第2章 アラフラ海
1.南洋・アラフラ海へ

 魚住京蔵は大正五年(1916)に南半球のオーストラリア北方、アラフラ海に渡った。まだ少年、十六歳だった。その頃、……

 ヨーロッパでは二年前に起きた第一次世界大戦が全土で繰り広げられており、日本もドイツに宣戦布告して参戦していた。新開発の戦闘機、爆撃機、戦車、潜水艦……、陸海空とも従来とは様相を異にする工業力の戦いで、大量殺戮が繰り返されていた。(二十世紀全記録、講談社)

 アラフラ海の海域では三輪崎村は真珠貝採取要員の主たる供給源で、若い(しゅ)はこぞって出向いており、中で京蔵は一番若かった。

 百トンもないポンポン蒸気に二十人足らずが乗って串本港を船出する。木の葉となって揺られながら一路南へ南へ。
 西遠方に沖縄本島が見え隠れして、本土は彼方に消えている。沖ノ鳥島を過ぎて、マリアナ諸島で給油。さらにフィリピンの東、パラオ諸島で給油。運よく赤道を越えてニューギニア島を横切ると、そこはオーストラリア北東部に広がるアラフラ海である。約半月の幸運な航海の果てだ。
 この海域は世界でも真珠・真珠貝の宝庫と云われている。その名「ARAFURA」は、ポルトガル語の古語で「自由人」とか。

 アラフラ海は近隣地域の働き手は少なく、東南アジア等、他地域からの出稼ぎで占められていたが、その大部分が日本人だった。出身地別では和歌山、沖縄、愛媛……、和歌山県南の南紀熊野地方出身が群を抜いていた。
 アラフラ海は、海底に真珠貝、とくに白蝶貝(しろちょうがい)を豊富に宿している。オーストラリアとニューギニア島に囲まれたこの海域が、京蔵にとって天から授かった働き場所となった。
 新参の丸刈り少年は、到着するや太平丸≠ノ加えてもらう。十八人の所帯だ。
 少年はしばらく船上でテンダー(雑役夫)として、見よう見まねでがむしゃらに働く。覚えもよく機転もきいた。素直だから使うほうも重宝がった。
 無口、まじめで、悪ふざけの通じないのが欠点といえたが、先輩たちはやむなしとした。
 船底の雑魚寝も(はな)から苦にならない。狭い実家での大家族の夜と比べれば、彼には当たり前なのだ。寝つきは仲間が舌を巻くほどで、水平線に陽が昇る前には、しゃきっとして朝食の準備にかかっていた。

 持ち前のきまじめな実直さでかわいがられながら、二年もせずいっぱしの働き手になっていた。呑み込みの良さは仲間が認めざるをえない。本人が思いを口にする前に、
「潜ってみやんせ」
 当然のようにダイバー(潜水夫)昇格を言い渡される。
 宇宙服のようなデレス(作業服)に身を包み、船上の手こぎポンプから空気を送る一筋のホースを命綱に海底に潜る。みなが危ぶむようなへまはやらなかった。
 浅いところは越中ふんどしで素潜りだ。息の長さで負けることはない。
 その頃には人なつっこい幼顔(おさながお)は消えて、現地人並みの真っ黒なたくましい青年になっていた。くぼんだ細い目がわずか新米の頃の面影を残している。
 太平丸は一貫してアラフラ海での京蔵の働き場となる。

 真珠≠ヘいわゆる真珠貝≠フ体内で生成される宝石である。その真珠貝だが、一種類ではない。アコヤガイ、シロチョウガイ(白蝶貝)、クロチョウガイ、マベガイ……、淡水に生息するイケチョウガイも入る。
 アラフラ海には白蝶貝が豊富に生息している。二枚貝で、貝殻は円形状をなし、直径三十センチほどのもある。外側は白と黄と茶を混ぜたようなくすんだ色をなし、内面は銀白色で光沢がある。
 まれにその中の肉が宝石たる真珠を抱いている。養殖真珠と違って、見つける側にとっては偶然の産物で貴重だ。粒それぞれの値打ちは、大きさ、形、キズの有無等、各種基準を総合して判定される。形一つとっても円球(ラウンド)ばかりとはいえず、変形したもの(バロック)も多い。アラフラ海の真珠は青みがかった色を呈しており、他の海域のものと区別して南洋真珠≠ニ呼ばれた。
 きらびやかな真珠のみならず、白蝶貝は工芸品やボタンの材料として、欧米に向けて盛んに買い取られていた。日本の船団はこの漁場に停泊し、ひたすら海底の白蝶貝を採取する。

 白蝶貝の肉は船員の食用に供された。その干物は日本にも持ち帰られて、重宝されていた。後年筆者も幼い頃よく食した。少し癖のある味だが、うまい。似た味のするめ≠ェ問題ではなかったことを覚えている。

2.ダイバーとして働く

 白蝶貝の採取は、在りかを見つけるのがコツである。京蔵はすぐに慣れた。海底のつくりと潮の動き加減、珊瑚礁、群魚の回遊で見当がつく。創意工夫は親ゆずりで、貝のはがし道具も獲物入れも自分なりに工夫した。人一倍丈夫な体と一途な熱血が後押しする。
 要領を得るとともに、稼ぎ頭へと上りつめていく。
「京蔵サは太平丸の守り神や」
 事実上、船団の若きリーダーとなった。

 木曜島がアラフラ船団の基地であった。
 アラフラ海東端にあるオーストラリア領の島嶼(とうしょ)の一つで、南はオーストラリアのヨーク岬半島、北はニューギニア島に挟まれている。周辺は珊瑚礁からなる浅瀬が多く、真珠貝の採取はこのあたりに集中していた。
 船内とともに、この島の仮宿舎をねぐらとして仕事に精出し、船上での食料や燃料・その他諸々の物資もここで補給した。
 北のニューギニア島(パプア・ニューギニア)は、オーストラリアの都市ケアンズ(CAIRNS)と並んで商取引の場だ。船団はその目的でよく停泊し、次第に原住民との交流も深まった。
 住民はオーストラリアの言語たる英語をほとんど話せない。逆にこちらが現地の言葉を覚えて、ジェスチャー入りで通じあえるようになった。いつしか住民の中には船が来るのを待っていて、自慢の飲み物や食事を供した。
 村の祭りにあわせて停泊するようにもなり、彼らの「ヤスケラ踊り」に加わって、大いに騒ぎ、大いに歌った。

ヤスケラノー マルワマンタラノーエー
カイガラビスケ トッパイカー ……

 京蔵はといえば、いっぱしのダイバーになってからは、木曜島では仕事の一環として英語を身につけなければと、キリスト教会の日曜礼拝に通い、信者たちと交遊がはじまる。
 英語の上達もさることながら、彼は熱心なカトリック信者になっていく。
 仲間うちでは無駄口をたたかず、冗談の通じにくい青年だが、木曜島でもニューギニア島でも、だれよりも早く現地に打ち解けて、彼らに好かれた。
 とくにニューギニア島の住民とは「ヤーヤー」言いあい、彼らは「キョーゾ、キョーゾ」と愛称を連発した。「ヤスケラ踊り」でのはしゃぎようは、日頃の青年京蔵とは別人だった。

 いわゆる潜水病がある。水圧が高く酸素希薄な海底から海面に向かって浮き上がる際、血中の窒素が災いして起こる病気で、激痛やめまいをともなう。悪くすると痴呆になったり死に至る。手足がしびれて不自由になるケースが間々ある。三輪崎に歩行困難な男が多かったのはこのためだといってよい。

 京蔵は激痛を何度も味わったが、幸いそれだけですんだ。後に睡眠中長く呼吸を止めるいびきが持病となるが、これは素潜りの後遺症である。
 数年もすると、赤銅色(しゃくどういろ)の肌に筋骨は盛り上がり、手指は少々の刃物では血が出ないほど硬く松かさ状になっていた。背丈一六五センチは、当時の仲間うちでは高いほうだった。

 魚住京蔵は、アラフラ海を三十二歳で切り上げるまで、丸々十七年南の海で潜水作業に明け暮れた。
 夜は夜で骨休めは知らない。海原(うなばら)に漂う小船の船底で、また木曜島の簡易宿舎で、疲れた体をいとわず、勉学に励んだ。先輩の中には、読み書き算数からむかし話や漢字まじりの剣豪ものにいたるまで、そこそこに置きみやげしてあり、やる気さえあれば勉強の材料はあった。
 夜中、船内・宿舎を問わず、雑魚(ざこ)部屋の片隅で、カンテラの灯りを頼りに小学校低学年の教科書から学習をはじめる。その辺までは仲間がからかい半分で教えてもくれた。
「あかん、こうせな」
「そやそや、そ〜やどう」
「京蔵も、三年生卒業やのう」
「…………」
 その上になると、独学になっていく。これが昼間の仕事よりも面白い。
「早よ寝やんせよ」
「かだら(体)に(さわ)るさかいに」
 仲間の注意はいつものこと。気がつくと、明け方になっていることもしょっちゅうだった。

 毎日の積み重ねはおそろしい。寸取り虫のようであっても、弾みがつけば前が開ける。
 数年もたつと雑誌やチャンバラ小説が読めるまでになった。かけ算・割り算も、商売に支障ない程度には上達してきた。
 教会信者とのつながりや現地仲買人との接触で、日常の英語でのやり取りはものの用を足せるまでになる。それで満足しないのが京蔵の性分だ。
 もっとお互いの考えをやりとりできるようになれないか……、自身の単なるじれったさだけではなく、船団の厳しい生活がかかっている。売り買いの交渉をいつまでも人まかせにしておくわけにはいかない。
 これも自分の役目と心得、進んで商談の場に出るようにして、体で覚えていった。身勝手ではないから、業者にも仲間にも受け入れられた。

 アラフラ海をあとにする頃は、そこそこに英字新聞を読めていた。これはバイキ神父と聖書のおかげだ。
 オーストラリア・ヨーク岬半島東部の町ケアンズに教会を持ち、半島すぐ北の木曜島でも布教する神父に出会い、教えを請い、洗礼を受ける。
 神父は異国の素直な若者を特別にかわいがった。バイキ神父が与えた聖書が京蔵の最大の教材になった。聖書の英語は京蔵を飛躍させた。
 京蔵は無学だが、無教養ではなくなっていた。

第2章朗読: 18分51秒
第1章 ふる里と幼少の頃 第3章 とんぼ返りの帰郷
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