11.家族、体調
 家庭は日本でのように妻まかせとはいかなかった。これが幸いして、少しは家族とのスキンシップができた。
 コネチカット州グリニッチ市に居を構えている。ニューヨーク市の郊外にあたる。大西洋に面したインディアン・ハーバー地区のコンドミニアムで、三階建て三軒長屋の向かって右側。4LDK+ペントハウス(屋根裏部屋)だから、三人の子どもたちにそれぞれの部屋を与えられた。
 HSAのオフィスまで交通の便も悪くない。ニューヘイブン・ライン(New Haven Line)の電車でニューヨーク中心のグランド・セントラル駅まで一時間とかからない通勤距離。社長夫妻も気に入ってくれ、家賃は少々高めだが、特別申請せずにすんだ。この町、セキュリティはよいし、日本の駐在員家族もかなり住んでいて、妻も子どもたちもずいぶん助けられた。
 自家用車は新車を許されない。町の中古屋でGMオールズモービルの「カトラス」を選んだ。「大いなる眠り」や「長いお別れ」といった探偵小説の主人公フィリップ・マーローが乗り回した大型クーペだ。車名は格好いいが、一〇万キロは走っている。
 当地で免許取り立ての妻が買い物や子どもたちの送り迎えにフル活用した。大した事故を起こさなかったのがむしろ不思議だが、車体はあちこちに打ち傷すり傷が絶え間なかった。
 グリニッチ市営の野外ゴルフ練習場が車で一〇分のところにあり、休みの日に家族揃ってよく行った。夏場は夜九時を過ぎても明るいから、平日でも家族で夕涼みを兼ねて出かけ、ときにはハーフラウンドを楽しめた。
 赴任翌年(1984年)の夏一週間ほど、東部から西部、南部にかけて、カトラスで家族旅行をした。大半をぼくが運転し、安全な高速道で妻が手伝った。
 グリニッチの自宅から西へ、フィラデルフィア、ペンステート大学のステートカレッジを経て、シンシナティで二泊。ここから南回りで帰路となり、ケンタッキー州、ウェスト・バージニア州、ボルチモア……。すべてベスト・ウェスタンのモーテルを利用した。
 シンシナティではLBF社仲間が歓待してくれた。フロッグ・ビジネスのタイアップは順調に推移しており、関係者と冗談がらみでつきあえるようになっている。
 一日目は工場長のグレッグ・オワッセーが夫婦でオハイオ川へご案内。自家用のモーターボートにぼくたち全員を乗せて遊覧させてくれた。長男は操縦の手ほどきを受け、いつまでもハンドルを離さない。途中の昼食は川べりのファミリーレストランで川魚料理。
 翌日は営業のボブ・カッツーラが家族四人で一日中つきあってくれた。昼前から夕方までキングズ・アイランドという大型遊園地で、子どもたちを大いに楽しませてくれた。彼らはボブの子どもたちと賑やかにはしゃいでいた。
 夕食はご自宅でバーベキューのご馳走になる。子どもたちは三人とも、ボデーランゲージをまじえて言葉に不自由は感じさせない。料理をもりもり、遊園地の話も盛り上がった。
 ウェスト・バージニア州では、ハンチントンという町のベスト・ウェスタンに一泊した。すぐ横に寂れたゴルフ場があり、妻とハーフラウンドをプレイした。子供たちがキャディとOBボール拾いになって。
 長女は妻の一打一打をくまなく数えていたらしく、ハーフを終えるとスコアカードをかざして、
「お母さん、いくつたたいたと思う?」
 ちょうどぼくの三倍。ワンラウンドでもぼくはこういうスコアにお目にかかったことはない。吹き出しながらも、よく数えたものだと感心した。
 ゴルフといえば…………
 同じ年の秋はじめ、USオープン(だったか?)がニューヨーク州のウィングドフット(Winged Foot Golf Club )で行われた。白浜社長お住まいの町ママローネックのはずれにある。ぼくの家から車で一時間ほどのところで、一度社長がどなたかを接待したとき一緒したコースだ。
 ジャック・ニクラウス、青木功、ゲーリー・プレーヤー……、有名選手オンパレードだった。ぼくの好きなヒューバート・グリーンがいい線いったと記憶するが、優勝したのは誰だったか?
 炎天下、青木選手の組について回っていたら、途中で妻がおかしくなった。日射病、今でいう熱中症だ。慌てて係の人に言うと、間もなく救急車が来た。ぼくも同乗して救急病院に運ばれる。
 待合室にいるぼくに「入っていいですよ」と看護師さん。病室で妻は元気を取り戻していた。奇妙な患者服をまとっている。
「中は裸なんです」
 何にせよ、貴重な体験だった、妻にもぼくにも。
 子どもたちの秋学期がはじまったその頃だった。体調が狂いはじめた。
 異常に後頭部が痛む。目まいがする。トイレが近い。ふらつく。手足がしびれる。無性に苛立つ。なぜ?……なぜ?……?
 頭の痛みに耐えかねてグリニッチ市内の病院に行く。受付で症状を伝えると、内科に案内される。血圧を測って驚いたようだ。しばらくして集中治療室のような部屋に連れて行かれ、患者のパジャマに着替えさせられる。わからないまま担当医の英語をぼくなりに解釈すると、
「血圧が非常に高いのです。頭痛と何らかの関係があるかも知れません。原因を調べるためには脳の内部を見る必要があります。いまからそのためにMRI(磁気共鳴映像法)検査をします」
 ベッドで待つと、造影剤の注射が施される。しばらくして気分が悪くなった。吐き気をもよおし、体がポッポッとほてる。
 担当医がぼくの異常に気づいてMRI検査を中止することにした。造影剤アレルギーと判断したようだ。結果的にこれが極めてアンラッキー。

 英語でスムーズな対話ができないいらだちもあって、白浜社長に相談し、ニューヨーク郊外の日本人医師のところへ通うことにした。帰宅してから、妻の運転で医院へ三〇分走る。十回近くに及んだ。

「なぜでしょうね? おさまるはずなのですが……」
 壁に掛かったニューヨーク市の医師免許証はまぎれもなく立派な内科医を示している。が、丁寧に問診されたとは思わないし、血圧を測ってもらった覚えがない。降下剤服用に到らなかったのは事実だ。専門外かなとも思ったが、なぜかそのままで通してしまった。振り返ってあとの出来事に照らし合わせると、血圧が正常であったはずがない。
 悩みあせるぼくに、その都度首を傾げながら頭痛薬のバッファリンを与えるのみだった。指示の何倍飲んでも、症状に何の変化もなく、すぐに頭痛がぶりかえす。
 多量のバッファリンを服用したまま、何度か出張先でレンタカーを運転したことを思い出すとゾッとする。違法である以上に、危険この上なかった。
 互いのクラシック音楽趣味も手伝って公私ともにお世話になった技術担当の木本(きのもと)には本当に悪いことをした。彼の好みはシベリウスやグリーグといった北欧系で、ぼくはもっぱらベートーヴェン。そんなことで、カーネギー・ホールやニューヨーク・フィル常駐のエイヴェリー・フィッシャー・ホールに一緒したこともあったのに。
 ぼくの正体不明の苛立ち≠フ矛先がもっぱら彼に向かったのだ。彼は鷹揚(おうよう)に対応してくれたが、当然限界はあったろう。ひと頃の明るい付き合いは消えた。木本に本社技術部長の辞令が下り、帰国することになる。気まずい別れだった。
 昭和六〇年(1985年)に年明けて、フロッグ・ビジネスは順調に推移している。体調の不具合だけが息苦しい。
 ヒッチナーのクキ副社長が骨折ってくれた結果、子どもたちの冬休みを利用して家族で同社の町ミルフォード近くのスキー場へ行った。アップルトン・インというカジュアルで品のいいホテルに二泊し、子どもたちと妻はスキー三昧。ぼくは頭痛に悩まされながら、ホテルに引きこもったり、スキー場でもロッジのガラス越しに彼らの楽しむ様子を眺めていた。
 白浜社長はその頃転勤で帰国したのだが、それまで鋼材の仕事はご自分のこととしてそつなくこなしてくれていた。速玉製鋼に戻って、カナダに本拠を置く世界企業との合弁会社速玉インコアロイ(HIAL(ハイアル))の専務に就任する。
 後任社長の由良(ゆら)常務はフロッグ・ビジネスを評価せず、鋼材業務にもたもたしているぼくを許さない。早々にこう脅(おど)す。
「鋼材支援が出来ないなら、君がここにいる理由はないね」
 ぼくがHSAを離れたくないことをよく知っているのだ。
 ぼくも由良の言い分が正しいと理解し、明確に鋼材のサポートを主務とすべく、従来のフロッグ業務は速玉興業ロサンゼルス支店の有井(ありい)に全面移管した形になっている。が、鋼材業務は即席(やいば)であることに変わりはなく、体が即応してついていかない。米国内での転職が脳裏に浮かんだほどだった。家族ともども米国に永住したかったから。
 二月に速玉本社から由良社長にFAXが届いた。ぼくへの指令だ。社長はすでに了解ずみらしい。
「三輪主査の一時帰国を認められたし。鋼材関連部署との連携をより緊密化する要あり。あわせて二年間の駐在報告を準備するようご指示願う」
 南部(みなべ)部長と、いまは速玉インコアロイの専務である白浜が取り計らったようだ。二年間の駐在に対するねぎらいに加えて、路線の違う新社長の下でいかにHSAに役立たせようかとの腹づもりなのだろう。
 たまたまロストワックスのヒッチナー社が日本でのさらなる拡販を支援しようと戦略を策定中で、近いうちにマーケッティング担当のミノセイ(Minosay)副社長が日本出張を考えていた矢先だった。
 (おり)よしと由良に相談し、同社に対し、ぼくの一時帰国をミノセイ氏の訪日にあわせたいと提案する。彼らに異論のあるはずはない。ぼくの日本滞在を二週間として、その前半をミノセイ氏にお供することになった。体調不具合も、日本に行けばなんとかなるだろう。
 二度ヒッチナー社を訪ね、ミノセイ氏と打ち合わせる。主目的は速玉製鋼東京支社での講演、その通訳だ。細部にわたる原稿が用意されていたから、
「よほどのハプニングがない限り、通訳の任務は果たせる」
 そう確信して胸をなでた。
 二度目に訪問して、二人だけでリハーサルしているとき、ところどころで副社長の言ったことがわからなくなる。理解できないではなく、そのところが真っ白けなのだ。彼は「Relax」と言って、気にした様子はなかった。
 そして四月初め、ミノセイ氏ご夫妻に一日先行して日本へ発った。 妻と子供たちをグリニッチの自宅に残して。

朗読 18:08



目次 7. 寄り道
1. サラリーマン事始め 8. 内輪もめ
2. 仕事と私事 9. タイアップの行方
3. ペンステートの一年 10. 駐在員として
4. 身の丈を知る 11. 家族、体調
5. 新天地で 12. 倒れる
6. 輸出への道 13. HIAL、そして
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