第1章 ふる里と幼少の頃
1.ふる里

 和歌山県を地図で見ると、太平洋に向かって突き出た紀伊半島南部にあり、緑濃い山並みが多くを占めている。上は大阪府、奈良県、三重県に囲まれて、この一帯まさに紀伊山地≠フ名にし負う。
 太平洋に臨む県南端の潮岬(しおのみさき)は、「向かいは大島」の串本節で知られる串本町の真下に位置し、本州最南端でもある。四国高知の足摺岬・室戸岬と並び、台風シーズンの報道には欠かせない座標軸にある。四季を通じて温暖で、南国的な情緒に富む。岬一面に広がる草原は望楼の芝≠ニいい、足をすくませる断崖絶壁に向かって、こちらはのどかだ。

 崖っぷちの指標「本州最南端」の(そば)に大理石の碑が建っており、海に向かってこう語りかけている。

 この顕彰碑はオーストラリア海域において真珠等の採取に従事し、不幸にも亡くなられた串本町出身者等の御霊(みたま)を慰めるとともに当海域における真珠産業の振興発展に寄与された先人たちの偉業を顕彰し、その功績を末永く後世に伝えるため建立するものである。
 日本人は一八七八年から一九四一年まで、北部オーストラリアの産業であった真珠貝、高瀬貝、ナマコの採取漁業に雇われ、島の人々とともに活躍し、漁場の発見、漁法の改良を通して、この漁業を基幹産業とする等、地域の発展に貢献した。……(後略)

一九九八年九月吉日
顕彰碑建立発起人会

 赤道はるか南のオーストラリアは、十九世紀後半以来白豪主義の名のもとに、原住民の迫害・締め出しとアジアからの有色人種の移民排除に徹していた。
 そんな中で、明治初めの頃から太平洋戦争勃発による撤退に至るまで、南紀熊野といわれる和歌山県南の漁師が同国北方近海のアラフラ海へ真珠貝採取の出稼ぎに行っていた。
 大陸に上がることはまれだが、わずか北の小島「サーズデイ・アイランド(木曜島)」には停泊して、簡易宿泊施設の世話になっていたようだ。食料や燃料の補給もこの島で行う場合が多かった。司馬遼太郎が小説『木曜島の夜会』で触れている。

…………………………

 潮岬から西の海域が枯木灘の名で知られるのに対し、東側は熊野灘と称され、黒潮うねる海の眺めも、海岸沿いの景色も、見ごたえがある。
 岬へのバスの起点であるJR串本駅から熊野灘沿いを鈍行で東に向かうと、まずは奇岩群の橋杭岩(はしぐいいわ)、その向こうに紀伊大島が見える。古座川の古座を通過すると、観光名所の最寄り駅が連なる。鯨の太地、温泉の湯川、マグロ漁港の勝浦、那智の滝・那智大社・青岸渡寺の那智、……。そして新宮駅手前の無人駅が三輪崎で、1時間ほどで着く。
 新宮市三輪崎。この町が海の男・魚住京蔵の故郷で、当時は東牟婁郡三輪崎村。これからの話の主舞台である。
 名もない町? なんのなんの、歴史をたどるとその名が現れる。……

 1,300年前の奈良時代(8世紀)に編まれたという万葉集にこんな歌がある。

苦しくも降りくる雨か神が崎(みわがさき)
狭野(さの)の渡りに家もあらなくに
長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)

 紀伊半島南端に近く、山並みと熊野灘に挟まれた猫の額の貧村・神が崎(みわがさき)(現、三輪崎)は、魚住京蔵が生まれた頃もまだその昔をとどめる辺鄙(へんぴ)の漁村だった。
 明治三十三年(1900)秋、京蔵は漁師の長男として生まれた。病弱の父にして、その後次々と7人の弟妹が続く。
 ろくに小学校にも行かず、物心つくや父と海へ。小舟に乗って、父の指図に従う。子供ながらも役に立とうと、いじらしく夢中になって手伝った。
 大正五年(1916)、百トンに満たないポンポン蒸気船に揺られてオーストラリア北方のアラフラ海へ。十六才だった。この海域で蒸気船をねぐらに真珠貝採取の船員として仕事に打ち込む。
 そして十七年経った三十二才の昭和七年(1932)、幸運にも生きながらえて、同様の貨物船で赤道を越え、故郷三輪崎に帰ることができた。
 そんな男の物語である。

2.幼少の頃

 魚住京蔵が生まれた明治三十三年(1900)というと、新世紀への境目で、フランス・パリでは第五回万国博覧会が催された。年鑑によれば、日本政府は法隆寺金堂風の日本館を建設し、御物を含む古美術品を出展したそうで、海外公演中の川上音二郎・貞奴夫妻が来演したり、夏目漱石がロンドン留学の途上訪問したとある。四年後に日露戦争がはじまる。

 当時の三輪崎村に照準をあわせよう。
 熊野灘に面した三輪崎は、一山向こうの木材集散地として羽振りの良い新宮町とは生活圏が隔絶していて、貧しい漁村だった。漁師だけでは成り立たないから、どの家庭も田んぼや畑で半農を営んでいた。
 三輪崎の西隣りは佐野(万葉集の狭野)と木ノ川で、この三村を併せて三輪崎地区とひとくくりされ、人口四千人弱に尋常小学校が一校あるだけだった。
 江戸から明治の世になって鎖国が終わるや、日本各地から海外へ移住・出稼ぎがはじまった。和歌山県からも、ブラジル、ロサンジェルス、ハワイへの移住者が増えていった。が県南の南紀熊野、とくに串本から三輪崎に至る熊野灘沿いの町村からは、南洋アラフラ海への出稼ぎが多かった。
 食いぶち減らしと仕送り期待で、魚住家の親戚筋でも、何人かの若い男手がアラフラ海で働いていた。そのすべのない京蔵の生家は貧乏のどん底にあった。

 父の魚住松蔵は(やまい)がちで、漁師稼業は思うにまかせない。母フクがやせた畑でせっせと働いても、たいした足しにはならなかった。
 京蔵が尋常小学校に入った頃、松蔵は盲腸をこじらせ腹膜炎を併発した。もとより医者に診てもらう金はなく、手製のナイフを右手指にくくりつけて、自分で腹を切り開いた。
 幼い京蔵が無我夢中で内臓から出てくる(うみ)を布きれでぬぐい、歯を食いしばる父の指図で、患部をしぼり出す。潮水で傷口を消毒し、残った布きれをすばやく当てる。父はうめかない。息子もわれを忘れてかすれ声の指図に従った。

 京蔵は小学校に一年も通っていない。父を助けて漁に出るのが日課になったからだ。
 松蔵は京蔵を筆頭に男六人、女二人の子を妻に置き去りにして五十歳直前で他界。病弱のわりには長生きした。妻のフクはその後数年生きた。

第1章朗読: 13分03秒
目次 第2章 アラフラ海
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