3. 模索 3
 山辺みどりがメモの手を休めて、遠慮がちに発言する。協力依頼されたすぐあと、ウエブサイトで探し、須賀にあてて郵送した資料についてだ。仕事柄インターネットを大いに利用している。
「少しはお役に立てましたか?」
 須賀はにっこりして、
「ありがとう。とくに同封のこの本だけど、伊東博士を知る上でずいぶん役に立った」
 その名も伊東忠太を知っていますか=i王国社)というハードカバーである。
 博士紹介のところを津船が代読する。
『伊東忠太は築地本願寺や震災記念堂(現東京都慰霊堂)などの特異な造形の建築を設計した建築家として知られる。
 彼は、東京帝国大学の卒業論文で、法隆寺に新説を掲げ、それを遠く西域からギリシャに連なる系譜のなかに位置づけた=B
 明治期後半(一九〇二年)に、彼は、教授への道筋として用意されていた欧米への留学を断り、独自に計画を立て、三年半にわたって、中国からビルマ、インドを経て中東から小アジアを巡り、ヨーロッパを回ってアメリカ経由で帰国するという、当時としては空前の大建築紀行を行っている。
 さらに、彼は日本における建築史学の体系をはじめて築いた人物であり、東京帝国大学、早稲田大学の初代建築史の教授としてそれぞれの伝統を生み出した。
 伊東博士の設計による有名な建築物は数多い。主な作品を挙げると、
 平安神宮、台湾神社、朝鮮神宮、豊国廟、可睡斎護国塔、真宗信徒生命保険、弥彦神社、元寇殲滅碑、上杉神社、兼松講堂、祇園閣、大倉喜八郎京都別邸、大倉集古館、靖国神社遊就館、築地本願寺、震災記念堂、法華経寺聖教殿(しょうぎょうでん)、靖国神社神門、湯島聖堂、明治神宮、明善寺、…………
 彼は帝国学士院会員、帝国芸術院会員を兼ね、昭和十八年(一九四三)には、建築学界からはじめて文化勲章を受けている。』

 老先輩も、建築界の巨人≠フ人物像について、反すうするように目を閉じて聞いている。
 後輩が自身()みしめるように読み終えると、一呼吸おいて口を開く。
「兼松講堂が、伊東忠太が自賛する傑作であるということは、われわれの誇りだ。だから講堂内外の無数の怪獣が余計に気になる。すごい気迫を感じるんだ。博士の並々ならぬ意図もね」
 老人のトーンが少し上がる。
「この前、講堂内部を二階から地階まで詳細見て回ったときの印象からいっても、とても『伊東博士ご自身の怪獣趣味』だけで造られたものとは思えなかった。君のファックスにもあったように」
 うなずく津船を見やりながら、
「博士は落成式で、こう報告している。『建築には一切私の意を用ひた。……出来るだけ厳粛味を加へ、講堂としての真価を保たせるやう努力した』と。怪獣オンパレードと厳粛味≠ヘ、究極的には一致するのだろうが……、それとは別に、私は、博士の言外の意味を感じるんだ」
 もっと知りたいという意欲に対して、乏しい情報量の現実が胸に去来してか、
「私の入学以来七十年近い経験もさほど力にはならないし、手元の資料も、図書館で得たのや山辺さんからいただいたのやらで、盛り沢山なのだが、まだ外堀を固める程度だ。核心にはほど遠い」
 穏やかな表情ながら、まどろっこしそうで、不満は否めない。
「この春完成した講堂改修工事は、三菱地所設計が請け負ったのだが、その工事関係者に会えば、もっと手掛かりがつかめるかもしれない」
「ですが、どのように?」
 津船の問いに、
「木谷常務に面識があるから、連絡を取ってみるよ。そしてもう一つ。渋沢栄一が大きなカギだ。もっとちゃんと調べたいね」
 須賀は、渋沢栄一翁についても、調査を深めたいらしい。渋沢は学園生みの親であり、その存続・発展を死ぬまで支えた育ての親だ。見過ごしていた何かが見つかるかもしれない。近々、彼の足跡の全容を収めた渋沢史料館にも行くと言う。
「川治さんの論文はどうなさいますか?」
 祝田睦美は川治啓造の『推論』にまだこだわっている。老先輩はとぼけた素振りで毛のない頭に手をやり、
「彼の熱意と行動力には頭が下がるが、しばらくは私なりに調べてみたいのでね」
 日はとっぷり暮れて、どのテーブルもバーベキューパーティたけなわである。

 数日後の早朝、津船は須賀の電話で起こされた。
「早くてすまないね。まだ寝てたんじゃないかな?」
「お気遣いなく。何か特別なことでも?」
「ちょっとした資料が見つかったのだ」
「それは?」
 電話の趣旨は、端艇部のOB会が会名を四神会≠ニした時期についてだった。
「私は昭和二年だと言っていたでしょう。ちょうどファサードに私の言う四神を冠した兼松講堂が完成した年だから、その年と勘違いしていたようなのだ。偶然かどうか、四神会の名による記念行事がその頃からになっているしね……」
「そうでしたね」
 津船は当たり障りのない相づちを打つ。
「歴史をねじ曲げることは許されないが、正直、ファサードの紋様を四神像だと決めつけるためにはボート部OBの会名『四神会』が、兼松講堂建築の前に存在してほしかったし、『四神』の概念が、ボートだけでなく、学園の旗印として根付いていたと考えたかった。マーキュリーが校章であると同様に、それを含めたいわゆる四神像≠ェ、すでに学園の象徴だったと思い詰めていたから。だから学園殿堂の表看板と言えるところにいわゆる四神像が飾られているのは当然の成り行きだと」
 寝ぼけ(まなこ)の津船も、ようやく理解しかけたようだ。
 電話の声は、そういう相手の反応を確かめるように話を区切っている。
「──で、どうなりました?」
 期待を伴った後輩の声に、
「書棚奥にあった古い資料を読み直して解ったのだが、私はかなり勘違いしていたようだ。四神会の発足は、昭和二年ではなくて、その七年も前の大正八年だった。ね、この記事で王手だよ」
「よかったですね!」
 津船は須賀の言わんとすることが読めている。
「そういわれると恥ずかしいが、何とか一つ、関門突破だ。思い込みがまんざら妄想でもなかったようなのでね」
 時系列からもボート部(当時端艇部)OBの四神会がファサードの四神像制作に少なからず絡んでいると、須賀は確信したようだ。
「もう一つ」
 と、長電話が続く。
「佐野さんだが、彼は初代学長の頃に端艇部の部長を務めている。学生時代はオールメン(端艇部員)じゃなかったがね」
「そうですか!」
 津船の反応に対して、これは当人先刻承知のこと。須賀が言いたいのは、学校側の端艇部長で講堂建築時の学長が、OBの四神会と親しいところまでは理解していたが、ファサードの四神像との関連付けまではいままで意に介さないで来た。
「まだ性急にあちこちの細切れをつなぎ合わせる段階ではないが」
 と言いつつ、こう付け加える。
「重要なのは、伊東忠太と渡りあったと思える佐野学長が、学園生え抜きで、端艇部長を兼務しており、四神会と密な関係にあったということだ」
「ファサードの怪獣の正体が少し見えてきた、そうじゃないですか?」
「なにか一つ、胸のつっかえが取れたってところかな。昨夜遅くあの書類を調べてから、眠れなかったよ。我慢できずに電話してしまった。では……、おやすみなさい」
 カーテン越しに朝の光がさしはじめている。津船は苦笑いしながら、顔を洗うことにした。

3.模索ー3の朗読 13’ 17”
目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
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