16. 白票事件 2
「当校の歴史を(ひもと)きますと、佐野先生が学生として入学に始まり、教職を通してあれだけ長きにわたって、母校に尽くしながら評判良くないのは、大きな弱みがあるからです。それが白票事件です」
 女性の後輩二人も知ったかぶりは消えて、今青年&ル士の聞き役に回っている。
「昭和十年と言いますと、籠城事件から四年近くたって、国内では軍国主義と世情不安がさらに加速していた頃でした。須賀先輩入学の一年前でしたね。その年十月に、東京商大の学内で、経済学博士号請求論文の審査がありました。三助教授が論文を提出して、二人はすんなり通ったのですが、問題はもう一人、杉村廣蔵助教授の論文です。若干革新的な論調ではあったのですが……」
 と、自身の感想を交える。
「審査員の教授は二十一名で、合格するには、その四分の三(十六票)以上の『可』とする票を得なければいけませんでした。杉村助教授について(ふた)を開けると、『可』とするものが十三票、『不可』が一票で、白票が七。つまり、『可』が四分の三に満たず、否決されてしまいました」
 一区切りの息を継いで、一同の理解を確かめる。
「白票を投じた七人は、佐野学長配下の教授をはじめとするベテランばかりで、学長の説得に応じた結果だと言われています。不合格の審査結果と投票の内容が伝えられると、当然若手教授・助教授、それに学生たちからは非難の嵐で、収拾困難な事態になってしまいました」
 須賀は目をつむってうなずいている。川路はそれを承知して話を進める。
「政府はこの商大内紛を静観するはずがありません。ここぞとばかり、力による沈静化、懲罰、外部からの学長派遣、といった強圧的な姿勢を示しはじめました。新聞も放っておきませんから、世間も騒ぎはじめる。それこそ創立以来初めての学園内紛が国民の目に曝されてしまいます。国情不安定な中で、これを各紙が社会面で大きく報道し、非難囂々(ごうごう)。当然のことですが、佐野学長は辞任せざるを得なくなります。腹心の教授たちも共々に学園を去ります。東京高商の頃から数えて二十一年二ヶ月に亘る学校長の最後でした」
 弁士の熱もこもってきている。
「二十一年……!」
 だれともなく女性の声があがる。
「そうなんだよ」
 須賀もつぶやく。
「それからどうなったの?」
 マリは性急だ。
 弁士はうなずいて次へ進む。
「すぐさま、政府の介入を何とか食い止めなければ、と学内外の長老が動きます。そして当時山形銀行の頭取をやっていた三浦新七先生に、火消し役を頼むことになります。三浦先生の心中は複雑だったでしょうね。わかりますよ……」
 弁士・川治の苦い表情に、祝田睦美がほてった顔で手を挙げる。
「引退されて山形で別の仕事をなさっている三浦先生に泣きつくなんて、どういうことかしら。山形ですよ、東北の。外に人物がいなかったの? 籠城事件の時の、渋沢老人のお宅への駆け込みといい……」
 津船がここぞと受けて、
「二十一年にもわたって佐野学長をトップに居続けさせたり、今度はすでに去って遠くで別の職にある過去の先生を担ぎ出したり……、主体性がないというか、もたれ合いの構造じゃないですか」
 勢いはまんざら酒のせいでもない。
 川治もこの場はそのとおりと、
「三浦先生としては、わざわざ火中の栗を拾いに行く役目ですから、固辞したのは当然です。大事な仕事を持っておられることですし。それでも結果的になぜ要請に応じたのか、その辺の事情は今となっては謎ということなんですよね」
 と、ほてった顔を須賀に向ける。老先輩は目を閉じたままで、発言する様子はない。
 援護射撃なしと見て初老の今青年は、
「三浦先生も自分の母校ですから、生まれ育ち、また自らも長く教壇に立った大学の、崩壊にもいたる危機と覚悟して、意を決されたのでしょうね」
 と言葉をにごし、後輩の不満分子を見ながら、ごま塩頭を二度三度掻いて付け加える。
「燃え盛っていた騒動の火は簡単に消えたわけではないのですが、三浦先生と弟分とも言える上田貞次郎先生を核とした教授陣の献身的努力で、一応翌年の昭和十一年には嵐が収まります。その十二月に、三浦先生は『火消し役としてきたのだから』と、慰留を振り切った形で学長を辞めてしまいます。やむなく開かれた教授会は、満場一致で上貞先生を後任に推すということになるのですが」
 と区切って、頭をぼりぼりやる。「先輩はその年予科に入学されたのですから」と匂わせながら、須賀を見やり、
「短絡といわれそうですが……私の知る白票事件の顛末はこんなところです」
 老先輩はやっと目を開けて、弁士を労う。次いで資料の『杉村論文』のところを指さして、
「この論文だがね……」
 と、言い添える。
「三浦さんが骨折って、岩波書店から『経済哲学の基本問題』として世に出た。学校の図書館で今も読めるはずだよ」
 そう言ったあと、
「事件さ中のこぼれ話を一つするとね」
 と、エピソードに及ぶ。
「後に総理大臣をつとめた大平正芳氏は、その時本科三年で、学生会の幹部だった。彼らが築八年でまだ真新しさを残している兼松講堂に学生を招集し、渦中の杉村助教授を呼んだ。杉村氏が演壇に立って、満場の学生たちを前にふるった熱弁は、概略こんなものだった」
 学問の世界では、どの分野においても、潮流は一筋や二筋だけでなく、様々に()りあって大きなうねりをつくり出している。
 そうしたうねりの一番高い波頭(なみがしら)に上りつめたとき、私たちはぐるり三六〇度の視野を自分のものとすることができる。(中略)
 潮流全体を見渡す複眼をもつことが、近代的学問の前提になる…………

「これは当時専門部一年で、その場に居合わせた小宮山量平氏が、著された小説で触れておられる」
 と、須賀はもう少しこの書『千曲川』(理論社)を引用する。

 大平たち学生幹部は、事実上の学生大会を『杉村廣蔵先生講演会』とし、演題を『一番高い波頭(なみがしら)の上で』と一方的に指定し、杉村助教授に有無を言わせなかった。内容も、『本日は、学者本来の分を心得た学問論を述べてほしい』と要望した。
 並み居る学生同僚を前に、香川県三豊郡(現観音寺市)生まれで高松高等商業出身の大平は、司会者として、もったりとした讃岐訛り≠フ訥弁(とつべん)で本大会の趣旨を述べる。
 登壇したチャップリン流のチョビ髭、金縁メガネの杉村は、
『まさに時の人、渦中の人物として、大いに思いのたけ≠語らせていただくつもりで意気込んでおりましたところ、只今の司会者大平正芳くんから、演題も内容もこうでなければならんと……。試験場でいきなり答案用紙を突きつけられたような書生気分になって、本日は所信の一端を語らせていただくつもりです』
 そう言って講演をはじめた。
 その三年ほど前の京都帝大・滝川事件と、三年あとの東京帝大・河合事件が、名だたる学生運動とその弾圧で、今も語り継がれている。その狭間で、東京商大の白票事件は、学生たちが『武蔵野の林間に大きく響き渡った熱い拍手』とともに表舞台から消し去って、『学問の自由』を死守した。
 杉村助教授は、その直後、白票を投じた教授やそれに反発した助教授たちとともに、『学内を騒がせた責任を取って』校を去った。

「引き際というのは難しいものだね」
 老先輩は自分に語りかけている。
「辞めりゃいいのに、と傍目(はため)にはよく分かるのだが、本人はいつまでも使命感に燃えている。独善・独裁・猜疑心で、たて突いたり気にくわないものは片っ端から追っ払ってしまう。残るは取り巻きのイエスマンばかり。チヤホヤされて、裸の王様であることに気がつかない、……いつまでも」
「二十一年二ヶ月とは、まわりもいい加減ですし、文部省もよく放っておいたものね」
 と恵理子が、マリのお株を奪って先ほどの興奮を蒸し返す。
 津船も、
「国立キャンパス完成までは肯けるのですから、あの辞任騒動の時に、スパッと辞めていれば……。それでも遅きに失し過ぎていますが」
 憤まんがまだ残っている。
 山辺みどりもここはメモ帳をよそに追い打ちをかける。
「籠城事件では病気で、職責を果たせなかったわけですし。キャンパスが都心から遠かったのも幸いしたのでしょうが、政府の介入をよく防げたものですよね」

 須賀老はうつむき加減に言う。
「結局白票事件が佐野体制のあと味の悪い幕引きとなった。佐野さんは孤立無援のまま、六十三歳で校を去って、その後は一切公の席に出ていない。昭和二十七年(一九五二)に八十歳で亡くなった」

16.白票事件ー2の朗読 15’ 16”
< 16.白票事件ー1 17.堅い蕾 >
目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
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