春の砂浜を思い出す。
ぼくが小学6年、弟は4年だった。
学校が終わると、家にランドセルを放り出して、二人は砂浜(はま)へ急ぐ。走れば家から2、3分だ。
「気いつけなあれよう。仲良うせなあかんで」
母の声が遠ざかる。
同じ年頃の少年たちが、てんでんばらばらな服装、格好で集まる。みんな棒っ切れのバットと、様々な恰好のグローブを持って。
ぼくと弟は、父が作ってくれた楢(なら)の木のバットと、母が帆の切れっぱしの中に布団の綿をくるめて縫ってくれたグローブを携えている。
楢は、父が山の中を探し歩いて選んできたものだ。軽くて強くてよく飛ぶ。 |
子どもたちは、人数の足りない分、守備位置かけもちだ。内野はダイヤモンドではなく三角で、ピッチャーとキャッチャーだけ。一塁・二塁は外野の掛け持ちだ……。
日が暮れてしまうまで夢中になって遊びまくる。家路につく頃は、みんな体中砂だらけだった。
「こんなにまあよう汚したもんや。はよ風呂に入りなあれ」
砂にまみれたぼくと弟を見つめる母の目は怒っていない。
裸になって、裏庭のドラム缶の風呂に入る。
…………
仲のいい兄弟が喧嘩をした。
なんでもない意地の張り合いだった。砂浜から弟はグローブを手に、泣きながら帰った。ぼくは、バットとグローブを脇に抱えて、ふてくされた顔で後についた。父に対して「どのように弁解しようか」と、ありったけの知恵を振り絞りながら。
二人とも砂と泥と汗で汚れていることなど、かまっていなかった。弟は泣きじゃくりながらなんといってぼくをなじったのだろう。ぼくは弟の非を声高に訴えたに違いない。
優しい父は手を上げなかった。説教もしなかった。懲らしめを兼ねてときどきやる「灸」もすえなかった。
黙ったまま二人からバットとグローブを取り上げた。二本のバットは鋸(のこぎり)でまっぷたつになり、風呂の薪の中に投げ入れられる。かまどは一瞬燃え上がる。
二つの帆のグローブは、包丁で惜しげなく切り裂かれ、これもかまどでボーッと燃え上がった。
弟はもう泣いてなかった。ぼくは弁解を忘れていた。二人の顔は引きつったままだった。
以来、二人とも学校から帰っても、砂浜へ直行しなくなった。行く理由がなくなったのだ。
父は二度とバットを作ってくれなかった。母もグローブを縫ってくれなかった。夕食の膳を囲みながら息子たちの自慢話を、あれほど楽しそうに聞いていた両親だったのに。寡黙な父のあのニコニコ顔。学校のことは子供たちのなすがままにさせていた父だが……。砂浜(はま)の話にはとりわけ熱心だったのに。
大下、川上、別所は、もはや息子たちの将来像から消えた。プロ野球の選手が夢だった。父も、息子たちの野球を眺めるのが何よりの楽しみだったのに。わがことのように自慢していたのに。
ちょうど三遊亭歌笑の落語が、茶箪笥に乗せてある5球スーパーラジオから流れていた頃だった。
|