9. 大震災 2
 深海恵理子邸の洋風居間は、前住人須賀五郎次の趣味を引き継いだかたちで、ボヘミア・クリスタルのシャンデリアが落ち着きのある光を投げかけている。
 津船は芋羊羹をほうばりながら、席を立って窓際へ行く。遠くで夕焼けのなごりが美しい。屋根越しに見える遠くのシルエットは丹沢連峰か。
 恵理子は、平凡社の大百科事典から一冊を取り出して、ページを追っている。
 須賀の後ろに回って、手慣れた格好で肩を揉んでいたマリが、
「少しは楽になったでしょう」
 ご老体はいかにも気持ちよさそうだ。

 関東大震災のあと、東京商大の神田キャンパスがなぜ他でもない府下武蔵野へ移転することになったのかについて、須賀はまだ納得しうる資料や情報を入手していない。
 被災後間もなく、佐野学長は箱根土地社長の堤康次郎に会っている。学内にキャンパス復興委員会が設置されたのは、その一週間後だった。
 緊急事態という状況を踏まえて、佐野の素早い行動に感嘆する一方、

〈移転候補地物色の協力者が、なぜ箱根土地だけだったのか? なぜ素早く武蔵野原野の谷保村に絞られたのか?〉

 そんなもやもやが、須賀の胸にわだかまっている。
 自身調査不足を認めているとおり、いずれ、佐野が接触したであろう他の不動産会社や、武蔵野と大泉村以外の候補地が判明してくるかも知れない。
 そういう物証に出合えぬもどかしさを、須賀は珍しく表情に見せる。
「こじつけめいて気が乗らないのだが……」
 湿ったトーンだ。
「私たちの命題は、兼松講堂とファサードにある四神像の真相追求だから、ひとまず先に進ませてほしい」
 この移転先の選定と業者関連について、須賀は
〈学内に資料もそろってあるはずだから、すぐに片付く〉
 との見通しのもとに、学校関係者に電話や手紙で問い合わせていた。が、意外に正鵠(せいこく)を射た回答がない。傍証といえそうな情報は幾つか受けたが。
 その一つ、とくに同大学社会学部の月岡勇夫教授のもたらした資料が、須賀にとって論理組み立ての貴重な材料になった。
 教授も学園の歴史を追求していたらしく、同封の便せんに考え方を述べていた。
 資料は大部だ。キャンパス移転当時の新聞・雑誌の記事や掲載広告、国立町の広報……、他に佐野善作に関する諸資料と子息の論文。これらのほとんどは、須賀が初めて目にするものだった。

 こうした情報を援用して、キャンパス移転についての須賀の推測がはじまろうとするが、恵理子は移転を動機づけ加速させた大震災そのものにとどまらせる。先ほどから調べていた百科事典を前に口火を切る。

「関東大震災ですけど……これによりますと」
 舞台は大正十二年(一九二三)の九月一日だ。
「震源は『相模湾の北西隅付近』で、マグニチュードが『七・九〜八・二』、被害の最もひどかったのは『東京と横浜』とあるわ。人口密集地がもろに被害を受けたわけよね。全壊家屋、半壊家屋ともに十万戸以上で、消失家屋は四十万戸以上、死者・行方不明者合わせて十万人以上。とくに東京は大火事が追い討ちをかけたから、いまは都区内にあたる市内だけでも『死者総数は六万人を超え、そのうち焼死者が五万数千人』とあるわ」
 どうやらこれで四人の足並みがそろったようだ。
「ありがとう」
 と、須賀老がこの惨事の流れを母校のその後に引き継ぐ。

「関東大震災で神田キャンパスが壊滅した九日後に、『佐野学長が箱根土地の社長堤康次郎氏に会った』と、月岡さんからいただいた資料にある。次いでその一週間後の九月十六日だが、学内に『キャンパス復興委員会を設置、学長の佐野を含めて十六人の教授を委員に指名』ともある」
 須賀は三人の反応を確かめるように、念のためにと資料をもう一度示して、
「委員は福田、上田、堀、三浦……、有力教授オンパレードだ。定めし激論の応酬もあったろう。但しここでまとまれば学内は説得できたはずだ。それほどの強力メンバーだから」
 激論の内容が須賀の最も知りたいところだが、その関連資料は見つかっていない。
上貞(うえてい)さんが自伝でかすかに雰囲気を伝えてはいるが……」
 後に学長となって一年で急逝した上田貞次郎教授が残した日記である。

『年内だけで十数回の委員会が開かれた。最も多く時間を費やしたのは敷地移転問題、仮建築及び本建築の設計で、度々夜にかけて議論したり相談したりした』

「議論の一端でも触れてくれていれば助かるのだが」
 須賀の不平を受けて、恵理子が当然のように言う。
「議事録はあるのでしょ?」
「それが見当たらないようなのだ。おかしいでしょ? 熱心に探してくれてるのだが……」
 須賀のあいまいもこに、
「復興委員会って、もちろんオフレコではないですよね。公私にわたって支援もほしいわけですし……」
 後輩の津船も首をひねる。重ねて、
「十六人の教授が侃々諤々(かんかんがくがく)したのですから、仮に議事録が見つからないとしても、委員のどなたかがどこかに書き残しているはずですよ。上田教授もそうでしょうし」
「連日の委員会だから、その全てに何の痕跡もなければ、管理がずさんというよりも、何かあったと疑われても仕方がないね」
 須賀はわだかまりを断ち切れないようだ。三人も同じ。佐野学長の独裁・専制、取り巻きの功利・功名心、堤社長の暗躍……。
「ただね、……一般論としては、こういう風にも言えないかな」
 ふっきれない疑念を振り払うように、須賀老はメモ一枚を見せ、一旦視点を変えようとする。
「佐野学長や、ドイツ帰りの福田・井浦・堀・三浦・上田らは、彼らが理想とする同国中央部の学園都市、ゲッチンゲンの再現を夢見ていたことはまちがいない。だから、少なくとも武蔵野原野が、新キャンパスのイメージとしてゲッチンゲン大学を想い起こさせ、暗黙の了解に達していたのではないか」
 所詮短絡で、当面の疑念解消の足しにならないとは知りつつ、
「こんなキャンパスだよ」
 と、ゲッチンゲンの写真を数枚取り出す。ひいき目に見れば、町並みはいまの国立(くにたち)を連想させる。
 須賀は独白めいてこのようにも言う。

 ……数ヶ月前に武蔵野から遠くない石神井に運動用地を購入していたこともあり、その頃からずっと武蔵野界隈に着目ないし、物色していたのではなかろうか。何よりその地域の有力不動産会社である箱根土地の社長堤康次郎が佐野学長の友人≠セったことが決め手の一つだ。教授会が求める新キャンパスの条件≠佐野から堤に持ち出し、折り合えるならこの地を移転先に決めたい……。

「新キャンパスの条件って?」
 恵理子が即座に訊ねる。先手を打たれたご老体は、
「四点に集約されそうだ」
 として、資料の箇条書きをなぞる。
「一に、鉄道の便がよいこと。二に、上下水道、電気が整備されていること。三に、付近に工場や繁華街がなく閑静なこと。そして四に、土地が出来るだけ安価なこと」
 これを次の現実に結び付けようとする。
「震災直後であり、国が常以上に予算に厳しかった。堤側の権謀術数は想像に難くないが、結果として堤は条件の全てを受け入れ、武蔵野谷保村の森林原野が新キャンパス用地に落ち着くことになった」
 素直にうなずけない三人に、
「私も同じだよ」
 と須賀老も顔をしかめながら、月岡教授の私信を津船に代読させる。

 JR国分寺駅南口のごく近くに、『殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園』という東京都指定の名勝があります。この庭園ですが、もとは如水会初代理事長を務めた江口定條(ていじょう)氏が、大正四年(一九一五)に、武蔵野の地形を巧みに活かして作った別邸でした。江口氏は、当時三菱合資会社の営業部長で、後に満鉄副総裁を務められました。
 神田キャンパスが国立へ移転することになる関東大震災(大正十二年)の何年も前から、ここで東京商科大学の園遊会や祝勝会が開かれていたといいます。
 したがいまして、武蔵野・谷保村の広大な雑木林の存在は、大学関係者にはよく知られており、早くから大学町の候補地の一つに挙がっていたのではないでしょうか。
 庭園は、その後昭和四年(一九二九)に三菱財閥が買収し、昭和四十九年に東京都の所有になって現在に至っています。とりわけ次郎弁天池は、江口定條が造った形そのままをとどめているようで、何十段もある石段を上った高台の紅葉亭からの景観は、見応えがあります…………

 大震災があった年の暮れに、キャンパス復興委員会は武蔵野原野への移転案を、政府・議会に提出した。しかし議会が翌年初めに解散してしまい、廃案の憂き目にあう。
「思想弾圧やら、内閣がくるくる代わるやら……、不安定な世情(とき)だったからね」
 と言いながら、須賀老の時間軸はすでに次の舞台へ回転している。
「廃案で気勢をそがれたことは事実だがね。そんなことで移転へ加速された動きは止まるはずがない。どんどん進んでいく。翌大正十三年二月には、商大側は箱根土地に、実質『決定』を前提とした『北多摩郡谷保村がキャンパス移転先として妥当かどうか』の調査を委託した。箱根土地はこれを受けて大掛かりな調査を進め、専務の中島氏が欧米へ学園都市を視察に出かけてもいる。ドイツのゲッチンゲン市訪問が主目的の一つであったことは言うまでもない」

 先ほどのもやった話は別として、マリもいまは熱心な目つきだ。どうやら話の流れに乗っている。
「佐野さんと堤康次郎の関係だが」
 と、須賀は天井を仰いでから、静かに話す。
「二人が親しかったことは事実のようだ。(とし)は一回り以上佐野さんが上で、堤は三十四歳だった。不動産屋の堤が神田の商大キャンパス崩壊に目を付けて、商魂(たくま)しく接近したのか、佐野さんのほうから腹案を持って相談を持ちかけたのか、未だ諸説紛々だ。堤社長接近説が有力だが……、私は、お分かりのように、二人が震災九日後に会ったとき、あるいはその日以前かもしれないが、佐野学長から話を持ちかけたと思っている。ただね……」
「ただ?」
 口ごもる先輩に津船が言葉を返す。
「発案がどちらであれ、佐野学長が堤社長側の商魂をうまく利用したことはまちがいない。名を捨てて実を取ったと言うほどではないが、そうすることによって、東京商大を中心とした学園都市を武蔵野に実現することになるのだから。堤側の法外な儲けは云うまでもないにしても」
 須賀老は傍らの綴りを開く。
「佐野さんの六男泰彦氏の直筆手記だ。こんなところがある」
 泰彦氏はすでに故人で、元駐英公使だった。

『「国立(くにたち)の街造りは先ず箱根土地の堤社長が全て立案・実施し、その後東京商大を神田から誘致≠オたという説」、これは現在より多くの人々が信じているようであるが(信じて≠ニいうより、そのように思いこまされている=j、以下の経緯により誤りである。
 即ち、当時箱根土地は国立の地に多少関係を有していたかもしれないが、東京商科大学の敷地及びその周辺地域の新たな#ヮを通じて、国立を大学都市として開発したのは、正に東京商大側からの要請≠ノ基づいたものである。
 堤氏は大学敷地を含む国立の街造りの土地買収実行者、乃至(ないし)大学通り等の工事実施者であった事は確かだが、その基礎となる国立の街のレイアウトの発想は私の父善作によるものである。』

 佐野泰彦氏の主張はそれとして、箱根土地は、東京商大キャンパス復興委員会≠フ練り上げた構想と自社の精力的な調査にのっとり、社長の堤が自ら谷保村役場を訪れた。大震災から一年も経たない大正十三年の夏である。武蔵野の森林地帯買収のスタートだった。
「実際は手抜かりなく関係各所へ根回しを終えてのことで、最後の詰めだったのだろうが……」
 須賀老はつぶやいて、もう一枚の資料を抜き出す。
「そのときの様子が雑誌の記事で残っている。当時の谷保村役場庶務主任が語ったものでね」

『八月某日、甲州街道沿いの谷保村役場に黒塗りの自動車が横付けされました。村には自動車など一台もなく、人力車二台が偉い人に使われていた頃でした。ですので、道幅は狭く、自動車≠ヘやっと通ることができました。
 来られたのは箱根土地社長の堤康次郎氏で、専務さんともう一人がご一緒でした。こちらは、村長と助役、それに庶務主任の私が応対しました。
 当谷保村北部の山林約百万坪を買いたいという話で、そこを整備して分譲する、とのことでした。
 堤社長さんのご指示で、専務さんが説明にあたられたのですが、こんな話でした。
@東京商大や東京音楽学校を招致して、理想的な学園都市とする。
A中央線の立川と国分寺の間に新駅を設ける。
B医療施設なども完備して、住みやすい町にする。』

「野望家堤康次郎のことですから、箱根土地の商魂は並みではなかったでしょうが、買収交渉のスタートはこんな具合だったのですね」
 津船後輩は素直に感想を述べる。
「何しろこの事業が彼ら西武グループ大発展の土台になるのだから……。もちろん優れた実業家として、時の運への鋭い嗅覚と機敏な行動力には頭が下がる」
 須賀老は一応のけりをつけたと言いたげに、座り直す。
「ここで事実上、武蔵野の森林原野が国立学園都市に向かって大きく旋回したといってよい。東京商大と箱根土地の正式契約は翌年九月、大震災の二年後になるが、これは政府の認可がらみの事後処理的セレモニーで、そのすぐあとに町造りがはじまっている。契約書はかなり詳しいが、要所をピックアップするとね……」
 カタカナ漢字交じり文を、津船はつっかえながら読み進む。

・ 箱根土地が「経営セントスル約百万坪ヲ速カニ取纏メ」東京商大が「取得セント欲スル地点約七万五千坪」を神田の敷地約一万坪と交換、差額は箱根土地が国債で大学に支払う。
・ 大正十五年(一九二六)六月までに大学敷地に「接近シテ、中央線上ニ停車場ヲ建築」
・ 駅から「大学敷地ヲ貫通スル幹線道路ハ幅員ヲ二十四間トス、大学校用地部分ハ三十間幅」
・ 大正十五年六月までに上下水道工事、電力供給。
・ 大学新敷地と石神井の大学予科敷地との間の交通機関新設。
9.大震災ー2の朗読 26’ 42”
< 9.大震災ー1 10.武蔵野へー1 >
目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
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