第6章 紀元二千六百年
1.その年
 昭和十五年(1940)は紀元二千六百年にあたる。年表でそのところをのぞいてみよう。
 初代の神武天皇が即位したとされる紀元(皇紀)元年から数えて二千六百年目の年で、国内では中央・地方とも祝祭行事が相次いだ。
・奈良・橿原(かしはら)神宮では、三箇日の参拝客が前年の二十倍、百二十五万人に達し、創建以来の最高記録となる。
・十月には、明治神宮外苑競技場で奉祝の第十一回国民体育大会が行われた。
・祝祭当日の十一月十日には、宮城前広場に五万人が参加して、政府主催の式典が挙行された。提灯行列がとり行われた市町村も多かった。
 このように華やいだ国内行事の裏側で、国際情勢は、いわばとてつもない地雷に足が乗っかりかけた状態だったといってよい。
 欧州では前年の昭和十四年秋、ドイツ軍がポーランドへ侵攻、直後にイギリス・フランスがドイツに宣戦布告して、戦闘がはじまっていた。欧州大戦の勃発である。
 これに六月、ソ連がバルト三国を併合するやらの露骨な領土拡大行動に出る。同月イタリアがドイツに加担して参戦し、ドイツとソ連の戦闘がエスカレートしていく。

 そんな影響もあって、この年、次のように中止された催しもある。

・日本万国博覧会
・第十二回オリンピック東京大会
 国内では数年前から内閣が猫の目替わりに交代を繰り返す一方、議会では十月に大政翼賛会が結成されて政党政治が消えるとともに、挙国一致体制が確立し、国民生活の統制がますます強まった。米、麦、塩、マッチ、牛乳等が配給制になったのもこの年だ。
 翌年(1941)十月には東条英機内閣が成立、十一月御前会議、そして十二月の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃とマレー半島上陸に端を発し、太平洋戦争へとなだれ込む。
 欧州大戦と併せて戦場は主にアジアとヨーロッパだが、大半の国が世界各地で入り乱れて、第二次世界大戦へと拡散していく。
 こうした世界の激動とは無縁に、紀元二千六百年のこの年も日本の四季は規則正しく巡っている。

2.子宝授かる

 二年前の昭和十三年、木ノ川の丸山家に嫁いでいたくまのすぐ下の妹が、初産の頼子を産み落として死んだ。
 親族会議の結果、「天の申し子」として京蔵夫婦が頼子を養子縁組する。
 その一年後にくまの妊娠が認められた。
 あのくまが……。にわかに信じられるはずがない。
 たしかにくまはこのところ生理がなかった。酸っぱいものをほしがり、食事中にむせんだ。
「おまはま、わたし変やよ」
〈ひょっとして!〉の思いで、くまは打ち明ける。京蔵は喜びのあまり顔をくしゃくしゃにするが、すぐ「まさか」に戻る。
「念のために医者へ行こらい。悪い病気やったら大変やさかに」
 新宮市街にあるいつもの新宮病院産婦人科を訪ねた。先生の診断は大吉だった。断定的に半信半疑を払拭してくれた。
「京蔵さん、おめでとうございます。くまさんは三ヶ月ですよ。出産は来年、紀元二千六百年の五月頃になります。お宝ですね」

 くまの出産一ヶ月ほど前に、先生が彼女の腹部に聴診器を当ててじっと耳をこらしてから、冗談ともつかずもらした。
「男のお子さんじゃないですか」

 そして五月の晴れた日、三輪崎の海岸沿いで鯉が舞った。大きな真鯉と緋鯉が気持ちよさそうに泳ぎ、空色の赤ちゃん鯉が寄り添う。
 見上げる男の顔に快心の笑みがこぼれ、そばでもうすぐ二歳になる頼子が、両手を上げてはしゃいでいる。
 先生の予告どおり、男の赤ん坊がうぶ声を上げた。魚住京蔵がアラフラ海から帰って、八年目の快事である。彼四十歳で、くまは三十二歳だった。

 …………
「頼子がわがら(自分たち)に新しい生命(いのち)を引っぱって来てくれたんや。頼子は天使やで」
 夫婦は神仏にひざまずいた。
 初産の赤ん坊は京太と名付けた。昭和十五年五月。先生の予告した日が当たって、その夕刻だった。
 京蔵は、京太が生まれた日にタバコを断った。
「そんなにまでせんでもええのに」
 くまの話を聞く京蔵ではなかった。

 息子の京太は(かん)が強かった。ひきつけを起こして、医者に診てもらうと、
「この子は頭ええですよ。楽しみやのう」
 慰めとも世辞ともつかず先生はそう言った。
 半年もたつと、頼子と一緒に京蔵の愛玩物となる。それまでは「おとうちゃん」の胡坐(あぐら)したごつい両膝は「おねえちゃん」の独り舞台だったが、片っ方の膝に京太を乗せるようになった。
「危ないわの」、くまが半分冗談にでも言おうものなら、京蔵は眉間にしわを寄せる。
 京太がくまの乳房を満足そうにしゃぶるのを側で見るのが、京蔵の無上の楽しみだ。赤ん坊のほっぺを松かさの手で撫でては悦に入る。

 (かん)のほうは、薬よりも灸が効いたようだ。くまは京太を負ぶって、汽車で最寄りの那智駅まで行き、浜の宮の鍼灸院に通った。多少の遠さは何でもなかった。家でもそこの百草(もぐさ)が役に立った。京太は恐がってその都度泣いたが、効能はてきめんだった。
 あんよ≠ェできるようになると、「おとうちゃん」は息子を中庭で肩車する。空に向かってしわがれ声で、南洋の民謡を歌う。アラフラ海にいたとき、ニューギニア島で村祭りに加わって踊り、声を競いあったあの歌だ。

よ〜い、よい
ヤスケラノ〜オ、マルワマンタラノ〜エ
カイガラビスケトッパイカ〜
トッパラピッカノ〜エ
…………
 くまは店に戻って忙しくしながら、楽しそうな京蔵を眺め、やっと夫の愛に応えることができたとの思いに浸った。
  そして二年後の秋、京太に続いて次男京二が誕生する。

 京太がくまに似て色白に対して、京二は父親似か、色づきがよく赤ん坊ながらたくましそうだ。
 後のことだが、二人とも小学校に通う頃には、ひ弱な兄がいじめられようものなら、弟が「お兄ちゃんをいじめたらあかん」と、相手の子供たちに向かうことがままあった。
 両方とも身長も体重も標準以上なのが、夫婦の自慢である。兄の色白については、小学校高学年で海水浴が夏の教科に加わってから、京太を悩ますことになる。夏が来ると中庭で裸になり、父をうらやみながら天道干し(てんとぼし)するのが日課となった。
 弟京二の男らしい顔つきに比べて、兄京太の顔は少し特徴がある。いかにも利発そうな顔立ちだが、額は狭かった。それに生え際が出っぱって、富士額(ふじびたい)だ。店の客がときどき、「日吉丸やのう」と、ほめ言葉ともつかぬ本音をもらした。猿≠ニいわれた豊臣秀吉の幼名である。
 京蔵は天にも上る気持ちで神に祈るのだった。
「どっちもええ子に育って、ようけ勉強させてやってください。上の学校にも行けるようにしてください。お国の役に立たせてやってください」

 京太が生まれた翌年暮れに太平洋戦争に突入した日本は、頼子を含む三人の子供たちが発育するに並行して厳しい国情となっていく。
 京蔵はアラフラ海での過労のツケで、兵役が叶わなかった。お国のため≠フ次の拠りどころとして昭和十八年初め、次男誕生間もないころ、勤労報国隊の一員となって福岡県山田炭鉱に投じる。世界は東西とも、枢軸三国の形勢不利が(ちまた)のうわさになりはじめた頃だった。
第6章朗読: 14分56秒
第5章 時化の日 第7章 炭鉱の話
閉じる