第13章 晩年
1.晩年、子供たちの成長

 長男京太、次いで京二の誕生は、京蔵にもくまにも天使の頼子が連れてきてくれた奇跡であり、神の授かりものと信じて疑わなかった。
 京太は色白で、幼児の頃はカンが強く、虚弱を心配した。が、小学校に入るとそんな心配は吹っ飛んだ。
 上級生になると、二年下で健康児の京二とともに勉強に秀で、草野球ではエースで強打者だ。
 野球は砂浜の出来事以来二人とも断念したが、中学では、兄は軟式テニスで郡大会に出るほどになり、弟もスポーツ万能で、こちらはひ弱くない。生徒会長にもなった。

 京蔵は田んぼと漁、くまは食料品店が続いている。
 息子二人が高校に入ると、酒や食料品の配達はもとより、田んぼの手伝いもやらせづらくなった。畑はすでに手放している。
 そのうち田んぼも人手に渡し、店の配達は断ることが多くなった。

 頼子は新宮高校卒業後、大阪の料理専門学校に進む。京太は東京の大学へ、京二も二年後に横浜の大学へ進学した。
 親は子供たちを放ったらかしにしたわけではないが、彼らの勉学には一切タッチしていない。《勉強して世の中の役に立ってほしい》が二人の願いだった。彼らの思うにまかせ、彼らはひとりでに成長していった。

2.晩年、京太の学友に素潜りを見せる

 昭和三十七年(1962)、長男京太が大学二年の夏。
 学友の小森君が夏休みを利用して、東京からはるばる京太の故郷三輪崎を訪れ、魚住家に一週間滞在した。彼、生粋の江戸っ子。体型・身長いずれも京太と同じで中肉中背、朗らか。
 入学半年たった頃、田舎の方言しか話せずに孤独な京太と仲良くなり、それとなく標準語を教え、練馬区の自宅に度々泊まらせ、母の手料理を味わわせた。ふる里の田舎料理のみで育ち、納豆はおろか、麺類はうどんしか味わったことのない京太をホームシックから救ったのは彼だ。

 京太は泳ぎに不自由はないが、それ以上のことを父から教わっていないし、意欲もない。
 小森君を招くにあたって、京太は父に一つお願いした。滞在中の一日を小舟に乗せて、父の素潜りと水中鉄砲の技を(じか)に見せること。父が顔をほころばせて了解したのは言うまでもない。

 素潜り見物に絶好の夏日和。小舟に三人が乗り、父京蔵が櫓をこぐ。もちろん学友が海に投げ出されてもおぼれないように浮き輪は用意してある。
 鈴島横の岩場のところで(いかり)を下ろす。京蔵はすでに越中ふんどしで、容易万端。水中眼鏡をつけ、獲物を入れるぼっつり籠を携え、自前の水中鉄砲を手にして、静かに海に入る。小森君が真剣に見守り、その頃流行(はや)りの箱型カメラのシャッターを押す中、ひと息深呼吸して海中に潜っていく。海は凪いで、青空。猛暑ではないから、小森君も快適のようだ。

 小一時間もすると、小舟の獲物入れは、鯛、伊勢エビ、アワビ、……。夕食のごちそうが盛りだくさん。感激しきりの小森君を見て、京太は誇らしく父に頭を下げる。父は父で、息子の願いをかなえたというよりは、いつもの生きがいにもう一つの喜びを味わっていた。

 夜は母くまが手によりをかける。刺身、焼き物、煮物。こんな贅沢な地料理、どれもこれも小森君には初の食体験といってよい。まずはその豪華料理をカメラに収め、親友の父の方言丸出し説明に耳を傾けながら満足の舌鼓。
 京太はアワビの肝が何よりの好物だ。少し酢味にして、飽きず口に放り込んでいる。父母ともに息子に対する日頃の親切を学友に感謝し、息子の確かな成長を実感したのだった。

 京蔵は、その後もこの素潜りの生きがいを続けるが、数年ならず体に異常を感じはじめる。

3.旅立つ

 体調思わしくない日が続いている。便の出が不規則で悪く、時々血尿・血便を見ている。そんな事お構いなしの性分だが、体は正直だ。田んぼはすでに人手に渡してしまっており、水中鉄砲片手の素潜りもままならない。
 体は日を追って弱り、一日の大半をベッドに横たわらざるを得なくなった。そして昭和四十年(1965)の夏、身動き不自由な状態で、ドバっと血便が出た。救急車で新宮病院に運ばれる。
 夏休みで実家に帰っている次男の京二が姉と兄にその旨連絡した。姉の頼子は西宮の割烹料理店の跡取り息子と結婚して、女将(おかみ)家業修業中。長男京太は鉄鋼会社に就職し、名古屋の工場に勤務している。

 数日にわたる各種検査の結果、病院の診断は、「末期性大腸ガン、即手術を要す」。
 妻のくまと子供たち三人が隣室に待機する中で、手術は数時間に及ぶ。術後、担当医師は彼らにこう告げた。
「残念ながらガンは体中に転移しています。これ以上の手術は無駄です。あと半年生きてくれればいいのですが……」

 自宅二階のベッドで寝たきりの生活が続く。窓の向こう遠くに広がる海原が何よりの(いや)しだ。アラフラ海の若き日々が目の奥に次々と現れる。
 くまの心配りで安気な毎日が幸いしたか、病院医師のご託宣に拘わらず、四年近く生き延びた。
 かかりつけの先生が、「余命数日だと思います。子供さんたちに知らせてください」。
 くまにそうささやいたのが昭和四十四年(1969)の四月下旬だった。その時、頼子は西宮で料理屋の若女将、京太は鉄鋼メーカーの名古屋工場で生産工程管理に励んでおり、京二は大手銀行に入社、名古屋支店で働いていた。三人ともすぐに帰郷。

 くまと子供たちが見守る中、五月はじめ、京蔵は六十八歳の生涯を閉じた。
 偶然とはいえ、長男京太はその二か月後、社命で米国へ留学する。それを生前知らされていた父京蔵は、自らの一生を妻のくまと子供たちによってすべて報われた表情で旅立った。

第13章朗読: 12分27秒

「海の男の一生」 おわり
第12章 家族二景 参考:三輪崎、いま昔
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