店はざわついてきた。ガラス窓越しに丸の内の街の明かりがきらめいてにぎやかだ。ここ数年でこの界隈は、灰色のオフィス群から色彩豊かな繁華街に生まれ変わった。駅反対側の八重洲口を凌いでしまっているのではないか。
「九月も終わりね」
恵理子が呟く。
須賀老はうなずいて天井を仰ぐ。五月の出来事とその後の経緯が頭をよぎっているようだ。
その日、国立・兼松講堂でコンサートがあり、恵理子を誘ったのが発端だった。
彼女は講堂内部に溢れるほどの怪獣・妖怪の彫刻やレリーフに驚きを隠さなかった。
須賀は彼女の話を聞きながら、玄関ファサードを飾っているマーキュリーの校章と三匹の怪獣レリーフが浮かんだ。中国故事の『四神』をイメージしたと思われる円盤状の銅板四体を、ファサードでも一番目立つところに、だれがどういう思いで……
この
閃きの追跡を続けている。
紆余曲折を繰り返しながらも、調査は進んだ。
その四神像制作に、ボート部OBの四神会が密接に繋がっているとの察しはついた。今日の史料館で、渋沢翁の存在の重要性を噛みしめた。さらに白票事件で辞職に追いやられる佐野学長についても、分かりかけてきている。
「それで……、これからどうされますか?」
津船がせっかちに訊ねる。
「一週間もすれば、今日のまとめが出来上がると思う。やはり歴史がカギだね。とくに大学昇格までの波乱の歳月が怪獣たちの謎を物語っているようだ。全てが兼松講堂の成り立ちとファサードの『四神像』に集約されていくような気がする」
須賀はじっと考えてから、
「日を改めて、もう一度学園史をぼくなりに振り返ってみたいのだが……」
二人の目を確かめる。
「いいですね」
津船が即座に応じる。
恵理子を見やって、老人は、
「余分なお付き合いをさせることになるが……」
彼女はニコッとして、
「お気遣いは無用よ。私は私で楽しんでいますの。得るところもあるわ。ヨーロッパの近代美術史とちょうど同じ時期ですから、面白い比較にもなりますし。授業でも、こういったことを絡ませると、学生たちももっと身近に感じるはずだわ」
と、むしろ感謝の意を示す。
「いつ集まりましょうか?」
津船は気が早い。
恵理子も同意の目くばせをする。須賀は手帳を取り出して、
「来月始めの土曜日はどうかな?」
津船は予定なしとして同意し、恵理子はスケジュールをしばらく確かめてから、
「特別の用はなさそうだわ」
と、安心した面持ちで答える。
「君の好きな寿司御膳≠ご馳走したいから、昼前に拙宅へお越しいただければ?」
津船に向かって言うと、
「私の家でいかが? マリちゃんもきっと来てるわ。場所は津船さんもご存知でしょ?」
と恵理子。姪の野溝マリにも加わらせるつもりらしい。
「高台のご邸宅ですね」
と津船。
「そうさせていただこうか。寿司御膳は私が手配するとして」
須賀も折れる。
「お吸い物とサラダくらいはサービスさせていただきますわ」
恵理子は冗談まがいに付け加えた。
彼女は腰を上げかけながら、改まった顔で座り直す。
「マリちゃんのこと、津船さんにも知っておいてほしいのですけど……」
怪訝そうな津船に、須賀老も、
「話してみては」
と促す。
「彼女、日急トラベルで働いていること、ご存知ですわね」
津船が答えて、
「今は比較的自由に仕事を選択されているとか……。そのために深海さんもマネジャーを引き受けてもらって、助かっているのでしょう?」
「そうなの。彼女、東京外大で専攻したスペイン語と、英語、フランス語も堪能のようだから、三年間は世界各国へ添乗員で出かけたらしいわ。その後はご存知のように、嘱託で続けているの。実力はなかなかのようよ。だって気ままに仕事を引き受けているから」
「それで?」
「マリちゃん、恋人いるの」
津船は当然のことと、驚かない。
「彼女、いろいろあったのよ。一途だから。お子様まである方を好きになってしまって、あの時は大変だったわ。だから今度も心配……」
マリは、恋人遍歴とは別に、外大時代に学内で知り合ったカンボジア人とも友人関係が続いていたらしい。ここに来て、二人が急接近したようだ。
マリによると、彼は五つ上の三十三歳で、今はアンコール・ワット遺跡のあるシェムリアップという町で旅行会社を営んでいる。生真面目な好青年とは彼女の話だそうだが、その実は分からない、と恵理子は訝っている
すでに二人は結婚を意識していると言うが、これもマリの独りよがりかも知れないし……。
聞き役の津船は、シェムリアップを知らないわけではない。
「町中アンコール遺跡群ですよ。観光都市として、ますます発展しますね」
と、町については一応の相づちを打つ。
「彼女は仕事を利用して、年に何度も彼に会いに行っているわ。もう首っ丈け……。最近プロポーズされたらしいの」
「いい話ではないですか。それで僕に何か?」
「私は二人に反対ではないのだけど、どちらの両親も端から乗り気ではないらしいの。とくにマリちゃん側は大反対」
「わかりますね」
津船がうなずく。
「マリちゃん、他人の言うことを聞くような性格ではないから……」
「火遊びではないのでしょう?」
「二人ともそんなに若くもないですし」
「マリさんは二十八歳でしたね」
と津船。
「どちらにしても、マリちゃんに後悔させないように、できるだけのことはしてあげたいの」
「君はあの地方に詳しいのだったよね」
須賀が横から口を出す。津船は頭に手をやって、
「といっても昔話ですが……、少しは。先輩ご存知のように、十年ばかり前まで、隣りのタイで木材の取引をしていましたので。シェムリアップは国はちがいますが、すぐそこですから、よく行きましたよ」
「一度機会を見つけて会ってやってほしいね。訊きたいことがあるようだよ。応援するにしろ、止め口を言うにしろ、君に任せるから」
三人が満員のビヤホールを出ると、月明かりに、水たまりが光っている。ロータリーは勤務帰りが繁華街と東京駅の二手に分かれて急いでいた。