この文章は、雑記帳第5話「砂浜(はま)」と同一です。ふる里三輪崎の一風景として、ここにも記載することにしました。1991年の作品です。
Part1 三輪崎の砂浜(はま)

 何年ぶりになるか、平成3年(1991年)、桜が散ったころ、妻を伴って帰郷した。
 午後3時に浦安のマンション自宅を出て、東京・有明埠頭へ向かう。今回は車で行くのをやめた。サンフラワー号はカーフェリーだが、そのまま客室へ。船は一晩かけて太平洋岸を航行し、熊野灘に入って南紀・勝浦港へ。
 太陽が海から昇って弱い陽光を受けながら、濃緑の紀州の山並み、見覚えのある三輪崎の海岸と鈴島・孔島、その西側が佐野で、巴川製紙の煙突が小さく見える。うっとりしているうちに、サンフラワー号は内湾に入り、勝浦町宇久井の港に接岸する。
 すぐそこの停留所で新宮行き路線バスに乗って20分、三輪崎港前で降りる。先祖の墓はそこから15分ほど行ったところにある。人気(ひとけ)のない田んぼ道を歩く。向こうに新宮商業高校が見える。その手前が光洋中学校だ。あちらの道は学生たちが登校しているころかな、それとも授業がもうはじまっているか。
 墓の佇まいは変わっていない。町中の墓地をここに移転したのはいつだっただろうか。前のそれこそ幽霊の出るような薄気味悪い場所に比べて、いいところへ引っ越したものだ。東に八幡神社が見える。傍に小川が流れている。
 幼いころ父を手伝って耕した一反八畝が近い。どこだったかはすぐに見当がつく。もっともどなたかの住宅地になっているが。
 墓参をすませてから、30分ほど東へ海岸沿いを歩いて母の家に着いた。午前10時。真向かいの大前屋旅館はずいぶん古びている。かつては巴川製紙佐野工場への出張者の定宿でもあったのだが、工場が規模縮小して以来、お客さんはどうなのだろう。

 春愁がそうさせるのか、たまの帰郷のゆえか、センチメンタルな気持ちになって、いま目に映る故郷の風物を、少年時代の想い出として記憶にあるそれらと比べてしまう。あの頃の三輪崎はどこへ行ってしまったのだろう。記憶がウソをついているのか。
 …………

 家(うち)から海水パンツ姿で海岸へ走って、そのまま飛び込めた海が、砂利と石ころまじりの遠浅になっていた海岸が、遥か向こうに遠のいている。沖まで埋め立てられた土地が目の前全体に広がっている。東半分はチップ工場用地で、西半分は黒潮公園になっている。

 母はいまの黒潮公園が好きだという。子供の自転車とぶつかって痛めた足を、手押しの乳母車でかばいながら南に向かう。母ののろい足でも10分も歩くと公園の東入口に着く。
 すぐが子供の遊び場になっている。すべり台、ブランコ、ジャングルジム。ライオン・ゾウ・キリン・トラたちをかたどった遊具もそろっている。そこから西へ、棕櫚(しゅろ)、浜木綿、つつじの木々や、きれいな草花に囲まれた細道を歩くと、佐野側の出口だ。乳母車を押しながらの散歩は母の日課である。子供たちとは馴染みで、子連れの若い母親たちと挨拶をかけあったり、世間話をするのが楽しみらしい。

 黒潮公園のおかげで、殺風景だった佐野寄りの浜はきれいになった。ただ、この海岸沿いの公園からでも、あのコバルトブルーの海が、いまは高い堤防に遮られて見えない。
 黒潮公園の東寄りは、埋立地がもっと沖まで伸びていっている。堤防があるのだろうか。海は肉眼では見えない。
 広がった土地の大半は木材のチップ工場用地で、一部稼動をはじめている。完成に向けて、砂利や鉄材等を積載したダンプカーや大型トラックが頻繁に往来している。
 その東、目と鼻の先に孔島が浮かんでいる。漁師の守り本尊である小島もそのうち地続きになるのだろうか。

 現在新宮市三輪崎となっている半農半漁の小さな町は、海岸からすぐそこの二つの小島が自慢だった。鈴島と孔島だ。
 鈴島の付近は、漁船を係留する桟橋が思いきり模様替えしている。が、その桟橋の東側にあたる砂浜は猫の額のようにまだ残っていて、僅か昔を留めている。しかしぼくの記憶にある砂浜はもっと広くて、もっと白くて、波打ち際は目映かった。いま、砂浜は、申し訳程度に狭くて荒涼としている。
 少年の頃(昭和25〜30年当時)を振り返ると、三輪崎の砂浜(はま)はこんなふうだった。

伝馬船(てんま)と父
昭和25年(1950)頃の三輪崎の浜と海
伝馬船(てんま)と父
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