留運動が行われ、結果的に渋沢翁の尽力によって、佐野さんが翻意したということになっている」
〈早く本題にはいってよ!〉
 と()いているマリに気づいているのかどうか、須賀の迂回癖がまだ続く。
「その一年前に福田教授が急死された。糖尿病で入院していたのだが、盲腸炎を併発されて、五十七歳で逝ってしまった。積極果敢なオピニオン・リーダーで、佐野さんに取っては目障りな相手であった代わりに、後継者ともなりえたのだが……」
〈早く!〉
 焦った顔のマリに目をやって、ご老体は温和な表情でうなずく。
「十月には例の籠城事件が起こった。それが収まった直後に、渋沢翁が九十一歳で永眠された。この二人の相次ぐ死は、今にして思えば、佐野さんにとって悲劇の前兆だった。よき恩人と、歯に衣着せぬ論敵を同時に失ってしまったのだから。白票事件は、いわば起こるべくして起きたといってよい」
「いよいよね!」
 マリはやっと目を輝かせる。

「よろしければ、白票事件も」
 老先輩の疲れを気遣ってか、川治が助っ人を志願する。
「これに沿って、私が説明しましょう。あとは補足いただくとして」
 そう言って、手元の資料を見せる。
「では、お願いしようか」
 ご老体はうれしそうだ。川治はまたも正座して、得意の台詞(せりふ)ではじめる。先ほどの興奮はない。

16.白票事件ー1の朗読 11’ 16”
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目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
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