「校章のマーキュリー≠セが…、例の蛇二匹が翼の杖に巻きついているでしょ」
須賀はその写真を見せながら、
「明治十八年に制定されたとある。マリさんが学んだ東京外大の前身東京外国語学校と合併したときで、校名は東京商業学校だった。それから分離までの面白くない話は深海さんから聞かれたと思うが……」
マリはうなずく。『庇を貸して母屋を乗っ取られた』のくだりが浮かんだのだろう。合併の十四年後に再び分離独立することになり、その時、本来は外語の持ち物だった神田一ツ橋の校舎が商業学校側に属してしまい、自校は神田錦町に移らされた……、そのこと。
「私たちもこの校章には縁があるのね」
相づちは声に出す。もはやマリにもなじみの紋様だ。
「これは商業の神『マーキュリー』が携えている杖を象ったものなんだがね。マーキュリーはローマ神話の神で、もとはギリシャ神話のヘルメスだ」
「ラテン語ではメルクリウスと言っているわね」
注釈する恵理子に笑みを浮かべて、
「商売の神であると同時に、博奕や旅人の守護神でもある。そのヘルメスは最高神ゼウスの息子で、生まれながらに悪知恵にたけたいわば詐欺師だった。悪事を重ねた結果といっては変だが、『ケリュケイオンの杖』というのを授かって、富と幸運の神になった。何とも大らかで矛盾だらけなんだけど、神話はもともと不可解というか……」
須賀もこの話は不得手とみえる。トンチンカンは否めない。
「おじいちゃん、逃げちゃダメ!」
と、マリがからかうと、
「あなたが調べてあげた方が良さそうよ」
恵理子が笑いをこらえながら半畳を入れる。須賀はどこ吹く風だ。
「そんなことで、蛇が二匹巻き付いたケリュケイオンの杖を象った図柄を校章とし、マーキュリー≠ニ呼んでいる、ということだ」
その間に津船は年表をなぞって、
「次は高商自前のボート四艘の建造ですね。名前がそれぞれ、『朱雀』、『白虎』、『青龍』、『玄武』ですか。まさしく四神。それにしても明治二十二年の高等商業時代にこうした名が付けられたとは、ずいぶん前ですね。渋沢翁が『商業大学設立すべし』を訴える十一年前ですし、兼松講堂の完成からなら三十年近くも前ということになりますよ」
一気にまくし立てる。須賀も、
「そうなんだ。私は五月にコンサートのあと、深海さんと兼松講堂の前に立って」
と思い出すように、
「ファサードの怪獣たちを見ながら、あのボート四艘が閃いたのだが、それらの名がこれほど前に根付いていたとはね」
大げさに手を広げる。
「四匹の怪獣は、お分かりのとおり、中国古来の思想から来ている。星座を動物に見立てていて、東が青龍、西が白虎、南は朱雀で、北が玄武だ。それぞれ、龍、獅子、鳳凰、そして玄武は蛇と亀が合体している」
「易≠ナは常識よ。奈良の古墳でも有名じゃない」
マリが思わず口走る。津船は感心して、目を丸くする。
「そうだったね」
須賀老も一瞬足をすくわれたようにマリに目を向けてうなずく。
で、
「たまたま校章がローマ神話のマーキュリーで、杖に二匹の蛇が絡まっている。どなたが考えられたのか、この蛇を、蛇と亀が組んずほぐれつしている玄武≠ノ擬える発想だ。校章を商業の神のマーキュリーとしたことで、それがケリュケイオンの杖に絡みついた二匹の蛇を蛇と亀のくんずほぐれつに飛躍し、無理やり四神≠ノまでもっていった。こじつけは否めないが、校章と四神の結びつきを、私はそのように推測した」
一呼吸して、老人は自説を続ける。
「ということは、四神がわが校の守護神として位置づけられたのは、商法講習所開設から十年後の校章が制定された明治十八年、その頃と言っていいのではないだろうか」
須賀老の目は見るともなく窓越しの景色に行っている。西に傾いた陽差しが金正木の垣根になじんでいる。向き直ったご老体の目の奥は、当時が幻想まじりでコマ送りされているようだ。
「合併の時、外国語学校が持ち寄ったカッター一艘によって、わが校端艇部の発祥となった。そして四年後の明治二十二年に初めてボート四艘を建造し、それぞれに四神の名を冠して、隅田川に顔見せすることになる」
マリは自分の母校のことでもあるから、ここは関心を示している。が話は入り組んで、消化しきれているかどうか。
「このようにして、ボート競技がわが校の精神的支柱にもなっていく。四艘の建造で、四神が、何ごとによらず、実質的に学内の心を一つにする拠り所になった」
須賀老は声に張りが出てきた。冷めたコーヒーをゆっくりすする。
「明治三十四年のベルリン宣言だがね。そうそうたるメンバーでしょう。君にはいつか話したはずだが」
ときどき後輩の痛いところを突く。今度も後輩は苦笑いを返す。
ワープロ資料に、関わった八教授の名が記されている。老人はかいつまんでこう話す。
彼らは、当時ヨーロッパ各国に留学していて、ドイツのミュンヘン大学にいた福田徳三たちの呼びかけで、滝本美夫らのいるベルリンに会した。
この地で、前年渋沢栄一が説いた『商業大学設立すべし』の実現に向け、論文を起草して追い討ちをかける。これが世に云うベルリン宣言だ。
そのとき佐野善作はすでに留学から帰国していて、母校で教鞭をとっており、当然意を強くした。
後に三博士と云われるようになった佐野、福田徳三、関一が以降大学昇格への牽引車になっていく。
が、その目的の実現まではまだ道遠し。
ここで須賀老は一息入れてから、懐かしむように、後輩に向かって言う。
「今も昔も、どの学校とも、同胞の絆は寮歌・校歌・応援歌だね。学生生徒も同窓同期も、集うと必ず大声で合唱する。旧制高校の『嗚呼玉杯』、『都ぞ弥生』、『琵琶湖周航の歌』、それに『都の西北』、『陸の王者』、『白雲なびく駿河台』……」
次々と浮かんでくるようだ。
「これらはいまもよく歌われているね。うちは?」
津船が反射的に答える。
「もちろん『長煙遠く』です。毎年全国寮歌祭で先輩たちが往年の蛮声を張り上げている、あれですよ!」
「一節お願いできるかね」
「聞きたいわ!」、と恵理子。マリも顔をほころばせる。
津船後輩、ここは躊躇しない。
「まかせてください」
テーブルから離れ、腰に手をあてがい、窓越しの庭に向かって声を張り上げる。多少のギクシャクはあるが、マリもここはからかわない。
長煙遠く棚引きて
入相の鐘暮れていく
隅田の流れ夕潮に
オールを軽く浮ばせて
秋西風に嘯きし
その豪快のあとかたや
どら声独唱に座は和んだ。津船はまだ自分に酔いしれて、グラスの水を一気に飲み干す。
須賀老は満足げに腰を上げて席を立ち、窓を開け放った。空の青を受けて、庭の芝生が輝いている。遠く丹沢方面は鰯雲が広がって見える。