5.新天地で
 研究開発本部管理部(名古屋)から東京支社(東京虎ノ門)の鋳鋼販売部に転勤したのは昭和五一年(1976)、三六歳だった。自信喪失と挫折の果てで、逃げるように赴任した。
 家族五人で引っ越し、船橋市の陸上自衛隊習志野駐屯地近くにある社宅が住まいとなった。会社まで一時間半だ。
 虎ノ門の一〇階建て速玉ビルは、周辺で一番高い。ワンブロック向こうが霞ヶ関で、通産省(現経産省)が見える。
 六階に三つの販売部が横に広がっており、そのまん中が鋳鋼販売部。
 窓際に部長と次長の席があり、にらまれる形で鋳鋼一課と二課が列を並べる。二つの課は製法別で区分けされている。
 ぼくは係長として鋳鋼二課に属し、主としてこんな職務分担となった。
1.SCと称する普通鋳鋼の鉄道車両部品。日ノ岬(ひのみさき)電機府中工場ともう一社を担当。
2.ステンレス製バルブ素材。ボールバルブの御浜(みはま)バルブを担当。
3.ロストワックス製法による精密鋳造品で、客先開拓。
 日ノ岬電機府中工場・資材課係長の佐野はぼくより一〇歳ほど年上で、訪問の都度世間話で長居させてくれた。面長・色黒、細身で中背。愛想は悪くないが朗らかでもない。
 納入品は電車や機関車の部品で、ギヤ―ケース、マグネットフレーム、ナックル……、築地工場で工程を追いかけた製品群だ。
 これらの仕入れは速玉一社からのようだ。普通鋳鋼ながら品質第一。価格競争にさらされて、品質をないがしろにされては元も子もないからだろう。
 佐野係長とぼくの折衝は、納期は当然として、価格に尽きる。一社からの購入だから価格設定は国鉄(JR)の随意契約と同じで、製造原価+@&式。@は利益一〇%としていた。製造原価の説得力がカギであることはいうまでもない。
 そそっかしいというか、あわてんぼうというか、物心ついた頃から性格は変わらない。その結果恥をかいただけではすまなかったことが何度もある。この工場でのあのときのことは、中でも大きい。
 虎ノ門の東京支社を出て、新橋駅から東京駅で中央線に乗り換えて国分寺へ。 そこからどのように府中工場へたどり着いたのだったか。総計二時間近くは要したはずだ。その八年ほど前(1968年)に三億円強奪事件の被害にあった工場だ。
 年中行事の価格折衝で、その年ぼくは意を決し、門外不出の「マル秘原価表」を内緒でカバンに入れた。
 簡易に間仕切りされた打合せテーブルで、もったいをつけながらそれ≠佐野係長に向けてドスンと置く。
 佐野は原価表がいかなるものか知っているから、迷惑げに、また興味深げに、食い入るように詳細をジッと見つめる。この数値ばかりはウソも隠しもない、と言うことにしておこう。
 その場は終わり、ぼくは説得の確からしさに幾分上気しながら、佐野に深く頭を下げて、帰社を急いだ。
 翌朝出社して、報告書作成のため太めのカバンを開け、一連の書類を取り出す。サッと血の気が引いた。
 ない、ないのだ、門外不出のマル秘原価表が。
 手当たり次第を探しあぐね、絶望一歩前で昨日の記憶をたどっていると……、電話が鳴って交換手が、
「日ノ岬の佐野様からです」
 ハッとして受話器を握り直し、「三輪です」、と小声がうわずる。
 向こうも小声で、
「あんた、昨日忘れ物したでしょう。早く取りに来た方がいいよ」
 ぼくは声を殺して、
「ありがとうございます。すぐに伺います」
 汗が噴き出ていた。
 府中工場に着くまで妄想が駆けめぐる。……間違いなくコピーされている。値上げどころではない。なんとか口止めできないか。上司に知れたら首だろう。佐野の小馬鹿にした高笑い。
 …………
 佐野は例の打合せテーブルにぼくを(いざな)い、
「気をつけなさいよ」
 ひとこと言って、それ≠手渡してくれた。穏やかならぬぼくの内心を察しているようで、ジッと目を見つめて、こうささやいた。
「これはなかったことにしようよ、ね」
 事実佐野は自身の胸の内だけに納めてくれたようで、その後一度もそんなそぶりはなく、周囲の目も前とまったく同じ。ぼくの進退は首の皮一枚でつながった。
 ステンレスのバルブ素材は築地工場の主力製品だ。ぼくはボールバルブの大手御浜(みはま)バルブを担当する。二工場に分かれており、浦和の本社工場はごろんとした大型バルブが多く、そこから車で三〇分ほど離れた人形の町岩槻市の工場は小型ボールバルブ専門だ。岩槻工場への納入は木曽福島工場のシェルモールド鋳鋼品で本来は鋳鋼一課の管轄だが、この客先だけは、二年と少し、ぼくがすべてを担当した。
 最大手たる三重バルブへの対抗意識旺盛で、価格シビアは当然として、要求品質と納期に泣かされた。
 取締役・購買部長の(ひめ)が天王山だった。同氏もぼくより一〇歳ほど年上だ。でっぷりの大柄で赤ら顔。ふっくらにこやかな容ぼうは融通が利くようでいて、その実自説を曲げない。あの笑顔に何度だまされたか。部下や他の部の人たちとも多く付き合ったが、仕事も遊びも落ち着くところは姫部長の胸三寸だった。
 ゴルフ場によくお供した。すべて当方の接待で、この出費だけは上司が認めていた。
 姫部長のゴルキチ度は並みでなく、失敗はその日のうちに解決と、ラウンド後いつまでも練習場で矯正に余念がない。
 実力はシングルクラス一歩前だった。おまけに負けず嫌いで、プレイ中うまくいかないと、イライラの矛先が相手に向かい、仕事絡みの弱みをチクリつぶやく。その巧妙さには悩まされた。彼よりスコアが上回ることはあり得なかったし、握りはいつも彼に献上した。
 こちらも東京支社に来てゴルキチ度は加速している。土日は欠かさず練習場へ。Mゴルフクラブという大型打ちっ放しで、社宅から車で一〇分のところだった。
 レッスンプロの指導を受けるようになる。ぼくと同年配の彼は東北訛りで、いつもにこやか。最初はあの頃なじみの寅さん≠フような顔が気になった。
 ふっくらとしてなで肩、さほど上背のない彼が軽やかに一振りすると、五番アイアンで二〇〇ヤード近くまで達する。「力まずに遠くへ飛ばせるようにならなければ」と、徹底的に飛距離を鍛えられた。
 おかげでドライバーもアイアンも寅さん≠ニ同じく、やや高めの弾道で見違えるほど伸びた。ピッチング・ウェッジは確実性を増し、好きなクラブになった。費用はかさんだが、それだけの効果はあった。
 Sカントリー(東金市)のメンバーになり、オフィシャル・ハンデは一三まで上がった。
 寅さんはパッティングを教えてくれなかった。おかげでパット病が悩みの種。(フォー)パットはざらで、芝目が読めない。ベント、高麗(こうらい)、どちらであれグリーンはぼくにとって悲劇の舞台だ。一メートル以内を平気で外し、仲間は笑いをこらえかねる。グリーンさえなければ! 居間にマットを敷いて練習を重ねたが、効果は目に見えなかった。
 ロストワックス製法による精密鋳造品は、米国ヒッチナー社との技術提携によって、研究開発本部が育んできたもので、ようやく市場参入の態勢に入ろうとしている。ぼくのゴリ押しによって同本部から転籍にいたったいきさつもあって、当然ながらぼくがその客先開拓の任務を帯びている。
 作業場は築地工場の片隅にあって、責任者は前の部署で親しかった相賀(あいが)課長だ。
 大田区穴守稲荷の田子(たこ)製作所と三鷹の浜島電機によく通った。浜島ではまとまった成約を得られぬままで終わったが、後任が目標を達成してくれることになる。
 業界中堅企業の加太ゴルフにもアプローチした。技提先のヒッチナー社がゴルフクラブ(アイアン、メタルヘッド)に強いことをバックにして、少しは商売させてもらった。
 田子製作所では購買主任に厳しくかわいがられた。ぼくと同い年。苦虫をかみつぶしたとまではいかないが、愛想笑いも無駄口もない。すべてビジネスライク。
 ポンプ部品のステンレス製各種超小型タービンブレードだ。容赦ない返品、難題、クレーム……、客先では当たり前のこととはいえ、当方としては他製品と比べて厳しすぎる。
「こことはつきあいきれないね」、相賀に恨まれながらなんとか食らいついていった。
 納めきったとき、小柄筋肉質の購買主任、銀色に光る小さなブレードをかざしながら、見たことのない笑顔で、「速玉のだよ」と聞こえよがしげに叫んでくれた。
 が総じてロストワックス製品の販路開拓は、ぼくの手では微々たるものだった。

朗読 16:17



目次 7. 寄り道
1. サラリーマン事始め 8. 内輪もめ
2. 仕事と私事 9. タイアップの行方
3. ペンステートの一年 10. 駐在員として
4. 身の丈を知る 11. 家族、体調
5. 新天地で 12. 倒れる
6. 輸出への道 13. HIAL、そして
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