14. 四神像 2
「その結果、現時点で、先輩がこう推測している、と私が考えたところをまとめてみました」
 津船は後半の資料説明に移る。
「まず兼松講堂です。建築様式が単にロマネスクというだけですまされるものではなさそうです」
 兼松講堂とゴシック様式の東大・安田講堂の比較写真が回覧されている。際立った一方に対して、背の低い方が地味に見えるのは否めない。
「次に、兼松講堂にたむろする怪獣は三種類に分類できると判断しました。ファサード上部の特等席に輝いているのが例の『四神像』で、この種の怪獣はここだけです。一方、周囲の外壁を飾っているのがヨーロッパ・ロマネスク調ともいうべき動物や植物のような怪獣・怪物たちで、深海さんの美術図鑑に照らしても明らかです」
 恵理子はうなずき返す。
「内部は、二階から地階まで、『忠太オリジナル』と称する伊東忠太創作の妖怪・怪獣が、所狭しとひしめいています。その数たるや五百羅漢どころではありません」
 長なりに(しつら)えられたテーブルに、今度は津船が撮った怪獣の写真が何十枚も並べられる。
「それら三種類の怪獣が博士独特のロマネスク式建造物で見事に調和するよう、細心の注意が払われているようです」
 津船は大胆になってきた。須賀老は、後輩の断定的な口調に満足している。
「ファサードの四神像には建学以来の歴史が込められている、との確信を先輩は深められました」
 ここで日頃の津船らしくない、身びいきを感じさせる言い回しになる。
「学園誕生から揺籃期にかけての大いなる志、危急存亡の繰り返し、教授陣・学生・如水会の奮闘……。終始、独立独歩の思想と、官立べったりの政府への抵抗が底にあり、一つのピークが申酉事件でした。一方で、飛び跳ねた不逞(ふてい)(やから)≠ニいった世評もあったのですが、この事件が商業教育の学問的位置づけを政府に認めさせることになりました。余談ですが、この事件を通して、教授・OBを含めた学園挙げての結束は、官立他校のうらやむところであったようです」
 やはり借り物のセリフだ。表現がこなれていない。照れ隠しをまじえてフッと息を整える。
「こうした学園の歴史がファサードの四神像≠ノ凝縮されている、と先輩は見据えたわけです」
 いよいよ四神像のなんたるか≠ワで来た。

(さかのぼ)って、学園の原点たる商法講習所設立から十年経った明治十八年(一八八五)ですが、政府の指示に沿って当校が外国語学校と合併し、東京商業学校として新たな一歩を踏み出しました。そのとき制定された真新しい校章がこのマーキュリー≠ナした。柄が翼状の杖に二匹の蛇が絡みついています。みなさんよくご存じのとおり」
 ここは若いマリが、ベレー帽にピンクの顔で口を挟む。
「校章の名はローマ神話の商業の神マーキュリー≠セけど、この図柄はその神の携えていた杖ということよね。私の母校の歴史にも記されているかもしれないわ」
 東京外大も、かつてはこの校章を共有していたことを述べたいらしい。

 先に進もうとする津船を制して、
「四神の玄武とマーキュリーの関わりだね」
 と、須賀老が割ってはいる。
「校章は、外語と合併した年にベルギー出身の教師と当時の教頭が共同発案したものとされている。その名のマーキュリーは、マリさんが言うように、ローマ神話の商売の神だ。如水会館三階の彫刻を見られたでしょう。あれだよ。ギリシャ神話ではヘルメスで、ラテン語ではメルクリウスだ。そのマーキュリーが手に持つ杖を図案化したもので、二匹の蛇が巻き付き、てっぺんで翼が羽ばたいている。神話ではケリュケイオンの杖と呼んでる。蛇は英知をあらわし、翼は世界の五大州への雄飛と見なしている」
 後輩の津船が気を利かせて、二枚の写真を示す。左が校章マーキュリーで、右が商業の神マーキュリーが携えるケリュケイオンの杖だ。

 老先輩はさらに続ける。
「一方、四神の玄武は中国の神で、方角で割り振りされた北方を司っている。脚の長い亀の甲羅に蛇が巻き付いたかたちで描かれていることが多い。それであのマーキュリーをこの玄武にだれが結びつけたか、いまとなっては特定できないのだが、少なくとも杖に巻き付いた蛇が橋渡しになって、蛇と亀が絡み合っている玄武が発想され、そこで四神像≠ノ行き着いたようだ。名付け親だが、後に四神会の名を冠することになった端艇部(ボート部)OBだったと言ってよい。この四神会は、その後ずっと母校の後ろ盾になっている」

 マーキュリーと玄武の関わりについて、老先輩は、急ぎすぎの感ぬぐいえずと、毛のない頭に手をやる。それでも一応の説明をなしたとして、寄り道好きのこと、弁士の津船に向かって資料のとある箇所を指で示す。ここで校名の由来について確認しておきたいようだ。
 弁士は虚を突かれたようだが、われに返って、
「ファサードに四神像を頂く兼松講堂完成からでも二十年余り後のことですが」
 と、資料を読み上げる。
 東京外国語学校との合併で、本部を神田一ツ橋に移したときから、『一橋(ひとつばし)』が学園の誇りある愛称になった。後に府下国立へ移転してからもこの名を尊び、戦後、昭和二十四年(一九四九)、新制大学としての再出発を機に、東京商科大学を改め一橋大学≠ニした。但し改称に当たって、すんなりこの名が採用されたわけではなく、もう一つの候補名社会科学大学≠ニ競ったことは、関係者の間で今も語られている。
 にわか弁士は寄り道を無難にこなしたとの思いか、茶をすすってのどを潤し、校章に話を戻す。
「ちょっと飛躍の感はありますが」
 と、彼なりのこだわりを前置きして、
「その杖に巻き付いた蛇二匹を亀と蛇の『玄武』に(なぞら)え、これに『朱雀』、『白虎』、『青龍』を加えて、中国の故事にある『四神』の概念が考え出されたわけです」
 弁士が息を整える間に、老先輩が川治啓造に問いかける。
「四神について、君は?」
 今青年≠ヘ資料から目を離して、
「存じています。この前に拝読した先輩の空想物語≠フ中にもありましたし、私も念のため自分なりに調べてみました」
 津船は二人の問答が終わるのを待って、
「四神#ュ想の時期ですが、校章を制定してから四年後に、初めて自前で建造したボート四艘のそれぞれに四神の名を冠していますので、その間であるといってよいでしょう。明治二十二年(一八八九)には、新造なった四艘が隅田川に登場しています」
 老先輩に言い足す様子はない。津船はそのまま続ける。
「次が、講堂ファサードの四つの紋様についてです。玄武と見なすマーキュリーは(まぎ)れもなく校章ですね。問題は、同様にレリーフとして飾られた他の三体の姿形です。いつ、だれが作ったのか、それとも既成の絵柄や彫刻から取ったのか、今のところ不明≠ニいうことになっているのですが……」
 と自らを制するように口ごもる。
「少なくとも伊東忠太の作ではないようです。忠太の妖怪・怪獣のどれを取っても類似性はありませんし、彼の作風とも無縁と判断するからです。では、明治後期から昭和にかけて活躍した彫刻家堀進二≠フ作ではないか、との推測もできそうなのですが」
 津船は意味ありげにご老体と恵理子に目をやる。
「彼は、国立キャンパスだけでも、兼松房次郎(胸像)、渋沢栄一(胸像)、村瀬春男(胸像)、矢野二郎(立像)、佐野善作(立像)らの彫像を制作しており、当校とは密接な関係にあります。こんな戯画風の絵柄も無縁ではなさそうですし、彼の活躍期間と兼松講堂建築が同時期ですから、堀先生をそれらの制作者としたくもなるのですが、今のところ証拠が見つかっていませんので……」
 と、奥歯に物が挟まったような口ぶりになる。
 これは、須賀五郎次、深海恵理子と三人で討議を重ねたことで、今も津船は堀進二制作説にこだわっており、須賀と画家の恵理子は納得していない。

「『四神会』についてですが」
 津船はぎこちなく舞台を回す。
「端艇部OB会を正式に『四神会』と名付けた時期ですが、ずいぶん遅く、自前のボートを造ってから三十年後の大正八年(一九一九)でした。兼松講堂建築に着手する七年前です。その頃には旗印としての『四神』は、端艇部だけのものではなく、学園全体で共有していたのでしょう。その何年も前から『橋人皆漕(きょうじんかいそう)』の名の下に、全学挙げて隅田川でクラス対抗が続いていたのですから。両先輩とも活躍されましたね」
 と、無為の学生生活を送った自分を隠す。
「四神会発足翌年の大正九年(一九二〇)、東京高商は東京商科大学に昇格します。初代学長になった佐野善作が端艇部長を兼務することになり、端艇部はその年インカレ(大学間対校レース)を制覇します。初めて東京帝大を破るわけです。出来過ぎのようですが、事実ですので」
 津船はおどけて強調する。

「最後に、兼松講堂の建築について述べます」
 長い説明も終わりに近づいたようだ。はたして報告がまともに伝わっているか、一同を見渡して瀬踏みするような言い方になる。
「佐野学長はですね……、建築学界権威の伊東忠太博士に話を持ちかけて、引き受けていただくという、大仕事を成し遂げます。天下の東京帝大の教授で、しかも直前に学士院会員になり、公私多忙な有名教授にとって、世間的には格落ちの商科大学からの話ですし、それも場所が東京府の西の果てです。にもかかわらず博士が、設計だけでなく、建築の総責任を引き受けたのはなぜでしょう。自作の怪獣戯画や彫刻をふんだんにちりばめられるというような趣味的な欲望からでしょうか。そうではなさそうですね。須賀先輩が展開された物語の後付けになりますが、当の学園の歴史に博士の胸を打つものがあったからだ、との推定はどうでしょうか?」
 息を継いだところで須賀と目があって、言葉に力が入ってくる。
「先輩が強調されていますとおり、佐野学長の誠心・熱情といいますか、学園代表者のそんな溢れる思いも、伊東博士の動機付けの一つになったと思っています。博士は、心を揺さぶる何かがなければ、梃子(てこ)でも動きません。些細な意見の食いちがいでも、苦心して作った設計図を破り捨てる方だったと云いますから。もちろん渋沢栄一と大倉喜八郎、両翁の助けも忘れてはなりません。そんなところですが……」
 老先輩は優しい眼差しでうなずいている。二回り後輩の津船は気負ったままで、もうひとこと加える。
「伊東博士だからロマネスク様式≠ナはなく、『四神像をファサードに掲げる』が原点で、その講堂を彼ら学園の歴史とご自身の思いを託した『ロマンの殿堂』とすべく、伊東博士が精魂込めたと言っていいのではないでしょうか」
「ロマン≠ヒ」
 そう相づちしながら、須賀がやっと口を開く。
「伊東博士はね。津船君が言うように、強力な信念の持ち主で、意固地なほど自説を曲げない方だから、余程のことでないと腰を上げない。それに、その時とくに多忙を極めていたことは、資料が物語っている。そんな方が、単に引き受けただけではなく、設計の全てにあたられ、建築完成まで、遠く国立(くにたち)の現地に通い詰めて陣頭指揮された。まさに平坦ならざる独特の商大の歴史に、博士自身のロマンが合わさり、自らを託す気持ちになられたのだろう」
 好意ある発言に気をよくしている後輩に目をやってから、言い足す。
「施工業者は入札で竹中工務店に決まったことに違いないが、親しい間柄だ。内装は、業者の入札を排して(まな)弟子の松井角平率いる松井組を起用している。手勢の門下を挙げて応援もさせた。内部の怪獣は、自身の談話にもあるように、博士自ら粘土をコネたものが多い。建築委員十六人は資料のとおり、佐野学長を委員長として、委員は伊東博士、兼松商店、商大教授陣、文部省の四頭立てだった。こういう環境では、往々にして行き違いや仲(たが)いが起きるものだが、『見事なチームプレーだった』と、博士自身が工事報告で自賛している。また、ロマネスク様式は『古き型ではあるが、建築には一切私の意を用ひた』とも」

14.四神像ー2の朗読 21’ 12”
< 14.四神像ー1 14.四神像ー3 >
目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
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