恵理子の計らいで、しばらくロッキングチェアに横たわっていた須賀だが、
〈……夢か〉
決まり悪そうに
微睡みから覚めた。また四神像にうなされたのか、つかの間の休憩だった。
彼女は自慢の煎茶を入れ替えている。舟和の芋羊羹がテーブルにある。須賀の浅草土産だ。行く度毎の定番である。
津船はCDデッキのそばにいて、デュカスの『魔法使いの弟子』を鳴らしている。漆黒のNS1000Xスピーカーは、高低強弱をリズミカルに躰に伝える。
〈……そうだったのか〉
須賀はこの曲の押し寄せるリズムに、さっきの夢が合点できたようだ。
──(魔法使いの)弟子が師匠の留守をいいことに、うろ覚えの呪文を箒にかけて、日頃命じられている水汲みを代わりにやらせる。ところが魔法を解くことが出来ない。見る間に水は水甕から溢れ出る。慌てて斧で箒を真っ二つに割ると、それぞれの箒がまた水汲みをせっせとはじめる。トントントントン……一本足が両手のバケツを満杯にして次々と続く。ザーザーザーザー……甕から水が溢れかえる。部屋が大洪水となってしまう……
マリが歩調を箒のリズムに合わせながら、換気のため開け放っていた窓ガラスを閉めに行く。見計らったように曲は終わる。
生あくびしながら席に戻った須賀老が、申酉事件終えて関東大震災まで十数年の簡易年表を配る。
大正十二年(一九二三)九月の大震災に伴う学園移転という本題の前に、長い生みの苦しみを伴った商大誕生のいきさつとボート部OB四神会≠フ関わりについて話したいようだ。
明治四十二年(一九〇九)に高商学生全員による退学を賭した政府への抗議、いわゆる申酉事件が起きた。逮捕者、負傷者が続出する中で、教授陣、OB、関係団体、組織、ひいては部外著名人も多数応援に駆けつけ、総勢が一丸となって学生を支援した結果、すでに施行されていた政府決定を覆したのだった。それによって、かろうじて東京商科大学誕生への流れとなる。
ただしそこに行き着くまで、事件から十年余を要した。
大半の理由は、第一次世界大戦に至った激動の国際情勢と、日本国内では隣国侵略への加速に翻弄されたことによる。
申酉事件の数年前に終結した日露戦争(一九〇四〜〇五年)はまだ尾を引いており、大正元年(一九一四)には第一次世界大戦が勃発する。
大戦の端緒は、その年七月にオーストリア皇太子夫妻がボスニアの首都サラエボで暗殺された事件。これがヨーロッパを中心に世界各国を巻き込み、一九一八年まで延々四年間に及ぶ。
それに前後して、中国では王朝が滅び中華民国成立(一九一二年)、そしてロシア革命(一九一七年)。
日本はすでに朝鮮半島の植民地化をなしており、満州支配の野望の実現に向かってひた走っていた。
須賀老人は、そんな時代背景における学園の動きを、商大誕生の頃に絞って自前年表を示す。
明治四二年
(1909) |
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申酉事件 |
四五年
(1912) |
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政府、「専攻部廃止令」撤廃
(高商潰しは一応終結) |
大正三年
(1914) |
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関教授、大阪市助役転出のため辞任 (後、大阪市長)
佐野、東京高商校長に任命される (生え抜きで初)
第一次世界大戦 |
八年
(1919) |
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四神会発足 |
九年
(1920) |
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東京商大に昇格 (佐野、初代学長)
佐野学長、端艇部長を併任 |
一〇年
(1921) |
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ボート、隅田川で初の優勝 (九大学参加、第二回インカレ) |
一二年
(1923) |
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九月、関東大震災
神田からのキャンパス移転を決断 |
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「いわゆる三博士≠ノついてだがね」
と、いつもの寄り道癖だ。
東京高商時代から申酉事件を経てキャンパス移転決断の頃までを通じて、学園の屋台骨であった三人の有力教授のことだ。商大誕生に向かっての彼らの活躍とそれぞれが実力者ゆえの確執にふれないわけにいかない。
「キリスト生誕の時に、はるばる東方からやって来た賢者でしょ? まさかそれが学園と関わりでも…」
恵理子が冗談まがいに言うと、
「なるほど、そちらの方が有名だったね」
須賀はそこまで考えてなかったようで、毛のない頭をなでる。
「新約聖書よ。多分マタイ伝…」
笑いながら彼女は付け足す。
「こちらは当校の話なのだが」
と、今度はご老体が変な謎かけをする。
「博士号というと、今では足の裏の飯粒≠ニまで言われているようだが……」
マリが黒目を際立たせる。須賀老は楽しそうに彼女を見ながら、
「取らないと気持ち悪いが、取っても食えない、とね」
「あらまあ!」
顔をほころばせるマリに、
「大勢すぎて、勲章とは言えないということだ。しかしあの頃は末は博士か大臣か≠セったからね」
マリは納得の表情に戻る。
須賀老が言いたい三博士は、佐野善作、福田徳三、関一のことだ。
──福田はドイツ留学当時、ミュンヘン大学で博士号を授与されたが、明治三十三年に東京帝大法科大学でも、論文審査で、法学博士号を取得した。
その十年後、申酉事件が収まって年を越した明治四十三年に、教授に復帰した関が、またその翌年に佐野が、相次いで法学博士になる。当時としては特筆もので、学界では彼らを『高商の三博士』と呼ぶようになった。
この三博士が陰に陽に学園のトップ争いを展開するが、いずれは一人に絞らざるを得ない。
「結果的に」
と老人は居住まいを正して、
「大正三年(一九一四)、つまり申酉事件の五年後になるが、三人のうち、佐野善作が高商の校長に任命された。商法講習所として創立以来、三十九年目で初の生え抜き校長の誕生だ」
「その年って、第一次世界大戦がはじまった年でしょ?」
マリが気づいたように発言する。
「そうなんだ。ヨーロッパ中が底なしの泥沼にはまり込み、世界の主要国を巻き込んで、それが数年に及んだのだったね」
と、ご老体は大きくうなずき、加えてこう話す。
「日本もこれを遠く外野席から眺めるというわけに行かなくなっていたときだ。だからこの三博士の話、学園以外ではうわさにも上らなかっただろうが……」
と、もう少し言いたいようだ。
「佐野、関、福田の、どなたが校長になってもおかしくはなかった。佐野と関は同い年で、佐野が一ヶ月早生まれの四十歳。福田は彼らより一歳下だった。業績はもとより、リーダーシップ、人望、どれをとっても三人横一線で、なかなか甲乙付けがたかった。私にはそんな位置づけだ」
佐野善作が東京高商校長に任命された結果、
関一は大阪市助役への転出を決断し、直前に大阪へ去った。大物人気教授の突然の退任だから、その時全校挙げて猛反対したという。 ……後、関は大阪市長の職を果たした。
福田徳三は熱血漢で、学内きってのオピニオン・リーダーだった。学問でも、校の先導役としても、功績大だった。
その血気盛んな福田が、天下り校長の松崎に食ってかかって休職処分にあい、申酉事件の三年前(明治三十九年)に高商を退めている。
その一年前から大正八年まで十三年間、慶應義塾で教鞭を執った。従って、申酉事件の時は渦中にいなかった。慶応で小泉信三や高橋誠一郎らを育てたことはよく知られている。
その後高商に復帰したが、学長候補としては水をあけられていたのであろうし、本人にもそういう野心があったとは考えにくい。五十七歳で早世した。