伊東博士は所々うなずくが、黙したまま対面する話し手を見つめて姿勢を変えていない。佐野学長の懇請が一区切りついて、やっと口を開いた。眼差しは優しい。
「現状からいってお引き受けするには無理がありますので、一般論として申し上げるのですが」
静かに話しはじめる。
「大学の講堂の多くは、カレッジ・ゴシックといって、古今東西ゴシック建築です。内田君たちが造っている安田講堂も、あのとおりゴシックです。塔の上部に時計を配置してありますね」
博士はそう言いながら振り返って、窓の向こうを指し示す。
「外観上、見てのとおりファサードが一番目立ってますね。そこに、時計ではなく、あなたの言われるこれら『四神』の紋様を配置すれば、ゴシック様式ならずともおかしなことになります」
佐野たちは立ち上がって時計台を見つめる。
「ゴシックにしろ、その後のルネッサンス様式やバロック様式にしろ、学校の講堂は、概ねヨーロッパに見習って、キリスト教に根差して造られていますから、基本的にアニミズムの怪獣・化け物の類≠ヘ受け付けません」
博士は続けて、
「仏教やイスラム教に根差しても同様になります。いずれも一神教ですから、聖書や仏典やコーランで認める生き物しか目につきません。そうでないものは存在し得ないのです。だから四神像は先ず、こういった宗教につながるゴシック建築やそれ以降の建築様式には受け入れられません」
それに対して中世以前に一般的だったアニミズムは、原初・土着的信仰で、動物や植物、自然現象を畏れ敬う。怪獣・妖怪がつきものである。
佐野たちも学内で議論の結果、四神の怪獣紋様が一神教に根ざすゴシック等近代建築技法にはネックであることを承知している。逃れようがない。
「ではゴシックの前のロマネスクですが……、この様式は十二世紀頃までヨーロッパの寺院建築で大勢を占めていました。今もヨーロッパ各地に残っていますね。みなさんも現地でご覧になったことがあるでしょう。まだアニミズム信仰が根付いていた頃の建物で、怪獣・化け物が各所にあしらわれています」
そこまでは依頼側も理解している。伊東博士の話が淡々と続く。
「ただ、ロマネスク様式は、建築学上幼稚なんですよ。中世の修道院や聖堂ならいざ知らず、近代建築にはそぐわない」
博士は、依頼側の怪訝な目つきに気づいた様子で、
「構造上問題がありますし、暗い」
堀教授が佐野学長に黙礼してから、緊張を押さえて発言する。
「当校でも建築様式について勉強会を重ねて参りました。ゴシック様式以外は考えていなかったのですが、西洋文明史を担当している三浦新七教授が『四神像を生かすにはロマネスク様式にせざるを得ないのでは』と主張しまして……」
伊東博士はうなずき返し、
「そこなのです。たしかにロマネスク様式は、イスラム文化の影響も見られ、アラベスク模様も紛れ込み、怪獣を表現できる自由度を備えています。いわゆる多文化的といっていいでしょう。それ自体後世の一神教世界では邪道となるのですが……」
と区切ってから、
「かといって、いかに御校の精神的支柱とはいえ、このような洋風エンブレム(紋章)と三体の唐風のカリカチュール(戯画)をひとまとめにする試みは、ロマネスク様式の概念からもかけ離れていますね。違和感が拭えない」
堀教授は、自らも気にしていたことで、半分納得顔だ。が、主張をあきらめたわけではない。
伊東博士はきっぱりと、
「先ほどのゴシックやそれ以降の様式は、申し上げたように、四神というのですか、これらを外さない限り、論外ですし」
「ではどのように?」
堀は身を乗り出しかねて思わず腕組みし、ない物ねだりをつぶやく。伊東博士も、
「本当に厄介ですね。『四神』に植え付けてある御校の精神を生かし切るには、ロマネスク様式でも、従来の様式をそのまま踏襲するわけにいきません。かといって、違和感のない特別の様式を簡単に産み出せるものではないし、私には知恵がない。御校のいわば顔になるわけですから」
博士が建築学史の第一人者であることを十分承知の佐野たちは、返す言葉もなく、ただじっとしている。伊東は弟子に向かって、
「松井君はどう考えるかね?」
と、意見を求める。
「難しいですね。残念ながら私は八方ふさがりです。が……、先生はこれまでも不可能や困難を乗り越えて来られたわけですので」
弟子は後頭部を手で押さえて、曖昧な、また励ましともとれる言葉を返す。
「ですが……」
と、うつむき加減にこう念を押す。
「仮にお引き受けする気持ちになられても、調整が難しいのではないでしょうか。大倉様ご依頼の案件に取りかかられたばかりですし……、他にも幾つかあります。それらはどうなさいますか?」
佐野、堀、高垣はそれぞれ不安満面で二人を伺っている。兼松商店の藤井は難問山積にあきらめ気味である。美濃部教授は深く腰掛けて見守っている。親しみのある眼差しを崩していない。
やがて、佐野は思いあまったように、
「先生に全てをお任せいたします。思いつかれる方法を教えてください」
長い沈黙が続く。佐野たちが固唾を飲むなか、伊東博士はテーブルに並ぶ戯画像や資料を見るともなく手に取ったり、足を組み直したり……。
つと席を立って窓に向かう。安田講堂をじっと見据える。内田祥三・岸田日出刀の共作による四階建て、塔屋八階の偉容がそそり立っている。
内田教授は伊東博士の同僚で、十歳ほど若い。企業にもいて現場経験があり、学内では威勢がいい。
……振り向きながら、博士は表情を和らげて言う。
「少し時間をいただけないですか? お断りするにしても、早くなくては……。他の仕事についても、どのようにするか、かなり厄介ですしね」
「どうかよろしくお願いします」
佐野のかすれた声に、
「一週間か十日ほどしたら何らかの連絡をいたします」
と言って窓を開け放った。そよ風に乗って、銀杏の葉が一枚、ひらひらとテーブルに舞い降りた。
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