2.仕事と私事(わたくしごと)
 速玉製鋼に入社して二年経った昭和四一年(1966)四月に、同工場の総務課から作業課に異動し、鋳造工程係で生産現場を追いかけることになった。
 私的には将来の約束までした女性が急死して半年、頭の混乱が続いている。
 盆休みが近づいていた。ぼくは大学後半に東京で付きあった広角椿(ひろつのつばき)に手紙を書いた。いまも葛飾区金町に住んで、証券会社に勤めているのだろうか。それとも?
 突然事故に奪われてしまった速玉通信の二木島瀞(にぎしましずか)に心が行ってから、もはや遠い存在になっている。その人になぜまた近づこうとするのか? 身勝手で虫がよすぎる。狂っている。何かに()かれたように。
「ご無沙汰してますが、その後いかがですか」
 通り一遍の書き出しに続けて、
「盆休みを利用して、久しぶりに上京を考えています。もしご都合がつけばお会いしたいのですが……」
 すぐあとで、出さなければよかったと悔やむ。自己嫌悪の数日が過ぎて、彼女から返信があった。意に反して応諾。
「お手紙ありがとうございます」のあと、
「○○と○○の日なら都合がつきます。私もお会いしたいです」
 残暑が一服して薄曇りの一日。尽きぬ話に酔いながら浅草寺に参拝し、隅田川下りを楽しんだ。
 彼女はまだぼくのことを忘れていなかった。ぼくは(しずか)さんとのことはふせた。
 その後広角椿とは、電話、手紙、それに休みを利用して互いに新幹線往復で、交際を深めていった。年明けて結婚を誓い合った。
 二年間世話になった下里総務課長に相談すると、
「工場長に話して、仲人を引き受けてもらうよ」
 でっぷりにこやかな工場長にどんなお礼の言葉を言おうかとあれこれ考えていたら、下里から社内電話で「工場長室へ来なさい」。
 入ると、打合せテーブルに二人がいて、手招きした。話はすべてすんだ様子で、工場長がうなずきながら直立不動のぼくに、
「三輪君、おめでとう」
 温かい気持ちが伝わる。続けて、
「ぼくは本心引き受けたいのだが、ここは下里課長が一番適任だよ」
 意外な言葉だが、ぼくは素直にそう思い、下里にうやうやしく敬礼した。
 結婚式はぼくの故郷新宮市で行った。はずれの八幡神社で三三九度の(さかずき)を交わしたのだった。
 仕事に戻る。築地工場作業課の鋳造工程係にいる。
 鋳鋼品が出来上がるまでの工程は、木型製作から砂型造形、鋳込み、仕上げ、熱処理、機械加工等、仕様にしたがってそれぞれの現場を渡る。その一連の作業工程管理が職務だ。
 同期入社の孔島(くしま)が前からこの係にいて、係長を実質的に補佐している。仕事はスピーディだし、気が利いて人付き合いもいいから、課長、係長の信頼は厚い。
 彼の考えをもとにぼくの業務分担が決まった。自分はややこしい製品工程を担当し、鉄道車両部品や土建機械のキャタピラーといった造型機の量産流れ品をぼくにゆずった。つまり、図面がまだ読めないぼくには手込め≠ニ称するそれこそ手造りの複雑大物品は荷が重い。それを心得ての彼の提案だった。人柄のよさは知っていたが、彼の好意を感じた。
 
 それでも工程管理は毎日忙しい。納期に追われてひっきりなしに現場をかけずり回る。
 現場自体が認める工程の遅れは彼らが黙々と急いでくれるが、こちらの計画の誤りや客先からのたっての願いは彼らに責任はない。ほこりまん延の中でマスクをひっ外し拝み倒す。そんな仕草でたやすく「まかせてチョー」となるはずはないから、真顔で彼らと大声を張りあうことになる。
 とくに手仕事の仕上(しあげ)現場はやりづらい。邪魔そうにグラインダーや溶接の手を止めて、彼らはどなり返す。
「知ら〜すか。こっちを遅らせてええのならね」
「そんなに急ぐのなら、自分でやりなよ。教えてやるからサ」
「オレたちはもう限界だね。夜勤にたのめば?」
 不思議と取り返しのつかない(いさか)いにまではならない。無理を承知が半分だから、あきらめもする。理屈よりも意地と心意気だ。
 かえって親しさも増して、
「ミワさんのことだから、よ」
「しゃあないなあ。これ、貸しだよ」
 と泣かせてもくれた。
 品質・納期を満足させながら月々の生産計画を達成することが、各現場と工程担当に課せられた使命だ。無意識の(きずな)とあうんの呼吸が欠かせない。
 なれ合いは御法度。熱処理されてまだ赤い半製品が所狭しとあちらこちらで移動し、真上では起重機(クレーン)が行き交い、うす暗い中で騒音激しく、マスクをしていても鼻の中が黒く汚れている。
 けっしてほめられない環境の中で、危険と隣り合わせているのだ。この前もちょっとしたミスで焼鈍(しょうどん)したての赤黒い円筒が作業員を直撃して命を奪った。
 冗談をぶつけあいながらも、互いに引き締まっている。向かっ腹を立てても、彼らはぼくの安全に気を配ってくれている。
 仕事が終われば、みんなあっけらかんだ。風呂上がりは例の如く居酒屋で一杯、さっきまでとは別世界だ。彼らの飾りっ気なしの薫陶はぼくの滋養になったし、ぼくはぼくで夜遅くなった分、資料や報告書の作成に徹夜をいとわなかった。
 徹夜といえば、居酒屋近くの雀荘(ジャンソウ)でよく徹マンをした。朝方、事務所の応接室かどこかで仮眠し、素知らぬふりで仕事にかかったのだった。
 その頃の徹マンで起きたあの出来事を素通りするわけにいかない。
 同期入社で大阪営業の御手洗(みたらい)君が出張してきており、例の雀荘で卓を囲んだときのことだ。
 深夜もとっくに過ぎて夜が白みかけた頃、ぼくは配点の二倍はある点棒に気をよくし、眠気も手伝って、きれいな手をねらっていた。ねらい通り、満貫(マンガン)の手に内心ほくそ笑みながら(かわ)を眺め、「(チュン)」が一枚捨てられているのを確かめる。まさか残りの二枚を手の内に持ち、この最後の一枚を待ち受けているはずはない。気楽にそう判断し、恐れなく同牌を捨てる。…御手洗君がくぐもった声で「ロン!」。
 開けるとなんと! 役満、それも大三元(ダイサンゲン)字一色(ツーイーソー)。ダブル役満だ。眠気が一瞬にして吹っ飛んだ。
 彼、さほどの腕ではないから積み込んだとは思えないし。そこでもめることになる。
 彼は役満二つ分の点棒を要求し、ぼくは彼の指定するアガリ手である役満一つ分の点棒しか払わないと突っぱねる。内心自信はなく、ダメモトの主張だった。
 案の定、他の二人は口をそろえて彼に同調し、多数決で役満二つ分を払わされた。もちろん賭けているし、微々たる金額ではない。
 意気揚々の御手洗君、腹の虫がおさまらないぼく、わが身でなくてよかったと胸をなでる二人。それぞれが翌朝の仕事に戻ってから、周囲に話を広めてしまった。
 時の工場長はにこやかな前任と違って音に聞こえた雀士(ジャンシ)だ。その彼がこの話を聞きつけたからただですまなくなる。
「昼食会で説明するように」
 工場長命令で幹部の昼食会場にぼくたち二人が呼び出され、詳細報告となる。ダブル役満も驚きのアガリ手だが、点棒の支払いとなると、話がややこしくなる。
 いつになく幹部の甲論乙駁(こうろんおつばく)が続いたあと、工場長が断を下す。
「どちらが正しいか、プロの判断が知りたいね」

 御手洗君とともに日本麻雀連盟名古屋支部に電話する。
「個人的なことですから当事者の取り決めが優先されますが、私たちは公式には同時に二つの役満あわせてのアガリを認めていません。連盟のルールは、あがった者が指定する一つのみに対して点棒を支払う、ということになっています」
 ダメモトが現実味をおびた。ぼくは気をよくし、しぶる御手洗君を尻目に、聞き取った内容を連盟に再確認。彼を無理やり付き合わせて、そのメモを工場長に手渡した。
 翌日の昼食会は課長以上のほぼ全幹部が出席、にぎやかに雀士″H場長の開口一番を待つ。ぼくたち二人も同席させられている。
 工場長はドスのきいた低音で、ぼくがメモした「麻雀連盟」のご託宣を読み上げ、一同を見わたす。
 一瞬不協和音的に奇声が飛び交うが、すぐにおさまり、「なるほど」と、出席者は比較的素直に受け入れる。
 が、現実に立ちかえって、ぼくたちの徹マンの「アガリ手」について工場としての落としどころをどこにもっていくべきか。
 すでに四人で決着しているように、ダブル役満として御手洗君に花を持たせるか、それとも連盟のルールにしたがって痛み分けか。他に解決策は? 幹部の論戦がはじまる。
 収拾つかないまま、やはりここも工場長判断にゆだねることになった。
「ダブル役満の栄誉は工場で(たた)えるとして、マージャン連盟のルールにのっとり、今回は痛み分けと言うことでどうだろう」
 雀士なりの玉虫色の決着で、御手洗君は渋々役満一つ分をぼくに返したのだった。
 工場次長に昇格していた下里の特別ルートの根回しもあったのだろう。現場の人たちにも推薦された形で労働組合の執行委員に立候補させられた。おまけにぼくの悲観的な予想を大きくくつがえして、上位当選を果たした。
 結果、工場全体での友達の輪が広がった。組合では財務担当として、滞りなく任務を果たした、ということにしよう。それも米国留学が決まって、途中で辞するを得なくなるのだが。
 何しろ財布のひもを握る大蔵大臣だから、へまをやらない限り居心地がよい。仕事に疲れたり暇ができたとき、組合事務所に身を隠して、くつろいだ。
 組合ではいつもは聞きなれない雑談に花が咲く。現場ごとに問題や悩みがあるものだ。聞き耳を立てなくても、「実はね」という裏話が自然と入ってきた。
 民青メンバーとのうわさもあり、発言力の鋭い仕上(しあげ)現場の尾呂志(おろし)君が組合へ来て、ぼくを誘った。
「ミワさん、オレたちの寮に遊びに来ないか?」
 現場作業員の「青雲寮」だ。工場の近くにある。仕事上ではありえない誘いで、断る理由はなかった。
 早めに仕事を切り上げて出向くと、食堂で夕食を前に彼らが待っていた。珍しげと非友好的な目が入り組んでぼくを見る。作業現場の雰囲気とは違う。
 ぎこちない食事のあとは、大広間に場所を変えて車座で討論となる。居心地がより悪くなる。
「あんたは大学卒で、オレたちはほとんどが中学卒。世界が違うんだよね」
「現場にはよく来るけど、いつもチョイの間だから。本当のところはわかるはずないズラ」
「どうせすぐ本社だろ? いずれ経営者だからね。オレたちとの付き合いも結局は、はいサヨナラと言うことダラ?」
「こんな場も、どうせあんたの自慢話になるんジャン?」
「まさかオレたちのことスパイしてるんじゃないだろうね。下里次長の回し者だとはいわんけどサ」
「…………」
 ぼくはもともとノンポリで、これといった強い思想の持ちあわせはない。すべてまともに答えられるはずはない。尾呂志君たちはさぞ失望したに違いないが、鬱憤(うっぷん)だけは晴らしたようだ。
「ミワさんの腕は太いけど、ヤワなんだろ?」
 と尾呂志君。
 これにはぼくも黙っていられない。
「冗談じゃない。試してみるか!」
 と言うことで大広間はにわか仕立ての腕相撲の場に変わる。相手は彼らが推すキン肉マンだ。
 名指しされたうえに負けるはずがないから、彼、福の神が舞い降りたえびす顔になる。すぐに勝負ありと高をくくっているようだ。
 自慢じゃないがこちらも腕相撲にはいささか自信がある。相手が知るはずはないから、内心「見てろよ」と勢いこむ。
 腕をギュッと組み合わせる。キン肉マンのかさついたグローブのような手の平がいやでも現場を実感させる。
 腕に少し力が入ってきて、横目でぼくの顔色をうかがいながら間合いを計っている。思ったほどヤワではないゾと、当て外れが表情に読み取れる。
 次の瞬間、キン肉マンの眼がギョロッとしてグイと腕力(うでぢから)が加わる。
 普通ならあえなく一巻の終わり。ところがどっこい、ぼくにはまだ「負けてなるか」の気持ちが強い。歯を食いしばって持ちこたえる。手首に強烈な圧迫を受けながら頑張っている。
 キン肉マンはここぞと力を振り絞る。額には血管が浮き上がり、目玉が飛び出しそうだ。ぼくはもはやここまで…………
「もういいんジャン?」
 だれかが合いの手を入れてチョンとなった。キン肉マンの恨めしそうな顔。ぼくは息切れして声が出ない。
 いつしかビール、酒の宴会になり、全員べろんべろんで、あとはどうなったのだろう。内緒で部屋をあてがわれて、泊めてもらったことはたしかだ。
 尾呂志君をはじめ、仲間は翌日から素知らぬそぶりではなくなった。現場に行くと、声をかけてきたり、目があえば片手をあげた。
 鋳造工程の流れを追いかけた二年が過ぎて、昭和四三年(1968)四月。
 二八歳を前に作業課企画係に移り、工程全般の企画担当になる。いわば工場の(かなめ)の事務局だ。鍛造工程は実務経験がないから手に負えない。工場の頭脳との聞こえ高い古座係長が引き続き担当し、ぼくは鋳造工程を分担した。
 一年近く経って面白くなりかけてきた頃に、海外留学試験に合格した。入社したときから目指していたことだ。
 現場からは祝福され、労働組合では恨まれながら、留学準備のため、本社人事部へ異動することになる。
 工場を去る直前に組合大会があり、ぼくの財務報告の時に、親しい班長が発言を求めて、
「あんたにとってはめでたいでしょうが、オレたちのことをどう考えているのですか」
 スピーカーを通して半分真顔で詰め寄り、立ち往生させられた。もっともなことで、閉会間際に両手をついて詫びた。

 留学先はいち早く許可通知のあったペンシルベニア州立大学に決めた。社命により一年間の期限付き社費留学だ。

 昭和四四年(1969)五月下旬に羽田空港を発つことになるが、その月初めに父が亡くなった。腎臓がんで、六八歳六ヶ月の命だった。
 父は一六歳から一七年にわたってオーストラリアの北東、赤道に近い南洋アラフラ海でダイバー(真珠貝採取の潜水夫)として働いた。
「父さんは小学校もろくに行かへんのに、息子の太地(たいじ)ちゃんはアメリカに留学するんやで」
 ふる里の葬式に参列したおばさんたちからそう慰められた。
 当時貧乏人の子だくさんは当たり前。父は八人兄弟姉妹の長男として生まれ、青年時代を丸々南半球常夏の海で過ごした。
 子どもの頃を思い出すと、顔のどす黒さに昔の面影を残す父が、大型寝台でぼくと弟を両脇に寝かせ、天井を南洋の海であるかのように細目で見つめながら話したのだった。
「アラフラはええ海やった。毎日陽がぎらぎら照りつけてのう。どこまでも青や緑や黄色で輝きやる」
「潜るとのう、珊瑚礁(さんごしょう)がず〜っと広がったある。こわさんようにそ〜っと作業をするんやだ」
「魚もうようよ泳ぎやる。おっきい(大きい)のもちっさいのも仲良う遊びやる」
「海の底はいろんな生き物が()いやるで。海草の上ではトンボや小鳥みたいな魚がスイスイ飛びやる」
「おれが採ったおっきい真珠は、親指ぐらいもあったで。もっとおっきいのは虫食いやった」 …………
 苦労話はついぞ聞かず仕舞いだった。強いて避けたとは思わないが、子どもに同じ経験をさせたくない気持ちは伝わった。
「おじいちゃんはええ人やった。いっつも守ってくれやるさかに、おばあちゃんはなんにも寂しないよ」
 後々孫たちに話す母の口ぐせだ。父がアラフラ海で採取した真珠が母の薬指にいつも輝いていた。
 葬儀のあと、半月があわただしく過ぎた。羽田空港では母や義母とともに、妻の椿(つばき)が一歳にならない長女を負ぶって見送った。

朗読 28:41



目次 7. 寄り道
1. サラリーマン事始め 8. 内輪もめ
2. 仕事と私事 9. タイアップの行方
3. ペンステートの一年 10. 駐在員として
4. 身の丈を知る 11. 家族、体調
5. 新天地で 12. 倒れる
6. 輸出への道 13. HIAL、そして
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