7.寄り道
 巨大な風車に向かって(やり)を構える背高ドンキホーテが取締役富田(とんだ)事業部長とすれば、この五月(1980)に創業するニューヨークの現地法人HSA(ハヤタマ・スチール・アメリカ)へ鋳鋼事業部から駐在員派遣という彼らの願いをさえぎる門は、開け、ゴマ!≠ニ何度攻め立ててもびくともしない開かずの門≠ニいうことになる。
 全社的にはトカゲのしっぽともいえる弱小事業部のこと、攻め落とす力はもとよりないし、泣き落としがきくはずもない。しかし富田にとって、「現地駐在員の派遣」をはばむこの仁王立ちの門をこじ開けぬ限り、それこそ事業部そのものの撤退責任者になりかねない危機感がある。
 事業部にとってはいわば四面楚歌の中、わずかなほの明かりが代表取締役に名を連ねる実力専務、鵜殿(うどの)の存在だった。
 少し寄り道する。
 いまも鋼材以外の事業は、鋳鋼を含め、次期社長とのうわさもある鵜殿専務の職掌にある。専務の前身は紀宝(きほう)製鋼で、富田も同じ。その関係もあって富田は鵜殿の腹心を自認しているし、鵜殿は会社トップでは珍しく、職掌として以上に鋳鋼のような弱小事業部にも等しく関心を寄せていると言われている。撤退は容易い、その前に持ち味をもっと生かせないか、と。
 富田は一計を案じた。総合商社の田辺物産及び市江商事にも根回しした結果、専務にすり寄って、
「最近の状況をご自身の目で確かめられては?」
 海外旅行の経験に乏しい社長候補に進言した。先だっての自身の出張による強い印象がバックにあるから熱の入れようが違う。
 近く創業するHSAの周辺状況視察ということで、社長をはじめ他の役員も後押しし、鵜殿はその気になった。
 ぼくもたまたま鵜殿専務と母校が同じというそれなりの接点がある。専務はその吉備(きび)大学(都下国立(くにたち)市)の先輩だった。入社時に同窓先輩二人が和食料理店で歓迎してくれた。そのとき鵜殿は平取(ひらとり)で、もう一人は当時星崎工場作業課長の南部(みなべ)だ。
 ゴルフの腕前の話になると、鵜殿は南部を見ながら、
「ぼくもへたではないが、君はシングルだからな」
 と持ち上げる。続いてぼくに顔を向け、
「南部君は見てのとおりでね。酒も強いが、麻雀では社内ベストテンだよ」と言ってから、「遊びばかりではないがね」、とニヤッと補足する。二人は同窓である以上に仕事で親しくつながっているように見えた。
 あれから十数年たって、昭和五五年(1980)、冬去りなんとする頃だった。役員会の決定を受けて、「鵜殿専務のニューヨーク出張」が実現したのは。
 期間は一週間。
「五月創業予定のHSAの現状を確かめると同時に、現地商社等への表敬訪問」
 が目的で、鋳鋼製フロッグの現地ユーザー訪問も含んでいる。
 ニューヨーク事務所長の印南(いなみ)がすべてにアテンドするが、鋳鋼関係は築地工場技術課長の和深と営業のぼくが案内する。そのためぼくたちの定期出張をうまく取りつくろって、これに専務へのアテンドを加えることが、事業部長決裁で急きょ認められた。事業部長の富田はぼくが鵜殿の大学後輩であることを十分に心得ている。
 成田空港から一緒すればこんな問題は起きなかったのに。
 ぼくたちは数日前に先行して米国入りし、別の仕事を終えたあと、ニューヨーク・ケネディ空港に専務を出迎える計画を組んだ。印南所長とのテレックス及び電話での合作である。
 ぼくたち二人は米国内で他の目的を果たしたあと、前日ニューヨーク・パンナムビルの事務所で印南に会い、鵜殿専務が予定通りに来られることを確認した。印南は新会社創業への細々(こまごま)した作業に追われている。
 四月初めの日曜日、印南とぼくたちは専務の飛行機がケネディ空港に到着する時刻を見計らって空港ロビーに向かった。入国手続き等を考慮し、専務がロビーに見えるまで、一時間は待機することになろうとの心づもりで。

 三人がロビーに着くと、鵜殿専務はすでに長椅子に腰かけてぼくたちに手を振っているではないか! そばの数人は田辺物産と市江商事の駐在員だろう。
 飛行機が予定より一時間も早く着いたとは思えないし……、なぜだ??

 専務のにこやかな表情をどう受け止めればよいのか。ぼくたちは大恐縮しながらわけが分からなかった。
「今日からこちらは夏時間だと知っていたかね?」
 おぞましくもサマータイム(Daylight Saving Time)開始の日で、1時間繰り上げられていたのだ。
「抜かってました」
 と、印南所長が声を上げる。罪はぼくたちも同じ。印南はいつにない忙しさで、ど忘れしたに違いない。ぼくは自らの不明に恥じ入った。専務は本件それきりで話すことはなかった。
 それが原因では決してないが、米国での専務のぼくへのご指導は厳しいどころではなかった。些細(ささい)といってはなんだが、細かいことまで注意され、ケネディ空港で見送るまで、ぼくにだけはいつもの笑顔を見せなかった。
 和深に泣きを入れると、
「三輪君がうらやましいよ」
 わからないではないが、ぼくはこの出張だけは当分思い出したくなかった。 
 考えようによっては、富田取締役を筆頭とするぼくたちの悲願である「マンガンレールの北米進出を本格的に実現するためには、現地駐在員の存在が不可欠。その任に三輪をあてる」、
 が鵜殿専務の頭にあったのかもしれない。HSAの創業計画で予定している次なる営業担当の増員にぼくがはたして適任かどうか?
 商社や関連団体回りは印南所長が付き添った。田辺物産米国本部だけはチェシー鉄道の関係でぼくたちもお供した。とんぼ返りでボルチモアの同鉄道購買部へも。
 鵜殿専務はゴルフがお上手であることは、速玉社内では知る人ぞ知る。当然田辺物産はゴルフ接待を準備していた。ニューヨーク郊外の名門コースだった。物産の市木(いちぎ)常務とぼくがお供した。
 スコアはなるほど専務が一番だった。バーディも二つ出して、ご機嫌そのもの。ホールインしたボールは市木常務が預かった。
 後日談だが、鵜殿専務はその一年半後に胃がんで帰らぬ人となる。聖路加病院の病床に南部調査部長とお見舞いした数日後だった。葬儀の日からしばらくして、ご自宅に伺った。仏壇にゴルフボールが二個飾られている。あのときのボールだと直感した。横の壁にはグリーンでボールを手にした専務のにこやかな写真がある。
「あの旅行をずっと話してましたよ。うれしそうに」
 奥様が親しい眼差しで話してくれた。
 …………
 寄り道をいま少し。
 鵜殿専務の死去にともない、全社的に鋳鋼事業部は紀ノ川(きのかわ)専務の職掌となる。
 一方で平取の富田が常務取締役昇進をうかがっている。事業部では富田様々で、天皇≠ェニックネームとなっていた。鋼材の知多工場次長から赴任したとは言え、鋳鋼事業部としては初めての役員で、ワンマン・リーダーシップが真骨頂だ。
 紀ノ川専務が事実上その天皇の傀儡(かいらい)であることはだれの目にも鮮やかで、販売会議をはじめ事業部の会議に顔を出すことはめったになかった。

 その頃、大手総合商社である湯浅商事がポーランド国鉄からフロッグの大型引き合いをもたらした。国際入札で、その量七〇〇トンは下らない。
 フロッグの形状も単純で、数種類だから効率的だ。築地工場のフロッグ毎月生産量が二五〇トンの頃で、後にも先にもない大量の引き合いだった。

 ポーランド全国にまたがる鉄道の大型増設・改修プロジェクトにからんでいるらしく、湯浅商事はフロッグのみで入札するわけではない。
 気になる納期は、当社のキャパで十分に対応できることを確かめた。緊急品ではなく、工事計画にのっとって必要となるものと予備。
「当たって砕けろでいいじゃないか」
 ぼくたち八人の侍はこれに飛びついた。もし実ったら、それこそ大型受注だけに留まらず、その意味は大きい。国際舞台で知られることになろうし、品質が評価されれば、自己宣伝の強い後ろ盾になる。なにより、北米進出のネックである事業部からHSAへの出向をはばむ鉄壁≠ノ風穴を開けてくれるかもしれない。富田天皇指揮下で「挑戦」することになった。
 サンプルテストが入札参加の条件で、四本投入した。待つことしばしで参加が許され、ほどほどの価格と現状の生産環境に支障を来さない程度の納期で入札した。
 うまくいくときはこんなものなのだろうか。三ヶ月ほどして湯浅商事の鈴島部長が担当者を伴って、富田事業部長を訪ねた。
「内定しましたよ。スペインと接戦でしたが、サンプルテストの優位性が効いたようです」
 富田の握手に両手で応じてから、少し間をおき、
「ただし……」
 と部長は困ったような顔で、
「先方は、カドヴィッツェ本社で契約調印、と言ってきているんですよ。応じていただきたいのですが」
 拒否するはずはないとの顔はおくびにも出さず、頭を下げる。
「わかりました。本社はポーランドですよね。返事はそんなに待たせませんから」
 富田は富田で、喜びは隠さないが、なぜか即答を避けた。
 
 富田天皇が当然お出ましになると予想して数日たった。
「紀ノ川専務が引き受けてくれたよ。ここは代表取締役の役目だ。君が同行しなさい」
 天皇は含み笑いで言う。彼にとってはこれで常務≠ノ王手なのだろう。
 1982年の夏、専務に付き添い、湯浅商事からは鈴島部長と担当者が同行して、一〇日間の大名旅行≠ニなった。
 途中立ち寄ったパリでは、ヴェルサイユ宮殿とルーブル美術館を見学。ウィーンではベルヴェデーレ宮殿を内覧し、テアトル・アンデル・ウィーンという劇場でオペレッタ「メリー・ウィドウ」を見た。
 ポーランドに着いて、ワルシャワから車でポーランド国鉄本社のカドヴィッツェへ。厳かな広間に案内されて仰々しい調印式だった。

 ……ここでの観光も怠りない。少し南東に行った古都クラクフの一日がよかった。
 世界遺産の歴史地区、中でも歴代ポーランド王の居城として名高いヴァヴェル城。外から眺める景観は落ちつきのある美しさで、城門をくぐるとすぐ左に大聖堂があり、正面が旧王宮だ。その奥ゆかしさ、荘厳さ。

 旧王宮の中は博物館になっていて、じっくり内覧することになる。商事担当者とぼくは調子にのって、案内付の専務たちとは別行動をとり、三階までの各階を興味にまかせて見て回った。中庭に出ると、専務たちは待ちくたびれていた。
 約一年かけて大量のフロッグ納入が無事完了した頃、湯浅商事はカナダ・トロント市電の入札を勝ち取ってくれた。一〇〇トン程度だが、ポーランド国鉄のご利益もあったことは、市電側の品質評価が示している。
 この立て続けの輸出成立により、マンガンレール北米進出の具体策である「現地駐在員の派遣」に微かな明かりが見えてきた。
 富田事業部長は常務取締役昇格を果たした。

朗読 19:23



目次 7. 寄り道
1. サラリーマン事始め 8. 内輪もめ
2. 仕事と私事 9. タイアップの行方
3. ペンステートの一年 10. 駐在員として
4. 身の丈を知る 11. 家族、体調
5. 新天地で 12. 倒れる
6. 輸出への道 13. HIAL、そして
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