平成11年(1999年)、4月29日から9月19日まで、半年にわたって南紀熊野体験博が催された。
 そのときの主催者小冊子「熊野古道・10万人の熊野詣」から、要所をピックアップする。 

 『神が宿る日本の原郷、熊野。地の果ての奥まったところという意味からこう名付けられたと言われています。平安時代から老若男女を問わず厚い信仰を集めた熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ人々は平安時代から競って詣でました。
 熊野古道とは、熊野三山を目指した信仰厚き古(いにしえ)人が歩いてきた道です。苔むした石畳、路傍の石仏、木々や草花など、かつての面影が現在もいたるところに息づいています。熊野への参詣は難行苦行の連続であり、人々は熊野に救いと幸福、心の癒しを求めて歩き続け、そして蘇ったのです。……』 (”はしがき”)

熊野古道地図
熊野古道、熊野三山と牛王宝印(ごおうほういん)
本宮大社牛王宝印
熊野本宮大社
速玉大社牛王宝印
熊野速玉大社
 熊野はぼくの故郷だ。この一帯は、古代から数知れない人々が訪ね歩いてきたいわゆる「日本の原郷」という。子供の頃遊びまわった山路や海岸はその熊野古道の一部(大辺路)である。
 あまりに身近すぎて深い意味を理解せずに来た。
 これから徐々に熊野古道を紹介したい。
 本編のほとんどが「熊野古道・10万人の熊野詣」に頼ることになるが、今後は帰郷のおり自分でも歩いてレポートするつもりである。
 まずは「熊野九十九王子」の紹介から始める。 

熊野九十九王子

 『熊野九十九王子とは古代から中世にかけ本宮、新宮、那智の熊野三山の信仰が高まり、上皇、女院や庶民に至るまで、多くの人々が熊野に参詣した当時、その難行苦行の道中、熊野権現の御子神を巡拝するために設けられた神社である。
 時には歌会なども開かれ、長い旅の疲れをほぐし、また、遥かなる熊野の地を拝して旅の安全を祈った。
 九十九王子は、実際の神社の数ではなく、数の多いことを表現しているもので、現在伝えられている王子跡は大阪より和歌山にかけて95社が存在している。
 王子社の中でも地位の高いのが、藤代(藤白)・切部(切目)・稲葉根・滝尻・発心門の5社で、これらを五体王子と呼んでいる。』

紀伊路
窪津王子 阪口王子 郡戸王子 上野王子 安陪王子
津守王子 境王子 大鳥居王子 篠田王子 平松王子
井口王子 池田王子 浅宇川王子 鞍持王子 鶴原王子
佐野王子 籾井王子 厩戸王子 信達
一之瀬王子
地蔵堂王子
ウワ目王子 中山王子 山口王子 川辺王子 中村王子
吐前王子 川端王子 和佐王子 平緒王子 奈久智王子
松坂王子 松代王子 菩提房王子 祓戸王子 藤代
塔下王子
藤白王子 所坂王子 一壺王子 蕪坂
塔下王子
山口王子
糸我王子 逆川王子 久米崎王子 津秦
(井関)王子
河瀬王子
馬留王子 沓掛王子 馬留王子 内ノ畑王子 高家王子
善童子王子 愛徳山王子 岩内王子 塩屋王子 斑鳩王子
上野王子 叶王子 切目王子 中山王子 岩代王子
千里王子        
安陪王子
安陪王子
糸我(いとが)王子
糸我(いとが)王子
中辺路
三鍋王子 秋津王子 万呂王子 三栖王子 八上王子
稲葉根王子 一瀬王子 鮎川王子 滝尻王子 不寝王子
高原
熊野神社
大門王子 重點
(十丈)王子
大坂本王子 近露王子
比曽原王子 継桜王子 中ノ河
(中川)王子
小広王子 岩神王子
湯川王子 猪鼻王子 発心門王子 水呑王子 伏拝王子
祓戸王子 熊野
本宮大社
     
たきじり王子
滝尻王子
ねず王子
不寝王子
だいもん王子
大門王子
大辺路
芳養王子 出立王子 熊野
那智大社
青岸渡寺 多富気王子
市野々王子 浜の宮王子 佐野王子 浜王子 熊野
速玉大社
湯峰王子 熊野
本宮大社
     

多富気王子

浜の宮王子
佐野王子
佐野王子
朗読(4:35) on
 

「熊野古道ガイドマップ」(世界リゾート博記念財団)

大斎原(おおゆのはら)

 《本宮大社は元々大斎原に在った。明治の頃(明治22年)大洪水で流され、いまの高台に引っ越した、とのこと。平安時代、その大斎原の本宮大社の二つ手前「伏拝(ふしおがみ)王子」でのエピソード》

おおゆのはら 伏拝(ふしおがみ)王子に、和泉式部供養塔と伝わる笠塔婆がある。これは和泉式部が熊野に参詣した際、にわかに月のものが始まり、ここから社殿を拝んだという伝説にちなむ。

 式部がわが身のけがれを嘆き、詠んだ歌。 

晴れやらぬ身の浮雲のたなびきて
月の障りとなるぞかなしき

 その夜、熊野権現が夢に現れて詠んだ歌。

もろともに塵にまじわる神なれば
月の障りも何かくるしき

 式部は熊野権現の温情に感謝し、参詣を果たしたという。

小栗判官と照手姫

 中世の話。
 小栗判官が美しい少女に化けた大蛇と交際している・・・、そんな噂が広まり、怒った父によって小栗は常陸国(茨城県)に流された。
 ここで小栗は絶世の美女、照手姫の話を聞き、手紙を書き返事が来るや否や彼女の実家である横山大膳の館へ押しかけ、照手姫の婿になるが、大膳らに毒入りの酒を飲まされ、廃人と化した。

 照手姫は熊野権現の導きによって荷車に小栗を乗せ、湯の峰温泉まで運んだ。ここで49日の湯治をし、小栗は体の自由を取り戻したという。

鼻欠け地蔵

 湯の峰温泉から本宮大社へと向かう大日越えの道端に、鼻欠け地蔵という風変わりな名前の地蔵がある。由来、次のとおり。

 左甚五郎が本宮大社の社殿修理のため本宮に滞在していたときのこと。甚五郎は毎日弁当のご飯が少しずつ足りないことに気づき、弟子を咎め、罰として小型のカンナで弟子の鼻を少しかすめた。
 翌日、弟子が姿を消し、地蔵の鼻が欠け、血を流しているのが見つかった。弟子は工事の無事を祈り、毎日地蔵に弁当のご飯を供えていたのだった。

花山法皇

 寛和(かんな)2年(986年)、藤原一族の陰謀で出家をそそのかされ、不意打ちのような形で皇位を奪われた花山法皇は、那智の滝上流にある二の滝の近くに円成寺という庵を結び千日も篭って修行された。そのときの歌。

木の下を住処とすればおのずから
花見る人となりぬべきかな

花山法皇
花山法皇行在所跡(円成寺跡)

 ここまで来れば参詣者でにぎわう那智の滝前とは別世界。傷心の法皇が木の下を住処とし、このような寂しい場所で夜露をしのんでいた。
 修行が終わり、法皇は那智山、那智の滝の霊験に感謝し、弁阿上人を先達に西国三十三ヶ所観音霊場巡礼の旅に出られ、各地で御歌(みうた)を詠まれた。これが御詠歌の始まりで、那智山青岸渡寺は霊場巡礼の第一番札所となった。

平維盛

 平家の悲運を一身に背負うかのように四国屋島の陣を脱出し、紀州に上陸した三位中将、平維盛(これもり)は、今は出家して高野山にいる滝口入道時頼を訪ねた。
 出家を請う維盛に時頼は、平家再興に力を尽くしてこそ武士の道だと諭す。そこで維盛は祖父・清盛以来つながりの深い熊野三山に援軍を求めるため、巡拝の旅に出た。しかし三山はすでに源氏の配下にあることを知り、頼みの綱が切れると同時に、命運も尽きた。

 熊野最果ての地、那智の浜から渡海上人のごとく、維盛は小舟に乗せられ熊野灘に旅立った。時に寿永3年(1185年)3月28日。享年27歳。

新宮城

 市街地の北、熊野川を背にした高台にある新宮城(丹鶴城)。今では石塁に面影を残すのみだが、歴史は江戸時代にさかのぼる。
 徳川家が入国する前は浅野家が紀伊国(和歌山県と三重県紀南地方)を統治、その重臣・浅野右近大夫が新宮に派遣されていた。このとき熊野川の河口に石段を積んで築いたのが新宮城のルーツといわれている。
 しかし、1615年、幕府から「一国一城令」が公布され、築城の途中であった新宮城も壊される。だが2年後には再建が認められ、1618年、新たに紀州徳川家の附家老・水野重中が入府、15年かけて城を完成させた。城の形は二層から三層の天守閣(台)が中心をなしていたという。水野家は代々江戸在住の家老を勤めつつ約250年間新宮領を支配した。

 その後明治維新で新宮藩が誕生し、さらに廃藩置県で新宮県となるが、ほどなく和歌山県に編入、新宮城の建物は用をなさなくなり、ついになくなる運命となった。
 現在新宮城は公園として整備され、春には桜の名所として多くの人でにぎわう。また、石塁の残る城跡に立てば、太平洋が一望でき、そのすばらしい眺めは今も昔も変わらない。

徐福の墓

 JR新宮駅から100mほど東にある、中国風の楼門がひときわ鮮やかな徐福公園。クスノキの巨木と天台烏薬(うやく)に囲まれたこの公園内に、はるか昔中国からやって来た伝説の人、徐福の墓がある。

 徐福(じょふく)は、今から約2200年前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により、東方にあるという不老不死の霊薬を求め、新宮に渡来したと伝えられている。
 数百隻の船と数千人の男女、金銀財宝とともに、まだ見ぬ東の国を目指し、船出した徐福。彼はこの地で「天台烏薬」という薬木を発見するが、温暖な気候、風光明媚な土地、そして何より地元住民の暖かい友情に触れ、ついに新宮を永住の地と定めた。そして土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すきなどの技術をこの地に伝えたという。

 じょふくの墓

阿須賀神社の御正体

 熊野川河口にある円錐形の山、蓬莱山を背景にした阿須賀(あすか)神社は、新宮市内で最古の歴史を持つといわれる。
 昭和34年(1959年)、紀伊半島を襲った伊勢湾台風によりなぎ倒された蓬莱山の老木の根元から、貴重な仏像などが出土した。それは、神仏習合の時代、社殿に飾られていた懸け仏、御正体(みしょうたい)である。御正体の初期のものは銅鏡の裏に本地仏を線刻したもので、室町時代あたりの作となれば仏像を貼り付けたような形となっている。

 出土点数は約200点で、阿須賀神社の本地仏(ほんじぶつ)・大威徳明王の他、熊野三山の本地仏も見られ、この神社が古くから熊野三山と同様に崇拝されてきたことがうかがえる。

朗読(13:16) on
 
<熊野処々各論 高野坂、大戸平>
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