3.ペンステートの一年
 昭和四十四年(1969)六月から一年間、米国に留学した。ペンシルベニア州立大学(Pennsylvania State University)で、略称 ペンステート=iPenn State)。学生数は四万人を超す。東部ペンシルベニア州中央部の都市ステート・カレッジ(State College )にある。町の名 State College が示すとおり、名実ともに Penn State が中心だ。
 スポーツ万能、とくにアメリカン・フットボールが全国有数で、オハイオステート大学(Ohio State)と覇を競っていた。

 マーケティング学習が留学の本位だが、その前に英語が分厚い壁。スタートの夏学期は英会話に注力するも、結果はついてこなかった。
 秋学期の本番で先生の講義がまるでわからず、ディベート(学生同士の討論)では蚊帳(かや)の外。チンプンカンプンで、いらだった。他の科目も含めて宿題は山ほどあるし。

 残念だが勉学は会社の期待空しく半ばあきらめて、もう一つの目的「何でも見てやろう」に拍車をかけ、米国あちこちへの旅行に精力を費やした。
 秋学期の前、一ヶ月の夏季休暇を利用した「米国横断ドライブ」が口火だった。
二六日間、米国横断テントの旅
 学内で大泊(おおどまり)阿田和(あたわ)の二人と知りあって実現した。両人とも日本の大学からペンステートに派遣された助教授で、原子工学を研究していた。米国チョンガーはぼくと同じだが、両者とももう少しで家族が合流とか。
 秋学期まで一ヶ月の夏休みをどのように過ごそうか。キャンパスのカフェテリアや街のパブでディスカッションを重ねた。
「西海岸まで車で米国横断としゃれ込んで、太平洋を見たいね。できればそこで泳ぐ」
「西部の国立公園、たくさん回りたいナ。グランドキャニオン、ロッキー、イエローストーン……」
「有名な町にも立ち寄りたいね。折り返し点のロサンゼルスは当然として、途中のセントルイス、フェニックス、サンタフェ、ラスベガス、……」
「珍しいところはどんどん見ちゃおうよ。ナバホのインディアン居留地とかタオスプエブロのメキシコ村、西部劇のゴーストタウン、いろいろあるよ」
「阿田和さんのムスタング、調子はどう? 一ヶ月もちそうかね」
「エアコンはないけど、それさえ我慢できればね」
「これでテント旅行に決まりだね。一ヶ月を目安で、原則、ホテルやモーテルには泊まらない」
「食事はまかせて」と、その頃まだ無免許のぼくが気負う。
 出発は八月三一日に決定。九月末までには帰着するという一ヶ月間の三人旅だ。薄汚れた灰白色、年代物のムスタングにテントを積んで。
 米国東部のステートカレッジ市から西へ、下弦の月の弧を描いて南部の道をたどりながら観光を重ね、ロサンゼルス近郊、サンタモニカの海岸に到達。海へザブンは果たしたが、まだ真夏が終わっていないのに、寒い! 想定外の海水温に、水泳パンツ姿も見すぼらしく、ただただふるえた。
 帰りは逆に北部の州を巡った。 ネバダ、ユタ、ワイオミング、サウスダコタ、アイオワ、……。

 二六日間、ラスベガスとその他やむを得ないところでモーテルに数泊した以外はすべて各地のキャンプ場でテントを張った。朝と夜の食事はぼくの手料理。カレーライスとスパゲッティの他、レパートリーは限られている。殊勝にも二人は最後まで文句を言わなかった。帰りの道中は、ロサンゼルスで箱ごと仕入れた即席ラーメンがものを言った。

 行きの途中、アリゾナ州のフェニックスではまいったなあ。ひと頃はやったグレン・キャンベルのヒットソング「By the Time I Get to Phoenix」(恋のフェニックス)がお気に入りのぼくが提案して、その町を目指したのだった。着いたら多少はロマンチックな気分が味わえるだろうと。
 まるで人影なし。この熱暑、何度くらいなのだろう? ギンギンの太陽に照らされた広場で、ヤシの木がうら寂しく迎える。「恋」も情緒も住民ともどもどこかへ疎開している。
 こちらも白旗をあげるしかない。ほうほうの(てい)で逃げだし、西へとひたすら走った。外気のほうが暑いから、エアコンなしでも窓を閉めきって。
 行けども左右広大な畑が続き、サングラスにも陽光はまぶしい。作物もいまわの際だろう。

 三人のちょっとしたやりとりがおかしくなってきた。
「スピード出し過ぎじゃない?」と、後部座席のぼく。
「何か言った?」、運転中の阿田和が気にさわった様子。
「後ろで口出ししない方がいいよ」と、助手席の大泊。
「そろそろどこかの町が現れてもよさそうだね」と、ぼく。
「地図を見てるんだから教えてよ」、と阿田和。
「今どの辺かくらいはアドバイスしたら……」、目は前を向いたまま大泊。
 二人の言葉にぼくはいらつく。後ろで安気に坐っているわけではない。こちらも荷物にはさまれた窮屈さを我慢しているのだ……。

 ようやく田舎町のキャンプ場にたどり着いた。
 疲れ果てていても、まずはテントを張らなければならない。先ほどまでの猛暑のせいとは知りつつ、黙々とスローモーな動きの中で、三人の気持ちはまだかみ合わない。
 ぼくが気を鼓舞してつくったミートスパゲッティも今夜は歓迎されない。お互いビールでグイグイのどをうるおしながら口に運んだが、結局は三人とも食べ残した。
 旅を通して暑さと(はえ)()に悩まされ続けたが、ここの蚊はひどかった。三人とも夜っぴて体中をボコボコに刺された。テントをたたむとサソリがぬっとぼくたちをにらんだ。

 暑さといえば、デスバレー(死の谷)だ。うわさが本当かどうか、入口近くで車のボンネットに生卵を割って載せたら、本当に目玉焼きになった。恐れをなして別の遠回りを選んだのだった。
 米国のキャンプ場はどこもうらやましいほど充実していた。テントの区画は整っており、ガス・水道完備。夜中は周囲に電灯が灯され、ガードマンが巡回してくれる。
 予約なしでも、身分証によって泊めてもらえる。他のキャンパーたちとのトラブルは一切なかった。暑さ、蝿、蚊がなければ……。
 全走行距離、一万四千キロメートル。日本本土を直線距離にして、北海道宗谷岬から鹿児島の南端佐多岬までが一千八八八キロメートルと言うから、その七倍以上になる。ガソリンの消費量は四五一ガロン(一千七百リットル)だった。
 阿田和の愛車は? ファンベルト切断とパンク一度ずつ。その都度通り合わせた車がお助けマンになり、付近の修理工場へ引っ張ってくれた。しかしこの老齢ムスタング、よく頑張った。
 この旅の一押し名勝は? トルコのカッパドキアも最敬礼するであろうブライスキャニオン(Bryce Canyon)、石化した大木がゴロゴロ横たわるペトリファイドフォレスト(Petrified Forest)、果てしない荒野のバドランズ(Badlands)。
キャンパス生活と一人旅
 ペンステートでの学生生活スタートの夏学期約三ヶ月間は、シャンク・ホール(Shunk Hall)という純学生寮で過ごした。ニューヨークから来た台湾系の岩橋杭(がんきょうくい)君と同部屋で。写真好きの彼とキャンパスや大学町≠フ目抜き通りをカメラ片手によく歩いた。
 三人旅出発を前にして大学院生及び職員の寮ユニバーシティ・クラブ(University Club)に移る。
 隣室がダンディで顔中ひげだらけのマルコ・シングス(Marco Singus)。帰国のときまでよく面倒を見てくれた。数歳年下の彼はギリシャ系、大学院で地質学博士の一歩前だ。
「You'll soon have to call me Dr. Singus.」(もうすぐドクター・シングスだぞ)
 といばっていた。
 彼の愛車に乗せられ、周辺のドライブによく一緒させられた。その愛車、フォルクスワーゲンのカブトムシ(Beetle)は奇妙な車だった。時速六〇キロ以上は()そうにも出ない。周辺のドライブならよいが、彼の故郷ボルチモアへ連れてもらったときはまいった。高速道でパトカーに止められたのだ。遅い≠ニ言って。チケットはまぬがれたが、「早く買い換えなさい」とのご注意。
 彼、それからもずっとむしろ自慢げにカブトムシで通し、何食わぬ顔。マルコは我が道を行くといった愉快な男だった。

 彼たちと付き合う中でよく聞いたアイアン・バタフライ(Iron Butterfly)の曲をやり過ごすわけに行かない。四人のロック・グループサウンズで、彼らの一七分間音楽だ。「インナ・ガダ・ダヴィダ」(In-A-Gadda-Da-Vida)。

 マルコも寮友のダグもニックも、学生の友だちすべてに愛された曲で、夕刻廊下を歩くとどの部屋からもこの曲が流れてくる。彼らのレコードのみならず、ラジオ局がこぞって流しているからだ。なぜ? 当時、グラス、ティ、ポット、メアリー・ジェーン、いろんな愛称を得たあれ≠セ。一七分間音楽を車座で聞きながらあれ≠回し吸いし、こんなやり取りもあったとか。
「Don't bogart the joint. Pass it around.」(独り占めしちゃだめだよ。次に回して)。
 俳優のハンフリー・ボガートはシガレットを吸っているシーンが多いことから、このセリフになったようだ。

 ともかくユニバーシティ・クラブは楽しい安気な寮だった。地階にはビリヤードが二台あり、いやでも友だちができた。格好の憩いの場で、ここでのぼくのニックネームは「チープバーボンのTaiji」。
 その名のとおり、ぼくはバーボンのコークハイ(コーラのハイボール)で、彼らも思い思いのアルコール。あたり構わずしゃべりあった。彼らのスラングにはとてもついていけなかったが。

 一ドル三六〇円の時代にして、授業料、宿泊、食事、すべてをあわせた米国滞在の会社負担は一日一〇ドルに決められていた。足りない分を補填しようにも、妻になけなしの仕送りをしてもらってもドルに換算すれば微々たるものだから、夏のボーナスを削ってもらうだけにした。
 だからその後の一人旅は費用との格闘だった。一泊五ドルのYMCAが定宿(じょうやど)。ひもじくなったときに腹を満たすことにして、食事はマックかバーガーキングのハンバーガーにお世話になる。それにしては結構出かけた。
 クリスマス休暇の二週間は、帰省中のゴボー宣教師の招きで、遠路バスで米国最北部ミネソタ州のセントポール(St. Paul)へ行き、宣教師ご家族のお世話になった。
 セントポールはミネアポリスとの双子都市だ。時期も時期、深雪の中、土地の人たちとクリスマスを祝い、連日先生が親しくしているご家庭を巡って交遊させてもらった。
 ゴボー先生の家では、もはや成人に近い子どもたちと、賛美歌ならぬ、ビートルズ、ローリングストーンズ、サイモンとガーファンケル、キングストントリオ……、LPレコードを楽しんだ。
 ボルチモアとワシントンへの旅は寮で隣り合わせだったマルコ・シングスのおかげだ。彼とは非常に気があって、しょっちゅう遊んだ。彼を通じて友だちの輪が広がった。
 彼はボルチモア出身で、父はギリシャ正教の牧師だ。年明けて三月の春休み、マルコに連れられてボルチモアの自宅まで、彼の愛車カブトムシでドライブした。途中高速道でのハプニングは前に述べた。
 ここで三泊し、市内や周辺を案内してもらった。昼間は港、砦、市場、父の教会。夜はいかがわしいバーやギリシャ・レストラン。男女が土器(かわらけ)の皿を床にぶつけて割りながらのダンスや、後に映画「その男ゾルバ」(Zorba the Greek)でも有名になったギリシャ情緒の雰囲気は思い出深い。
 あとの三日は首都ワシントンDCを観光した。市内バスツアーで一日費やし、あとはザ・モール散策で、スミソニアン博物館、ワシントン・モニュメント、国会議事堂、リンカーン・メモリアル……。
 会社にきちんと報告した遠出を一つ。
 路肩に一メートルも雪の積もった一月中旬の週末に、ステートカレッジから西のピッツバーグへ、グレイハウンド・バスで四時間かけて行った。
 本社企画室長の有田(ありだ)が、生産性本部一行の一員として同市内カーネギー・メロン大学での研修に参加しており、彼の招きによる。夜はウェブスター・モーテル(Webster Motor Hotel)の氏の部屋に泊めてもらい、バーボンをちびりちびりやりながら、深夜まで話を伺えた。
 五月末に帰国して翌月から会社復帰することになっているが、配属先は本社調査室であることを教えられた。上司となる田原(たわら)主査の人柄や仕事上の得手・不得手も。
 昼間は大学構内やカトリック教会、カーネギー美術館を案内され、中華料理をご馳走になった。こんなご縁は留学していればこそ。
 寮に帰ったらその田原から便りが届いていた。
 …………
 各社のシンクタンクを真似た訳でもありませんが、調査室が新設され、知多工場から大島次長が室長として赴任され、小生が主査となりました。
 新事業の調査などまったく何から手をつけてよいか、弱っています。情報の収集と人材集めが目下の課題です。
 社長がかなり意欲を示されており、新技術、新製品の開発も、今までよりは積極的になるでしょう。貴兄が目下勉学中のマーケティングの知識も活かされるでしょう。
 私一人であまり同調者がなく、寂しい思いでしたが、共々社業の発展に新風を吹き込みたいものです。 田原
 彼はぼくより五歳上で、背丈一六〇センチの小柄小太り。速玉製鋼の頭脳機関車であることは知る人ぞ知る。ロイドメガネでいつもにこにこ、しゃべらせれば立て板に水。通りのよいバリトンは誰に遠慮することもなかった。
 愛称ワラちゃん。同輩たちにそう呼ばれていた。それくらいの基礎知識はある。つまり──
 いまは本社人事課長の湯川と親しい関係にあり、当時彼は企画室にいて、よく築地工場に来た。その都度ぼくも何度か二人の雑談の仲間に入れてもらったから、入社直後から知らないわけではなかった。二人は前後してオハイオ大学(Ohio University)に社費留学した仲でもある。
 田原はその頃から、速玉の戦略に関わっている。英語の通訳をこなし、法律にも詳しく、海外との技術提携や合弁は彼なくしてあり得なかった。

朗読 24:25



目次 7. 寄り道
1. サラリーマン事始め 8. 内輪もめ
2. 仕事と私事 9. タイアップの行方
3. ペンステートの一年 10. 駐在員として
4. 身の丈を知る 11. 家族、体調
5. 新天地で 12. 倒れる
6. 輸出への道 13. HIAL、そして
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