Part2 あの頃

 ぼくたちがはま≠ニいえば、海に向かって鈴島より東側の砂浜に決まっていた。
 半世紀近く前になるが、少年時代(昭和25〜30年)の三輪崎の砂浜(はま)はこんなふうだった。

 鈴島への桟橋から東側は、遠くに見え隠れする山裾のトンネル付近に向かって、海辺に細長く広がっている。トンネルはJR紀ノ国線の鉄道用で、山から海にせせり出た崖をくり抜いてあり、ときどき列車が顔を出したり、中へ消えたりする。
 西側は、やや幅広の浜が佐野方面に向かっている。東の浜が砂浜であるのに対し、こちらは小石の浜だ。あちらこちらで地引き網があげられて、かけ声が聞こえる。ぼくも何度か手伝って、小魚か貝のサザエやナガレコをもらったものだ。浜は途中で途絶えて、岩礁は宇久井、那智、勝浦へジグザクの弧を描いている。

 砂浜(はま)は太平洋の熊野灘に面していて、すぐそこの形のいい小島が鈴島だ。濃緑の2本の松は見栄えがいい。打ち寄せる波しぶきが目に鮮やかである。
 鈴島から西へ、200メートルほどケーソンを歩くと、もう一つの小島が浮かんでいる。漁師の神を奉っている孔島だ。浜木綿の群生地でもある。こちらは雑木林がうっそうとしている。

 お気づきのように、東側の砂浜がぼくの思い出だ。
 灰色がかった白色で、粗目(ざらめ)の白砂糖を連想させる。注意するとあちこちに小さな貝殻がキラキラ光っている。年中子供たちの遊び場であり、海女(あま)のくつろぎの場にもなっている。そのおばさんたちがたき火を囲んでいた冬の日が懐かしい。

 夏は海水浴客で賑わう。淡いマリンブルーの海からうち寄せる小(さざ)波。その波打ち際で大勢の子供たちが水着で砂遊びに夢中である。
 秋は台風の合間を縫って邑(むら)祭りでにぎあう。砂浜は鯨踊りの大舞台になる。
 江戸か明治時代の捕鯨の衣装をまとった男たちの威勢のいい歌と踊り。笛や太鼓の音も遠くまで鳴り響く。

鯨踊り
   

殿中踊

(ヨヨイエー)
突いたや三輪崎組はサ (ハア三輪崎組はサ)
  親もとりそえ 子もそえて
前のロクロへかがすを付けてサ (ハアかがすを付けてサ)
  大背美巻くよな ひまもない
組は栄える殿様組はサ (ハア殿様組はサ)
  旦那栄える いつまでも
竹になりたやお城の竹にサ (ハアお城の竹にサ)
  これは祝いの しるし竹
船は着いたや五ヶ所の浦にサ (ハア五ヶ所の浦にサ)
  いざや参らん 伊勢さまへ
  (ソリャ 一国二国三国一ジャー)

綾 踊

(ヨヨイエー)
今日は吉日きぬた打つ (アヨーイヨイ)
今日は吉日きぬた打つ
  お方出てみよ子もつれて (アーきぬた)
なんとさえたる枕やら (アヨーイヨイ)
なんとさえたる枕やら
  よいと夜中に目をさます (アーきぬた)
淀の川瀬の水車 (アヨーイヨイ)
淀の川瀬の水車
  誰を待つやらくるくると (アーきぬた)
沖の長須に背美を問えば (アヨーイヨイ)
沖の長須に背美を問えば
  背美は来る来る後へ来る (アーきぬた)

伊勢のようだで吹く笛は (アヨーイヨイ)
伊勢のようだで吹く笛は
  響き渡るぞ宮川へ (ヨヨイエー)

 新宮や周辺の町村からも見物客が詰めかける。
 はま≠ノ上げられて整列している漁師の小舟に、大漁の幟(のぼり)がはためいている。

 冬は、海風に乗って砂ぼこりが舞う。雪は滅多に降らないが、土地(じ)の者にはとても寒い。
 海はしょっちゅう荒れ狂う。それでも男たちは、よほどの時化(しけ)でもない限り、櫓(ろ)を漕いで沖へ出て行く。磯崎寄りの浅海では海女たちが潜っている。あちらこちらの海中から顔が現れると、草笛を下手に吹いたような声がこだまする。
 波打ち際で焚き火を囲み、かじかんだ身体をもみほぐしながら、しばしの休憩をとっている海女もいる。
 「さぶいよう!」
 「さぶいのうし」
  …………

 春の砂浜、
 ぼくが小学6年、弟は4年だった。

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