この文章は、
山歩き第28話「熊野古道(1999年12月)」と同一です。
高野坂

 新宮市街(和歌山県)から国道42号で峠をひとつ越えるか、JR新宮駅から”きのくに線”で西へひと駅乗ると南紀「三輪崎」だ。
 熊野灘に沿った漁師町である。戦後新宮に併合されて、東牟婁郡三輪崎町から新宮市三輪崎となった。人口約3,000人、ぼくの故郷だ。

高野坂入口

 海沿いに東へ行くと、はずれの山すそに高野坂(こやのざか)の登り口がある。
 石碑の標識は物々しく「熊野古道高野坂」とある。幼い頃もみすぼらしい石碑があったように記憶するが、たしか「熊野路」だったのではないか。意味を理解したのは、熊野古道として注目されはじめた最近になってからである。

 和歌山県は1999年を「南紀熊野体験博」と銘打ち、4月19日から9月19日の5ヶ月間、主だった催しを行った。その間に”一度”と思ったが成らず、時期はずれの今日(12月17日)、妻と古道歩きが実現することになった。
 とはいえ、熊野古道は長い。大阪から田辺市あたりまで下る紀伊路、そこから東へ熊野本宮大社に至る中辺路、本宮大社から南へ下って那智大社に至る路と、新宮市の速玉大社に至る路、新宮から熊野灘、枯木灘沿いに田辺に至る大辺路。伊勢神宮に向かう伊勢路もある。
 すべてを巡るには何日もかけなくてはならない。それだけの価値ある『熊野古道の全貌』は、いずれ挑戦することにしている。

 今回の帰郷は母の見舞いが主目的だから、大仰な古道巡りはならず、高野坂のみを歩くことにした。1時間半ほどの短い峠越えである。その前後をあわせて道順を書いておく。 

熊野古道・高野坂付近
三輪崎・黒潮公園(万葉歌碑) (1km)⇒ 鈴島、孔島 (1.5km)⇒ 高野坂入口 (0.5km)⇒ 聖護院休憩所跡、金光稲荷神社 (0.5km)⇒ 孫八地蔵 (1km)⇒ 御手洗の石碑 (0.8km)⇒ 御手洗 (0.3km)⇒ 王子ヶ浜 (1.5km)⇒ 浜王子社跡

高野坂地図

 両親が昔耕した畑の山すそにあたるところが起点で、石畳ではじまる。畑へはその手前で右へ山のあぜ道を登ったので、石畳を歩いた覚えはない。その石畳も体験博のお陰で、きれいな古道となっていた。往時を偲ばせる森閑とした雰囲気も残っている。

高野坂風景

おばあさん 少し行くと、杖のおばあさんが下りて来た。
「わしゃ、82やで。あんたの家知ったあるよ。酒屋やったやろ。大前屋(旅館)の前やがの。熊野サ(母の名)親切やったのうし。よう覚えたあるでえ!」
 驚く妻と自慢顔のぼくを交互に眺めながら話してくれた。杖の助けを借りながらも、しっかりした足取りで去った。

樹林の古道

 100mほどの石畳が終わると、古道は単純な山道のあちこちに特有の景色を見せてくる。オーバーな気もするが、『熊野幽玄の世界』と表現している本もある。

高野坂風景

 明るくはないがじめっとした暗さでもない。荘厳とまでは言えないが、それに近い感じだ。威厳と憂いとほのかな光……。ベートーベンの「エグモント」という序曲を思い出した。この景色にマッチするに違いない。

 冬なのに小鳥の声々が周囲に冴えわたる。ときににぎやかに、ときに吃音の高い単声で。
 カラスが目につく。いつもならいやな鳥だ。近くでじっと見ると怖くもなる。熊野のカラスは神の使いでもある。ヤタガラスといって、足が3本。神武天皇を大和へ導いた伝説の鳥。そう思いながらカラスを眺めた。
 好きな落語に『三枚起請』というのがある。志ん生のをよく聴くが、米朝のサゲはこうだ。ここでも熊野は古い。

「アダに起請を一枚書けば、熊野でカラスが3羽死ぬっちゅうで。おまえみたいに起請を書き散らしていたら熊野中のカラスが全部死ぬやろな」
「熊野中どころか、世界中のカラスを殺したいね!」
「なんでえな」
「わてもつとめの身。カラス殺してゆっくり朝寝がしてみたい!」

展望台

 「展望台」と書いた右向きの標識に従って少し歩く。あちこちツタの絡まったドーム状のやぶがあって、そこを抜けると、あった。真下の絶壁からずっと拡がる熊野灘。
 驚いた。ふる里三輪崎自慢の鈴島、孔島をこのような角度で見たことはない。なんと美しい眺め! うれしくなった。
「いいですね!」
 妻の相づちに気をよくして、何度もシャッターをきった。 

三輪崎の海
鈴島、孔島の眺望↑ 展望台の下↓
熊野灘

金光稲荷神社

金光稲荷神社 金光稲荷神社は、薄暗い、いわゆる幽玄の道の奥まったところにあった。妻を道端に待たせてか細い道を入ってみる。拍子抜けするようなこじんまりした佇まいだ。
 しばらくここで休息したら違った印象になるかもしれない。少なくとも誰も手を入れていない、森閑そのものだ。
 熊野三山検校・聖護院宮(しょうごいんのみや)が峯入りをしたときの休息跡といわれるところは見落とした。

孫八地蔵

孫八地蔵 雑木林と竹林が交互に繰り返す薄暗い坂道をゆっくり登っていくと、山すそにちょこんと石の地蔵が見えた。孫八という名前がついている。苔むした体に赤いよだれかけがぶら下がっていた。
 地の人がよく手入れしているようで、かわいくてきれいだった。

御手洗(みたらい)の石碑

御手洗板碑 竹林と雑木林の厳かな道をさらに1kmほど行くと前が開けた。『熊野灘と王子ヶ浜を見渡せる絶景のポイント』といわれているところである。
 道に沿って左側に石碑があった。御手洗板碑(いたひ)で、六字名号(南無阿弥陀仏の文字)が刻まれた変哲のない2基の石塔である。変哲がないだけ古道に合うようにも感じた。

 王子ヶ浜の景色はまあまあだった。どうも三輪崎側に思い入れがあるせいか、観光案内のいう”絶景”の印象を持たなかった。妻の印象は聞き損じたが……。
 ただ、熊野灘に打ち寄せる波の音が妙に澄んで聞こえた。確かに違いがある、耳に心地よい響きであった。

王子ヶ浜

 ここを過ぎると程なく高野坂出口に来た。すぐ右に単線の”きのくに線”が通っていて、その向こうが王子ヶ浜だ。2kmほど歩けば浜王子社跡であるが、またの機会にした。 

さんま寿司ときつねうどん

 出口を過ぎると、あとはもう民家が点在するコンクリートの狭い道だ。15分ほど歩くと、国道42号沿いの広角(ひろつの)に着いた。三輪崎から新宮まで峠をひとつ越えたわけだ。13:30
 道路際に”みかん大安売り!”のバラック小屋があった。
「試食どうですか! 何ぼでもええですよ!」
 ということで入ることにした。
 まず、東京へ”御浜(みはま)みかん”を別々に2箱荷造ってもらう。南高梅と紀和梅も買った。
 その間、勧められるままに、みかん”大”を8個試食した。気が咎(とが)めたので、同じ”みかん大”を1kg量ってもらった。6個で100円だった。

 42号を新宮市街に向かって少し歩く。
 道沿いに”寿司とうどん”。お誂え向きだ。看板の品書きで確認し、妻を促して入った。
 先ほどみかんをたらふく食べてしまったから、デザートの後の昼食ということになった。
 お目当てはもちろんきつねうどんとさんま寿司。妻もぼくに合わせた。ただしぼくはさんま寿司3皿。うどんも寿司も少し甘かったが、頬が落ちた。妻もうまそうにひたすら食べていた。故郷の実感が湧いた。

浮島の森

 新宮駅への途中で浮島の森に立ち寄った。87歳の井手さんという方が中を案内してくれた。
 市街地でこの小さな一角が浮島であり、森である。亜熱帯、温帯、亜寒帯の樹木、草花が共生している。
 ボランティアの井手さんは年を感じさせない。要所要所で歯切れよく丁寧に説明してくれた。

浮島の森

 ご多分に漏れず、浮島の森も古代から近世に至るまで文献や歌に顔を出す。上田秋成の雨月物語、「蛇性の婬」で怖い舞台にもなっているらしいが、ここでは、入口の案内板にあった歌と俳句を記録する。

ほんに浮島浮いてはいても
    根なし島とは言わしゃせぬ
野口雨情
名にし負はば逢坂山のさねかずら
    人に知られで来るよしもかな
藤原定方
浮島のやまもも熟れて落つるまま
作者不詳

…………………………

佐野駅 新宮駅から今夜の宿(国民休暇村・南紀勝浦)の宇久井まで、2両編成の汽車に乗る。
 新宮駅はともかく、次の三輪崎、佐野、そして宇久井は無人駅だ。
 佐野で新宮商業の高校生が大勢乗ってきた。朗らかな声々で、馴染みのアクセントが車中で飛び交った。

 なお、今回も東京から南紀への往きは船を利用した(”さんふらわあ号”、帰郷の都度のルートだ)。有明埠頭を夜8時に出航、翌朝8時前に宇久井の那智勝浦港に着く。
 のんびり、快適である。揺れもないから、二等寝台でいつも熟睡できている。

朗読(15:03) on
…………………………
大戸平

 『みさき』に母を見舞ったあと、三輪崎の弟宅に招待されていた。
 兄弟夫婦で団らん。母のこと、互いの近況、仕事のこと、趣味のこと、最近の新宮、三輪崎の話題、親戚知人、郷里の同級生の話……。語らいは次々と枝葉を渡り歩いて、遅めの昼食はすでに夕刻まで長引いてしまった。
「明日(あした)何時に帰るん?」と弟。
「神倉山(新宮)に参ってからと考えているんやけど」
「それやったら、折角やさかに大戸平の古道を歩かへん?」
「そらあ、うれしいけど……」
「それじゃ朝10時頃迎えに行くよってに、ロビーで待っててくれる?」
 ということで、本日(12月19日)、兄弟夫婦4人の「熊野古道・大戸平」になった。
 …………

 南紀湯川(那智勝浦の西隣)の夜は明けかけていた。ホテル『くまのじ』に泊まっている。
 正面の熊野灘はまだうすぼんやりとしているが、左の”紀の松島”も右手の太地湾もそれと見通せる。
 朝日は太地湾の山から出た。6時半頃に下駄を突っ掛けでホテルを出、海沿いの小道で待つことしばし。厚い雲間に陽光が少し顔を出した。

湯川の海

那智高原公園

 10時前、弟夫婦が車で迎えてくれた。早速那智高原へ。真冬の寒さではないが、風が冷たい。
 10:20 那智高原公園から西を仰ぐと間近の妙法山から遥か遠山まで山並みは横に縦にうねっている。この眺め、弟の言葉を借りれば、”重畳たる山並み”であった。

重畳たる山並み

 公園の一角に指標、『妙法山富士見台』とある。
「あそこが妙法山やろ」弟が説明をはじめる。
「20、30分上ったら展望台になったあるよ。そこで撮った富士山の写真が飾ってあるで。そやからホンマに見えるときがあるらしいんや。なにせ300km以上も離れた富士山が、やで」
「ちょっと考えられんなあ」、ぼくはいぶかる。
「そう、もちろんものすごい幸運やないとあかんわ。空気の澄んだ冬の、日の出前後だけやろのう。気温や湿度、そのほかの条件も影響するようやけど、の」
 弟が付け加えた。

 熊野古道大辺路は、熊野速玉神社から高野坂(こやのざか)を越えて、万葉集でよく詠われた三輪崎で海岸に出る。
 熊野灘沿いに佐野王子、浜の宮王子を過ぎ、那智山(なちいさん)への坂道をしばらく行くと有名な”大門坂”に着く。

大門坂入口
大門坂入口

『露しぐれ熊野古道は杖ついて』
 妻の句なりに上に辿って行くと熊野那智大社に着く。そこからかなり急坂を登ったところが那智高原で、ここに熊野古道大戸平口がある。北へ遥か彼方の熊野本宮大社への道だ。
 このルート、いわば熊野古道のハイライトである。難所は大雲取越えの越前峠。ここを過ぎると、小雲取越えを経て本宮大社へ至る。
 厳しく険しく長い山道と往時の面影が延々と続いて、衆生をしばし神仏の世界に埋没させてしまうという。
 参考のために、両ルートのあらましを紹介しておこう。

大雲取越え (約6時間) 小雲取越え (約4.5時間)
那智山バス停 (1km)⇒ 大戸平口、那智高原公園 (1.5km)⇒ 登立茶屋 (2km)⇒ 舟見茶屋(3.5km)⇒ 地蔵茶屋 (1.9km)⇒ 越前峠 (5.7km)⇒ 小口バス停 小和瀬バス停 (1km)⇒ 桜茶屋 (1km)⇒ 石堂茶屋 (1km)⇒ 松畑茶屋 (1km)⇒ 下地橋バス停

 ぼくたちは帰りの列車時刻にあわせて、大戸平口から舟見茶屋跡までを往復することにした。

 体験博まではこのように易しい道であったはずはない。石畳の坂道は往時と同じだろうが、山道はどこまでも整備されていた。ありがたい話である。そうでなければぼく自身、いまここを歩いているとは云えず、まして他人(ひと)に「熊野(南紀)は素晴らしいですよ。ぜひ一度!」と勧められるはずはない。

山道

「杉と桧ばかりやね」、ぼくは落胆したように言う。
「ほとんど全部植林なんや。鬱蒼(うっそう)とはしてるけど」
 弟は同意しながら、
「杉や桧は実(み)はならんのや。知ったある?」
「へえー?」
「そやさかに、猪や鹿や熊や……、麓(ふもと)にえさを求めて降りて来るんやで。動物もこの辺はずいぶん少なくなったと思うよ」
 エコロジーの崩れたバランスは人知れず悪循環を重ねているようである。それはそれとして……。
 熊野は隈野。大げさにここを”地の果て”と呼ぶ案内書もある。”難行苦行”が観光誌のどのページにも踊り、”癒(いや)し”という言葉が手軽に扱われている。
 苦難なくして到達できない”癒しの邑(むら)”にしては、住人はぼくを含めて平凡だ。

 弟が妙なことを言った。
「山形県と和歌山県は似ていると思わへん?」
「そうやね……?」
 ぼくは意味を測りかねる。
「だってさ、山伏といい、反骨精神といい」
 弟の声は高くなる。
「あちらは”おしん”の”耐える”だけどさ、こっちは何せ”あきっぽい”からね」
 ぼくはまぜっかえす。
「温泉も似てるよ」と弟。
 すかさずぼくは、
「日本海と太平洋。大雪の北国と太陽の南国。対極やね。小説家でもあんたの好きな山形の藤沢周平に比べると新宮の佐藤春夫や中上健次はかなり違うんじゃないの?」
 依然弟は不満顔で、
「そうかなあ……。どっちも魚は美味しいし、山菜も豊富だし、山並みもあるし、立派な川も流れているし」
「行きたくなってきたね! 一度4人で行ってみようか」
 ぼくはけしかける。
「ぜひ行こうよ」
 やっと弟は笑顔になった。
「山に登って温泉に入って、ネ!」
 ぼくは早くも桃源郷を想像した。

 西斜面からの寒風はかなりこたえる。時計は12時を指した。
「風のないところで一本立てようか」と弟。
 判じかねる妻にぼくはしたり顔で、「ひと休みしようか」ということだよと、注釈しながら、
「そうやね。そうしようや」
 この前進呈した岩崎元郎先生の山の本で学んだようである。

 紀の松島を見晴かす絶好の東斜面で弁当を広げた。日溜まりになっていて、なんとも心地よい。すべてがノブやん(弟の妻君の愛称)の手料理だった。忙しい英語塾の合間を縫って準備してくれたのだ。
「おにぎり、美味しいですね。どこの米ですか?」妻が訊く。
「佐野の米やよ。今年の」
 にぎやかに話す3人を尻目にぼくはスナップショットに夢中だった。

熊野灘
昼食

山道 すぐそこが舟見茶屋であることを確認して、戻ることにした。
「寒い!」どころではない。
 しばらくの休憩でくつろいだ体に厳しい寒風。
 4人ともフードで頭と耳を覆う。指は手袋の中でもかじかんで痛い。乾く唇をなめるとさらに乾いてぴりぴりする。すでに頬は強(こわ)ばっている。

 行きより遥かに厳しさを増した帰りを励ましあいながら確かな足取りで戻った。ときどき前方に顔を出す熊野灘の景色は、こちらの寒風と底冷えを知らぬげに、いとも長閑(のどか)だった。

野イチゴ

「遅い」
 弟と大戸平古道口に戻って数分たった。さらに待つ。先ほどまでノブやんと妻は寒い中ではしゃいでいたはずだ。声高で絶えず笑い声が聞こえるから、安心して前を進んできたのだった。
「まさか」
 道に迷うはずがない。斜面へ落ちるはずもなく、転んで怪我をしたとも考えられない。
 弟は下りたその足で、躊躇なく駐車場へ車を取りに行っている。
「おかしい!」
 来た道を戻ってみることにした。と、あいも変わらずの笑い声が遠くからしてきた。

山道

「野イチゴ美味しいわよ!」
 二人とも両手にあまるほどソレを葉ごとに携えていた。口をもぐもぐさせながら。
 確かにうまい。ほのかに甘くて優しい味。
「熊野の味ですね!」
 妻の感想のとおりだった。

 車に乗る前に大戸平古道口で弟と写真に収まった。先日M君から40年近く前の写真を受け取ったが、その中の弟と二人の写真を意識してであった。

弟とぼく
弟とぼく

 いつ会っても互いに年齢(とし)は関係ないが、こうして二つの写真を前にすると、年輪を感じざるを得ない。ぼくは来年(2000年)還暦、弟はもう孫がいる。

 …………
 予定よりかなり時間を費やしたが、14時06分の那智勝浦発臨時特急「南紀」に間に合った。かろうじて。
 友人Yさんに約束してきた土産”ねぼけ堂の瀧の音”はあきらめざるを得なかった。名古屋で”ういろう”を買って、ひとしきり弁解することにした。 

「熊野古道」メモ おわり 

朗読(14:45) on
<高野坂 高野坂早春譜>

閉じる Close