第3章 とんぼ返りの帰郷
1. その頃実家は

 京蔵がアラフラ海で働きはじめて七、八年もすると、三輪崎の魚住家は潤っていた。妹二人は着飾ることができるようになり、末っ子六男の得松は魚住家では初めて新宮の中学(旧制)に進むところだった。
 進学は京蔵が手紙で強く、くどく説いた。
「勉強せなあかんで。銭もうけばっかりでわがら(自分たち)だけようなっても何にもならん。ちょっとでも世の中の役に立つように勉強するんや。アラフラで働きたくないならこれしかない」

 家も昔のあばら家ではなくなっていた。中通りの中心部にある向かい合った二軒を購入し、一方を母屋、向かいを両親の住まいとした。どちらも二階建てで、声をかければ聞こえる。
 父母はいまもぼちぼち畑を耕し漁に出たりだが、生活の心配はない。父松蔵の病も支払いを気にせず医者通いができ、往診も受けられるようになっている。
 通りを海岸沿いに西へ佐野に向かってしばらく行き、海辺に下りていくと、気のきいた一軒家がある。佐納家だ。萬之助とリンの間に男四人女五人の子がいて、次男と三男がアラフラ海で働いていた。京蔵と同じ船団だ。
 萬之助は海老網漁で人並み以上の腕があるとはいえ、アラフラ海が頼りだった。仕送りのおかげで、同家もいまや貧乏人の子沢山を脱している。
 それまでは佐納家も、魚住家ほどではないにしても、その日暮らしで、子供は学校どころではなかった。

くま≠ヘ佐納家五番目の次女で、学業は尋常小学校止まりである。それも四年からは妹を負ぶっての通学で、教室を出たり入ったりだった。が、よくできた。とりわけ器量がよく、優しい。痩せぎすだが、父親似か、背は高いほうだった。名前は丈夫な子を願って親がつけた。漢字の熊≠ヘむずかしいので、仮名とした。長女のかめ=i亀)と同様である。

 学校を出てからは父の漁と母の畑仕事・家事の手伝い、それによちよち歩きの妹たちの面倒に追われた。
 少女期が抜けきらないうちに、親同士で魚住京蔵との縁談がまとまっていた。その何年も前、京蔵は十六歳でアラフラ海へ行ったきりで、その年くまは八歳のおぼこ娘、二人とも知る由もない。

2.形ばかりの結婚

 京蔵は二十五歳のとき、アラフラ海から一度だけ三輪崎に戻った。大事な仕事の他にくまとの婚礼を兼ねており、二週間滞在した。その頃は弟五人のうち三人はアラフラ海で働いており、彼らをそこに残しての一時帰郷だった。
 ── 最後の帰郷と併せて都合二度往復することになるが、いずれも片道半月を費やした船旅が行きも帰りも大した事故にあわなかったことは、この男の強運を物語っている。
 当時ポンポン蒸気の貨物船が、北半球温帯の日本と、赤道を越えて南半球側熱帯とを行き来する海路には、天災・人災はままあること。どこやらで一隻消えても、たいしたニュースにならないほどだった。

 …………
 新入りが故郷からことづかってきた写真で、あらかじめ新妻となるくまの顔形は知っている。すべて親まかせであるにせよ、
「こんな子、もろてもえんやろか」
 美しいくまの容姿に京蔵の心は弾んだ。
 が、本心、肝心の要件を果たし、素早く式をすませて船に戻ることを考え考えの海路で、甘ったるい男の欲望は不思議となかった。

 三輪崎の二週間は、婚礼もそそくさと、あわただしく過ぎた。仕事以外といえば、大半は、船団仲間のことづかり物を親族に届けることに費やされた。三輪崎地区だけでなく、宇久井や古座、潮岬方面もあったから、新妻を家において、遠出を余儀なくされた。
 一方のくまは、まだ大人になりきらない十七歳で、親の言うままに嫁いできた。八幡神社の挙式だけが晴れがましかった。漁業組合長夫婦が仲人をして、見慣れぬえらい$lが何人も列席していた。夫となる男の顔は真っ黒で、愛想もよくないから、不安いっぱいで逃げ出したいほどだった。
 初夜の契りは京蔵にとってはもどかしく、くまは恐れおののいている。写真をはるかに超える新妻の器量と気立てのよさ、遠慮がちな声や仕草は、京蔵を天にも上る気持ちにさせたが……。
 京蔵がアラフラ海へとんぼ返りするまで、二人がゆっくり話しあうゆとりはなかった。新郎はすまながりながらも、毎晩帰りは遅い。仕事の話も込み入って長引くし、船団仲間からの言伝(ことづて)ではどの家庭も南洋で働く親族のことを詳しく聞きたがる。夕食まで出されて、外での長居が続いた。
 くまは夜なべをしながらそんなものだと受け入れていた。新婦の苦労は生家から場所を変えただけだった。

 嫁入りして数日もすると、義妹や義弟はなにかと口うるさくなる。親は制止するが、やんちゃ盛りで聞き分けがない。京蔵の前では子猫のようにおとなしいが、一日いないのをいいことに焼きもちのほこ先を容赦なく新妻にぶつける。
 若嫁の身で、大家族の炊事洗濯はもとより、やんちゃ連中の要求は果てしなく、不満たらたらの矢面に立つ。「くまサはよう働く」が評判になるのはずいぶんあとのことだ。
 が、くまはなぜか幸せを感じ取った。希望も逃げ場も断たれた環境で、親しみはおろか最初は恐れさえ禁じ得なかった男が、自分を人知れずいたわってくれている。夫は立派な男(ひと)かもしれない。口数は少ないが、心根の優しい人柄は十分に伝わってくる。
 寝床では、どす黒い海男の松かさの手は猛獣のようで肌に痛く、要領を得ない愛撫はくまを恐がらせたが、京蔵は肉欲の獣ではなかった。無理をせずくまをいたわった。優しく抱いてアラフラ海の話をした。
 私に気を許してくれている。くまは安心して、心地よく耳を傾けた。

 さんご礁に輝く海、魚群の群れ、白蝶貝の群生、真珠を見つけたときの喜び……。
 京蔵にとってくまは観音様だ。色白の別嬪(べっぴん)だし、均整が取れていた。
 恥ずかしそうな笑顔は、京蔵をとろけさせた。込み入った話をしたわけではないが、もったいない授かりものと素直に受け止めた。
 アラフラ海を(つい)の棲家と素直に決め込んでいた京蔵だが、一生の連れ合いと信じるくまの優しさと気配りに、気持ちが揺らいだ。

 くまの薬指には京蔵が自分で採った薄く青光りする南洋真珠の指輪があった。
 京蔵が串本港から再びアラフラ海に旅立つ日、岸壁で見送るくまの姿は、遠慮がちに人ごみにまぎれていた。が船上の京蔵は、いつまでもじっとくまを見つめ続けた。
「幸せにしてやる。必ず帰る」
 そう心に誓っていた。

第3章朗読: 12分57秒
第2章 アラフラ海 第4章 新婚生活
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