新宮市街(和歌山県)から国道42号で峠をひとつ越えるか、JR新宮駅から”きのくに線”で西へひと駅乗ると南紀「三輪崎」だ。
熊野灘に沿った漁師町である。戦後新宮に併合されて、東牟婁郡三輪崎町から新宮市三輪崎となった。人口約3,000人、ぼくの故郷だ。
海沿いに東へ行くと、はずれの山すそに高野坂(こやのざか)の登り口がある。
石碑の標識は物々しく「熊野古道高野坂」とある。幼い頃もみすぼらしい石碑があったように記憶するが、たしか「熊野路」だったのではないか。意味を理解したのは、熊野古道として注目されはじめた最近になってからである。
和歌山県は1999年を「南紀熊野体験博」と銘打ち、4月19日から9月19日の5ヶ月間、主だった催しを行った。その間に”一度”と思ったが成らず、時期はずれの今日(12月17日)、妻と古道歩きが実現することになった。
とはいえ、熊野古道は長い。大阪から田辺市あたりまで下る紀伊路、そこから東へ熊野本宮大社に至る中辺路、本宮大社から南へ下って那智大社に至る路と、新宮市の速玉大社に至る路、新宮から熊野灘、枯木灘沿いに田辺に至る大辺路。伊勢神宮に向かう伊勢路もある。
すべてを巡るには何日もかけなくてはならない。それだけの価値ある『熊野古道の全貌』は、いずれ挑戦することにしている。
今回の帰郷は母の見舞いが主目的だから、大仰な古道巡りはならず、高野坂のみを歩くことにした。1時間半ほどの短い峠越えである。その前後をあわせて道順を書いておく。
熊野古道・高野坂付近 |
三輪崎・黒潮公園(万葉歌碑) (1km)⇒ 鈴島、孔島
(1.5km)⇒ 高野坂入口 (0.5km)⇒ 聖護院休憩所跡、金光稲荷神社
(0.5km)⇒ 孫八地蔵 (1km)⇒ 御手洗の石碑 (0.8km)⇒
御手洗 (0.3km)⇒ 王子ヶ浜 (1.5km)⇒ 浜王子社跡 |
両親が昔耕した畑の山すそにあたるところが起点で、石畳ではじまる。畑へはその手前で右へ山のあぜ道を登ったので、石畳を歩いた覚えはない。その石畳も体験博のお陰で、きれいな古道となっていた。往時を偲ばせる森閑とした雰囲気も残っている。
少し行くと、杖のおばあさんが下りて来た。
「わしゃ、82やで。あんたの家知ったあるよ。酒屋やったやろ。大前屋(旅館)の前やがの。熊野サ(母の名)親切やったのうし。よう覚えたあるでえ!」
驚く妻と自慢顔のぼくを交互に眺めながら話してくれた。杖の助けを借りながらも、しっかりした足取りで去った。
樹林の古道
100mほどの石畳が終わると、古道は単純な山道のあちこちに特有の景色を見せてくる。オーバーな気もするが、『熊野幽玄の世界』と表現している本もある。
明るくはないがじめっとした暗さでもない。荘厳とまでは言えないが、それに近い感じだ。威厳と憂いとほのかな光……。ベートーベンの「エグモント」という序曲を思い出した。この景色にマッチするに違いない。
冬なのに小鳥の声々が周囲に冴えわたる。ときににぎやかに、ときに吃音の高い単声で。
カラスが目につく。いつもならいやな鳥だ。近くでじっと見ると怖くもなる。熊野のカラスは神の使いでもある。ヤタガラスといって、足が3本。神武天皇を大和へ導いた伝説の鳥。そう思いながらカラスを眺めた。
好きな落語に『三枚起請』というのがある。志ん生のをよく聴くが、米朝のサゲはこうだ。ここでも熊野は古い。
「アダに起請を一枚書けば、熊野でカラスが3羽死ぬっちゅうで。おまえみたいに起請を書き散らしていたら熊野中のカラスが全部死ぬやろな」
「熊野中どころか、世界中のカラスを殺したいね!」
「なんでえな」
「わてもつとめの身。カラス殺してゆっくり朝寝がしてみたい!」 |
展望台
「展望台」と書いた右向きの標識に従って少し歩く。あちこちツタの絡まったドーム状のやぶがあって、そこを抜けると、あった。真下の絶壁からずっと拡がる熊野灘。
驚いた。ふる里三輪崎自慢の鈴島、孔島をこのような角度で見たことはない。なんと美しい眺め! うれしくなった。
「いいですね!」
妻の相づちに気をよくして、何度もシャッターをきった。
鈴島、孔島の眺望↑ 展望台の下↓ |
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金光稲荷神社
金光稲荷神社は、薄暗い、いわゆる幽玄の道の奥まったところにあった。妻を道端に待たせてか細い道を入ってみる。拍子抜けするようなこじんまりした佇まいだ。
しばらくここで休息したら違った印象になるかもしれない。少なくとも誰も手を入れていない、森閑そのものだ。
熊野三山検校・聖護院宮(しょうごいんのみや)が峯入りをしたときの休息跡といわれるところは見落とした。
孫八地蔵
雑木林と竹林が交互に繰り返す薄暗い坂道をゆっくり登っていくと、山すそにちょこんと石の地蔵が見えた。孫八という名前がついている。苔むした体に赤いよだれかけがぶら下がっていた。
地の人がよく手入れしているようで、かわいくてきれいだった。
御手洗の石碑
竹林と雑木林の厳かな道をさらに1kmほど行くと前が開けた。『熊野灘と王子ヶ浜を見渡せる絶景のポイント』といわれているところである。
道に沿って左側に石碑があった。御手洗板碑(いたひ)で、六字名号(南無阿弥陀仏の文字)が刻まれた変哲のない2基の石塔である。変哲がないだけ古道に合うようにも感じた。
王子ヶ浜の景色はまあまあだった。どうも三輪崎側に思い入れがあるせいか、観光案内のいう”絶景”の印象を持たなかった。妻の印象は聞き損じたが……。
ただ、熊野灘に打ち寄せる波の音が妙に澄んで聞こえた。確かに違いがある、耳に心地よい響きであった。
ここを過ぎると程なく高野坂出口に来た。すぐ右に単線の”きのくに線”が通っていて、その向こうが王子ヶ浜だ。2kmほど歩けば浜王子社跡であるが、またの機会にした。
さんま寿司ときつねうどん
出口を過ぎると、あとはもう民家が点在するコンクリートの狭い道だ。15分ほど歩くと、国道42号沿いの広角(ひろつの)に着いた。三輪崎から新宮まで峠をひとつ越えたわけだ。13:30
道路際に”みかん大安売り!”のバラック小屋があった。
「試食どうですか! 何ぼでもええですよ!」
ということで入ることにした。
まず、東京へ”御浜(みはま)みかん”を別々に2箱荷造ってもらう。南高梅と紀和梅も買った。
その間、勧められるままに、みかん”大”を8個試食した。気が咎(とが)めたので、同じ”みかん大”を1kg量ってもらった。6個で100円だった。
42号を新宮市街に向かって少し歩く。
道沿いに”寿司とうどん”。お誂え向きだ。看板の品書きで確認し、妻を促して入った。
先ほどみかんをたらふく食べてしまったから、デザートの後の昼食ということになった。
お目当てはもちろんきつねうどんとさんま寿司。妻もぼくに合わせた。ただしぼくはさんま寿司3皿。うどんも寿司も少し甘かったが、頬が落ちた。妻もうまそうにひたすら食べていた。故郷の実感が湧いた。
浮島の森
新宮駅への途中で浮島の森に立ち寄った。87歳の井手さんという方が中を案内してくれた。
市街地でこの小さな一角が浮島であり、森である。亜熱帯、温帯、亜寒帯の樹木、草花が共生している。
ボランティアの井手さんは年を感じさせない。要所要所で歯切れよく丁寧に説明してくれた。
ご多分に漏れず、浮島の森も古代から近世に至るまで文献や歌に顔を出す。上田秋成の雨月物語、「蛇性の婬」で怖い舞台にもなっているらしいが、ここでは、入口の案内板にあった歌と俳句を記録する。
ほんに浮島浮いてはいても
根なし島とは言わしゃせぬ |
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野口雨情 |
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名にし負はば逢坂山のさねかずら
人に知られで来るよしもかな |
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藤原定方 |
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新宮駅から今夜の宿(国民休暇村・南紀勝浦)の宇久井まで、2両編成の汽車に乗る。
新宮駅はともかく、次の三輪崎、佐野、そして宇久井は無人駅だ。
佐野で新宮商業の高校生が大勢乗ってきた。朗らかな声々で、馴染みのアクセントが車中で飛び交った。
なお、今回も東京から南紀への往きは船を利用した(”さんふらわあ号”、帰郷の都度のルートだ)。有明埠頭を夜8時に出航、翌朝8時前に宇久井の那智勝浦港に着く。
のんびり、快適である。揺れもないから、二等寝台でいつも熟睡できている。
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