ケーキとお代わりのコーヒーを注文する。
待ちながら、間の悪さを打ち破ろうとしてか、唐突に津船が話しかける。
「伊東忠太がカンボジアのシェムリアップと関係あること、ご存知ですか?」
彼、怠りなく関係資料を用意している。判じ物ながら、二人の顔がほぐれる。
「あれからお調べになったのね」
と恵理子。マリも先ほどのこわばった表情ではない。切り替えの早さが彼女の取り柄か、それとも若さか。
「あら、どうして? お若い頃三年かけて中国からインドやヨーロッパを巡ったときの道順だけど、あの辺はカンボジアでなく、ミャンマーを通過したようになってるわ」
マリもそれなりに調べている。対して津船、
「そうなんです。あの時はカンボジアを通りませんでした。が、あとで深くつながってくるのです。その前にひとこと……」
と、老先輩さながらに少し迂回する。
「伊東忠太って、建築学界の権威であるかと思えば、毎日のようにお化け漫画を描いていましたし、語学も英語とドイツ語が堪能と、非常に幅の広い人だったようです。それに、これと思ったことは、納得いくまで追求し続ける。そこで、この話になるわけですが」
マリの表情に安堵もしたか、津船は得意そうだ。
「明治四十五年(一九一二)、明治天皇が東京帝大に行幸されたとき、伊東忠太は天皇にご進講しています。その題がなんと、『祇園精舎とアンコール・ワット』なのです。忠太博士はそのとき四十五歳で、帝大教授でした。多分、天皇には、自筆の怪獣・妖怪漫画を沢山見せながら、話されたのでしょう」
二人とも目を大きくしている。津船はそうと察して、ますます気をよくし、お代わりのコーヒーをゆっくりすすり、ケーキを一口味わってから、最近仕入れた含蓄の披露に及ぶ。
「祇園精舎をご存知ですか、と訊けば失礼に当たりますが……、インドの寺院で、釈迦が説法された場所ですね。平家物語で『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』と詠われて、どなたにもなじみがあります。その寺院が、ご進講で、アンコール・ワットと結びつけて語られているのです」
津船はここでメモに目をやりながら続ける。
「……多分、江戸時代初期の三代将軍徳川家光の命を受けた島野何某という長崎の通訳がカンボジアに行って、アンコール・ワットの図面を書き、それを祇園精舎だと、まちがえて%`えたこと。何年かの後、森本右近太夫という備前の武士が、そのアンコール・ワットに墨書を残したこと。残念ながらその墨書は、ポルポト政権のとき、上から塗りつぶされて、いまでは判然としないようですが、わずか『日本』らしき文字が読み取れる……」
そう言う彼に、
「あなたも見られたのでしょう? どうでした?」
とすかさず恵理子。
「僕は、先入観もあって、そう感じましたが」
津船は庭園に目をやりながらそう回想する。
忠太教授の話に戻して、
「ご進講の中で、勿論インド・ヒンズー文化とカンボジアのクメール文化との密接な関わり合いも、易しく解説されたのでしょう」
と言う。対面して彼を見つめるマリの真剣な表情は、まぎれもなく話にとけ込んでいる。先ほどの恋愛話はどこへ行ったのだろう。
そんなものかなあ、と変な感心を抱きながら、津船の話は続く。
「そこで、伊東忠太とカンボジアの関係ということになります。忠太は自分の目と足で確かめなければ気のすまない人です。彼は三年半かけて中国からヨーロッパへの旅以来、生涯に亘って、インド建築に一番魅せられました。次いで中国。ヨーロッパではロマネスク様式の建築に一定の評価をしていますが、ゴシック以降の様式やアメリカの建築は、むしろ貶しています。彼はインドの祇園精舎に感動し、その寺院にまつわる江戸時代の話にも惹かれて、アンコール・ワット行脚になったのでしょう。そこで更に感動を深められたことは、その後何度もこの遺跡群の調査に出かけていることで理解できます」
アンコール遺跡群を通じて忠太博士がカンボジアのクメール文化にも強く魅せられたと言いたげだ。
次いで津船は手持ちの本を開いて二人に見せる。忠太が設計した建築物が各ページに並んでいる。
それらの写真とは別に、恵理子は本に挟んだメモ用紙に注目する。狂歌か何か?
「これね。面白いから控えたのですよ」
彼のこみ上げる気持ちは見え透いている。
「忠太は非常に筆まめで、旅の先々やあらゆる機会に野帖(フィールドノート)を残しています。ほぼ日記といっていいくらいに連日筆記していて、両手を広げてもまだ余るほどの膨大な資料群です。関東大震災や東京大空襲の洗礼も受けているのですが、よくぞ消失せずにすんだものです」
余分な前置きを気にする様子もなく、
「お化け漫画やスケッチや本格的な水彩画が数多くあり、自身の漢詩や、諧謔趣味の短歌、俳句、川柳もところどころに見つかります」
メモはこうだった。
ホンコンと鳴く英吉利(イギリス)の狐見て
廣州ワンと吠ゆる仏蘭西(フランス)
葡萄牙(ポルトガル)マカオマカオと啼きにけり
紅雲(伊東忠太の号)
「ずっと後の昭和九年(一九三四)に、浄土真宗の総帥大谷光瑞の依頼で造った東京中央区の築地本願寺は、インドの寺院様式であることはご承知のとおりです。その七年前になりますが、こちらの集古館と同時期に、京都で、大倉喜八郎翁依頼の『祇園閣』を完成させたのも忠太博士です。この建物の設計にあたって、忠太博士は祇園祭の鉾をモデルにしたと云われ、実際そうなのですが、彼の頭のどこかに祇園精舎やアンコール遺跡があったのではないかと、想像をかき立てられます」
と、それなりの資料を見せ、
「正面玄関の狛犬は南国的ですし、寺内でランプを支えている化け物は、兼松講堂内部のとそっくりですよ。見てのとおり、こちらも日本的ではありません。第一、明治天皇行幸のために忠太博士自身が設計したという東京帝大正門は、その時のご進講の題からいっても、アンコール・ワット遺跡のどこかを擬しているのではないか、と思いたくもなるのですが……」
いい気な男は一区切りついたとの表情で、数枚のそれらしき写真を比べるように見せる。
「兼松講堂は、祇園閣や大倉集古館の直前に完成しました。講堂の外観はヨーロッパのロマネスク様式ですが、内部の設えや、彫刻・レリーフにしても、とくに『忠太オリジナル』の怪獣に、まさしくインド・ヒンズー文化と、アンコール遺跡群に象徴されるクメール文化の匂いを感じるのですよ……僕は」
と、とってつけたように言いながら、恵理子に向かって、
「兼松講堂をその目で眺めると、とくに内部にどこか東洋の寺院の雰囲気がありませんか?」
彼女はどちらともとれる素振りを返すに留まった。
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