関東大震災が東京を直撃したのは、大正十二年(一九二三)の九月一日だった。東京高商が東京商科大学に昇格した三年後のことだ。
東京一帯は瓦礫の焦土と化し、同大学の神田キャンパスも、東京帝大や他の大学と同様に無惨で、全校舎が倒壊・消失した。須賀五郎次三歳のときで、彼は埼玉県の熊谷にいたが、あの辺でも相当な被災を負ったらしく、幼心に思い出があるという。
一方、この天災が学園に新たな歴史をもたらすことになる。
須賀老はその流れを年表で示す。
九年
(1920) |
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東京商大に昇格(佐野善作、初代学長)
佐野学長、端艇部長を併任 |
一〇年
(1921) |
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ボート、隅田川で初の優勝
(九大学参加、第二回インカレ) |
一二年
(1923) |
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五月、府下石神井村に運動場用地を購入(二万四千坪)
九月、関東大震災 |
一三年
(1924) |
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箱根土地と、北多摩郡谷保村移転の仮契約 |
一四年
(1925) |
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兼松商店、『兼松記念講堂』として、講堂の寄贈を申入れ
谷保村(現国立市)移転に関し、文部大臣認可 |
一五年
(1926) |
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四月、国鉄中央線、立川ー国分寺間に国立駅開通
六月、国立キャンパスグラウンド開き
八月、兼松講堂起工 |
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「このようにことがスムーズに運べば世話なしだが」
と須賀老は一言加えて、舞台を関東大震災発生当時に移す。
──大震災は地震の災害もさることながら、追い打ちの火災がひどかった。そのため、その時に東京帝大の図書館が全ての図書もろともに消滅したことは歴史的な悲劇だが、東京商大は、図書館だけが奇跡的に免れた。おかげでメンガー、ギールケ文庫といった貴重な書籍が幸運にも消失せずにすんだ。
メンガー文庫は、経済学者でウイーン大学教授だったカール・メンガーが蒐集した経済学・社会思想の書籍約二万冊から成っている。
ギールケ文庫は、ベルリン大学教授だったオットー・フォン・ギールケの蔵書で、法律関係の書籍約一万冊だ。
そして震災の一夜が明けた。須賀はその直後に焦点を絞る。
「佐野学長は、復興にかけて一瞬も無駄にしまいと、陣頭指揮した。大変なリーダーシップだったようだ。即刻『震災善後委員会』を設置した。この委員会が中核となって学内の動揺を最小に抑え、全国のOBに復興支援を呼びかけた。同時に佐野さんは、別組織として教授たちで構成する『キャンパス復興委員会』を立ち上げた」
と意味ありげに、
「これはね、私に言わせれば、震災をむしろ神風と受け止めて、この際と、場当たり的な『都心の同じ場所にキャンパス復元』を捨てて、『東京府下に新天地』を求めようとするものだった。いわば、学園を生み育てた渋沢栄一が思い描いていたであろう理想の『学園都市』を目指すのだが……、委員の名前を見てごらん!」
と、自慢たらしい。
全て有力教授で、なじみの顔ぶれが並んでいる。
佐野善作、堀光亀、三浦新七、上田貞次郎、木村恵吉郎、内藤章、奈佐忠行、星野太郎、高垣寅次郎、内池廉吉、孫田秀春、金子鷹之助、青山衆司、福田徳三、井浦仙太郎、黒川善一
感心する後輩にうなずきながら、
「私は、委員のほとんどが、前々から市中心部の神田キャンパスからどこかへ移転の考えを持っていた、と見ている。個性豊かな役者揃いだから呉越同舟の感もあるが、移転に関しては鉄の団結だったはずだ」
そう言って、須賀は足を組み替える。いよいよ学園の移転だ。
「佐野さんは、委員の総意として、神田キャンパス移転を決議させ、遠く武蔵野を候補地とする。渋沢翁も、自身田園調布≠フ生みの親で、前から田園都市構想を持っていたから、わが意を得たように了解したにちがいない。あるいは当初からこの話に関与していたのかもしれない。今では八王子市やつくば市が学園都市として、都心から遙か離れてむしろ羨まれるくらいだが、当時としては奇想天外! 第一、行き先が府下西の果てと提案されて、心底賛成した教授や職員が本当にいただろうか。そう疑いたくもなる。便利な都心から一転して人里離れた当時は原野だからね。だれが赴任する気持ちになれる? まして家族もいることだし。左遷というより島送りのイメージだからね。不便どころの騒ぎではなかったでしょう」
恵理子が津船にぼそぼそつぶやく。
「今ではあこがれの田園調布ではなく、未開の原野よ。それも突然。あなたなら如何? お子様三人がもっと幼い頃として」
津船は答えに窮する。
老先輩は、横のぼそぼそが耳に入ったかどうか、茶でのどを潤して続きにはいる。
「佐野学長のライバルだった関教授は、そのときすでに大阪へ去っていた。彼は、『学園は都心にあらねばならぬ』論者だったから、関さんがおれば大もめしただろうね。構想としては、壮大な学園都市ではあっても、現実は交通手段にも事欠くような、文化果つる奥地の森林原野だったのだから」
須賀老は手元の文庫本をめくって、その箇所を示す。
『今にして、武蔵野原野への移転は神田の都塵を離れて、オックスフォードやケンブリッジ同様の学園都市を築く構想に出たもので、まことに先見の明があった……。
併し最初は交通の不便と悪路に悩まされ、学生は神田の灯とむかしのキャンパスを恋しがった…………』
「佐野学長が委員たちをどのように説き伏せたか、委員の大勢が賛同してそうなったのか、残念ながら確かめようがない。『官』への歴史的抵抗もあって、都会の中心を離れたところに新天地を求めたい気持ちが観念的にどの教授にもあったと思う。渋沢翁の心強いあと押しは欠かせなかっただろうが」
歯切れは悪いが、一気に持論を吐露している。
「なぜ武蔵野になったの? 移転の考えはわかるけど、どうしてすぐそこになったの?」
マリが首を傾げ、身を乗り出し気味にそう尋ねる。が、すぐに元の表情に戻り、今度はうつむき加減に加える。
「それより私、思うのだけど、先生たちもご家庭を持ち、震災と無縁ではなかったのでしょう? ご自身の身の回りはどうだったのでしょうか? そちらのほうが気になるわ」
三人とも一瞬われに返ったようだ。彼女の視点の異なるセリフに須賀老はハタとうなずく。
「なるほど、そうだったね。確かに先生方それぞれに大変な問題・悩みを抱えていただろうね。だからそんな中で私情を振り切って学校のことに専心されたわけだ。ありがとう、マリさん」
と、ぎこちなく話を本題に戻す。
「そう、なぜ移転先がすぐに武蔵野に決まったのか? これが意外と難しいんだよ」
と、須賀老はまた足を組み直す。
「一応移転候補地として、この北多摩郡谷保村と、石神井の運動用地に近い北豊島郡大泉村(現練馬区大泉学園)の二カ所が挙がって、佐野学長が谷保村のほうを選んだとされているのだが……。それ以上は分からないのだ」
と、本人も申し訳なさそうに首を傾げる。
後輩の津船は何か気づいたように、
「谷保村を開拓して国立学園都市にしたのは堤康次郎の会社でしたよね。その『箱根土地』から二カ所の案が出され、大泉村はいわばダミーだった。佐野学長はそれに乗っかる形で、当然の如く谷保村を選択した……というのでは?」
「うーん。私はそうではないと思っている」
と言いつつも、老先輩は決め手なげに、
「まず東京商大側だが、予め頭に入れておきたいのは」
と、自作のワープロ資料を見せる。
1. |
学長の佐野は、富士山の麓(静岡県富士郡加島村)の出身で、田園主義者、造園家。留学時に、学園都市を現地調査している(ケンブリッジ、オックスフォード、ハーバード、……)。 |
2. |
とりわけドイツの大学町ゲッチンゲンが気に入っていた。松林と雑木林の広がる谷保村の原野が、佐野の理想イメージに近かったか。 |
3. |
(復興委)有力メンバーの福田、上田、三浦も武蔵野≠ノ賛成した、または共同提案者だったか。 彼らも欧州留学組で、学園都市論者。移転に積極的。 |
4. |
佐野腹心の堀光亀教授は国の復興委員会にも名を連ねている。大所高所に立った堀の助言もものを言ったか? |
5. |
震災の四ヶ月前に、武蔵野北部の石神井に運動場用地として二万四千坪の土地を購入していた。震災の翌年から、予科の全てをその敷地の仮校舎に移した。大泉村はそこに近いが、谷保村も遠くはない。 |
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それでもご老体は歯切れの悪さを認める風で、壁の時計を見上げる。七時前だ。トイレから帰って、漫然と窓越しに目をやる。外は暗くなっている。
「温かいのがほしいね」
マリが茶を入れ替えながら、
「おじいちゃん、無理しないでいいのよ」
ここは彼女も冗談めいてない。聞き役三人の気持ちを代表したように話しかける。
「それよりみなさんは?」
須賀にやめる気配はない。
「キリのいいところまで、もう少し話したいのでね。あと一時間ほどつきあってほしい」 |