第4章 新婚生活
1.新婚

 魚住京蔵は、昭和七年(1932)、三十二歳で十七年にわたる南洋アラフラの海上生活を終えた。一時帰郷のとんぼ返りをしてからでも八年たっていた。

 日本とドイツが相次いで国際連盟を脱退した年だ。二年前には満州事変が起きており、その八年後に勃発する太平洋戦争に向かって、導火線に火がついた年といえる。
 住み慣れた南洋の海と木曜島を後にして、京蔵はようやく祖国日本へ帰ることになる。
 百トン程度の蒸気船がアラフラ海を出て、ニューギニア島とインドネシア諸島の合間をぬって北上し、赤道を通過する。パラオ、グアム、その他数港で給油を繰り返し、半月の航海で三月初め串本港に着いた。
 ふる里三輪崎の新町大通りで、二階からは横丁の向こうに海が見えるという格好の位置に新居を購入し、遅ればせの新婚生活が始まった。八年前に八幡神社で式を挙げた新妻のくまは二十五歳になっていた。
 アラフラ海とのつながりは、二十人がゆったり乗れる真珠貝採取船『日の本丸』を新造してつづくことになる。

 日ごろは小舟の伝馬船(てんま)を操って沖に出る。釣り漁には関心がなく、潜っては自身が考案した竹ざおの水中鉄砲で獲物をしとめていた。
 帰りは天びんにぶら下げたぼっつり=i竹で編んだ魚かご)が重い。タイ、カレイ、グレ、エビ、アワビ……、くまの実家である佐納家の両親や隣近所が余得にあずかっている。
 もちろんこれは余技といってよく、主たる日課は、熊野路(現・高野坂、熊野古道の一部)の三輪崎口近くにある小山の畑を耕し、八幡神社から西寄りの田んぼで稲作に精出すことだった。

 研究熱心は、海から(おか)に上がっても変わらない。畑では、サツマイモの品種改良を我流で試みた。甘さに変化はなかったが、大きさはカボチャに見まがう農林一号≠ェごろごろできて、毎年町の話題になった。
 田んぼでは、着々と二期作の準備をしていた。肥料・施肥の工夫、耕し方、一期目の田植え時期……。二反の田んぼを自らの手で耕し、牛には一切頼らない。くまも店のかたわら、精一杯手助けした。

 後日談になるが、戦後何年かたって、紀伊半島初というコメの二期作は成功し、新聞種にもなった。が京蔵はその後数年でもとの年一回に戻した。収穫量は二倍近くに達したが、費用はそれ以上とか、好きな漁にも出られないとか、理由はいくつか考えられよう。それにもまして、二期作の目標達成であきたことが本音といえそうだ。研究熱心である反面、熱しやすくて冷めやすいところもある。

 のんびりすること、遊び、つきあい……、そんな息抜きに無縁な京蔵だが、くまとの生活は幸せそのものだった。前に旅館だったという広い二階建ての屋敷で、二人の生活が続いている。大きなダブルベッドを神戸の老舗商社から取り寄せて、二階の寝室に置いていた。二人の城だ。頑丈で寝心地がよい。
 愛妻は花の二十五歳。恥じらいを含んだ笑顔はおぼこ娘の名残りがあるとはいえ、色白の容姿は隠しようもなく成熟した女になっていた。持ち前の器量に加えて、長い黒髪をたばねた顔立ちはほのかに色気をおび、痩せぎすだった肢体は今やふくよかに均整が取れている。京蔵はベッドで天国だった。アラフラの苦労にくまが報いてくれた。

 京蔵は、くまを腕枕にして、アラフラ海を思い出していた。天井に向かって、しわがれ声で口を開く。つい最近までの自身の日々だ。くまは目を閉じてじっと聞いている。

「アラフラはええ海やった。毎日陽がぎらぎら照りつけてのう。目を開けておれんくらいにまぶしいんやだ。海はゆったり波打っていて、青や緑や黄色や色とりどりに輝きやる」
「潜るとのう、どこまでも透きとおって、珊瑚礁がよう、ず〜っと広がったある。(こわ)さんようにそ〜っと作業をするんやだ。おとぎの国はこんなんやろのう。お前にもいっぺん見せたいで」
「魚もうようよ泳ぎやる。おっきい(大きい)のもちっさいのも……、びっくりするど(ぞ)。あっちでもこっちでも同(おんな)じようなのがひとかたまりになって突き進んだり、寄りかたまって遊びやる。野山の鳥や動物たちと一緒やのう」
「海の底はそりゃ〜いろんな生き物がはいやるんやだ。薄暗いけど、目をこらすと見えてくる。ゆっくりもあるし、早いのも……、じいっと見るとみんなかわいいで。そこら中の海草がそよいで、トンボや小鳥みたいな小魚がスイスイ飛びやる。山か野原をば歩いてるみたいや。仕事を忘れてしまうくらいの別天地や」
「おれが採った一番おっきい真珠は、親指どころやなかったで。お前に見せたかったのう。すごい値段で売れたそうや。もっとおっきいのは虫食いやった……」
明日(あした)は鮫の話や。恐いど」

 海底の話ばかりではない。木曜島のこと、ニューギニア島のこと、ケアンズの町とバイキ神父、現地の人たちとの交流、……
 いつしか話が途切れて、京蔵は寝息を立てている。寝息がいびきに変わる。

 当初はこのいびきがくまを悩ませた。大きな鼻音を立てながら吸って、頂点で一分ほど呼吸が止まる。忘れたころに、「プーッ」と息が飛び出す。しばらく鼻音と寝息が続いて、また断続のいびきになる。
 アラフラみやげのひとつと、くまは自分を納得させもし、むしろいとおしく感じた。そのうち慣れて気にならなくなった。

2.子宝願望

 二人は未だ遊び心に縁がない。家を留守にするのは、くまの妊娠を願って熊野川上流の川湯温泉に出かけるときくらいだ。

 新宮からその川湯温泉や周辺の湯の峰温泉、瀞八丁、それに熊野本宮大社といった有名どころに向かっての行き方に二通りある。熊野川を船で上るか、バス道路を利用するかだ。
 船はプロペラ船といって当時から観光目的で利用されたが、プロペラの回転音がやかましくて、ガイドの声はおろか、隣同士の会話もままならなかった。近年ジェット船になって幾分快適になった。
 バス道路は熊野川沿いの山道を切り開いてできた。マイカー時代になってからはゆとりの二車線だが、これも当時は幅の狭い一本道で、対向車を交わすのに苦労するところが多かった。

 京蔵夫婦は当然バスを利用。新宮駅前で熊野交通バスに乗って、本宮大社の手前で降りる。二時間ほどで着いた。
 川湯温泉郷の特徴は、川原のここかしこに湯がわき出ていることだ。泊まり客はそのどこかをスコップで掘って浸かるもよし、「仙人風呂」という露天風呂に入るもよし、四季を通じて独特の温泉を楽しめる。
 くまはもっぱら旅館の内湯につかり、川原の湯を利用したことはない。羞恥心が本音だが、焼きもちの夫の気持ちを察してのことでもある。

 新宮病院産婦人科は、くまの妊娠困難を子宮後屈と断じ、あらゆる手立てを施したが、成果はなかった。

 くまのすまながる様子に、京蔵は真顔で怒った。
「子供はほしけどの。お前とこうしていられるだけでおれは幸せなんやで」
 京蔵はむしろさばさばし、くまと二人だけの将来設計を描いていた。
「南洋を見せたい。氷川丸に乗って一緒に世界を見て回りたい……」

 くまは京蔵をおまはま≠ニ呼んだ。
「長いことアラフラでご苦労なさったおまはまやのに、私になに不自由ない思いをさせてくれて。佐納の両親も、『京蔵サは神様や』言うてます。わがら(自分たち)だけの所帯やさかに、好きなように過ごしてほしよ」
 すまなさだけでなく、くまは心底そう思った。

「おれはお前と一緒になれたのがアラフラ一番の授かりものやと思てる。ほんまにこんな幸せはないんやで」
 夫婦の会話はこれに尽きたが、くまのそれとない勧めもあって京蔵はいつしか酒・タバコをたしなむようになった。くまは笑顔で毎晩燗酒を酌し、夫が獲ってきた海の幸を調理して食卓に並べた。くまは下戸(げこ)で、京蔵の相手ができずすまながった。

 くまは畑仕事だけで満足せず、雑貨店の開業を強く希望した。自分なりにいろいろ調べたようだ。
 表玄関部分を改良し、そのだだっ広い土間を魚住商店とした。元旅館だから、店舗を開くには不自由しない。
 統制経済下で開業条件は厳しかったが、酒類・タバコ・塩・砂糖・味噌・醤油……、必要な免許は全て取り、当時の日常生活の雑貨一通りが扱えるようになった。

 仕入れはくまの商品台帳に従って京蔵がやり、店はくまが切り盛りする。小学校もろくに行っていない夫婦が大福帳をこなし、くまの腰の低さと生来の思いやり・面倒見のよさで、魚住商店は隣近所のみならず、広く親しまれて、いつしか店員をおくまでになる。

 その魚住商店を開業してしばらくした頃、三輪崎漁協がややこしいことに巻き込まれる。

第4章朗読: 19分00秒
第3章 とんぼ返りの帰郷 第5章 時化の日
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