13.HIAL、そして
 東京支社の調査部で一年経とうとした頃、
HIAL(ハイアル)の白浜社長に頼まれているんだよ」
 次の人事で常務がうわさされている南部(みなべ)部長がそう耳打ちし、
「どうだ、やってみるか」
 再出発させるチャンス到来と、喜んでぼくを送り出してくれた。

 HIALは速玉インコアロイ社(英文名:Hayatama INCO Alloy Ltd.)の略称である。速玉製鋼とニッケル精錬の世界企業との合弁会社で、速玉東京支社と同じビルの一階に事務所を構える。名古屋に倉庫と加工工場を有し、従業員一〇〇人弱。収益性は高い。ニューヨークのハヤタマ・スチール・アメリカ(HSA)から専務として転任した白浜が社長に昇格している。

 速玉を去るまで約二年、同社に出向し、業務担当兼社長秘書として務めた。
 社長が温厚に見えて厳しいことは前職のときと同じ。仕事に手加減はない。ぼくの身体的ハンデや職務不慣れを、少しは気遣ってくれるかとの期待は(むな)しかった。
 HIALの二年間でとくに思い出すこと二つ。その一つは恥ずかしい。
 三ヶ月に一度の役員会は八丁堀のINCO Alloy社日本事務所にて。すべて英語による。進行係と議事録作成を担当した。
 その会議資料をオフィスへの帰り、地下鉄車両に置き忘れたのだ。
 夏の真っ盛りで、帰りも八丁堀の会議場から虎ノ門のわが社まで地下鉄を利用。背広は日比谷線も銀座線もずっと網棚へ。なぜか銀座線に乗り換えたあと、わが身から離すべからずの会議用資料や議事録の走り書き等、重要書類をねじ込んだカバンをも網棚に乗せたのだった。
 不覚にもうつらうつらして、目をあけると虎ノ門ではないか。急いで降りる。電車が動き出して動転した。身一つで、カバンと背広は電車の網棚の上。
 構内事務室に駆け込む。駅員のあきれた顔がもどかしい。……ジリジリしながら待つこと十数分。どうやら終点渋谷に向かっているところで見つけてくれた。渋谷駅の遺失物係で受取証に拇印を押し、ホッと胸をなでた。会社には内緒の話である。
 もう一つは超合金の輸出業務でのこと。
 HIALはニッケル及び超合金の専門商社として、当然輸出入を扱っている。業務部の担当だ。
 部下の係長とぼくが社長室に呼び出された。口外無用と小声で前置きしてから、白浜社長はこう言う。
「速玉輸出部からいま連絡があってね。うち(HIAL)が米国へ船荷で送った品物が、ボルチモア港の入管検査で引っかかっているらしい」
 禁輸が明示されている金属材料を米国政府に指摘され、近く通産省(当時)から事情聴取を受けなければならない。部下はハッとした様子で、「私のミスです」と頭を下げる。
 本人にやましい意図はなく、いわばケアレスミスであることは見え透いている。が、問題は大きく、謝ってすむ段階ではないようだ。
 観念した顔つきの部下に対して、社長に妙案はなさそうだ。電機メーカーと大手商社が共産圏禁輸というこの(たぐい)の事件で何人かの逮捕者を出したことがまだ耳新しいその当時のこと、ぼくなりに事情を察知した。
「私に預けていただけませんか?」
 と社長にいう。
「私は知らなかったのだよ」
 社長はぼくたち二人に念を押す。
 社長室を出て、資料を携えた部下と近くの喫茶店に入る。詳細理解するまで部下との密談が続く。
 速玉輸出部に「ぼくです」と告げて謝り、事情聴取に応じたいと話した。
 輸出部長に付き添われて霞ヶ関の通産省に出向く。
「大変なことをしてくれましたね」
 担当者は怒りをあらわにぼくをにらんで覚悟を促す。
 それから数回通産省に呼び出され、ボルチモア港での芳しくない調査状況が伝えられる。
 速玉社内では箝口令(かんこうれい)が敷かれているらしく、風のうわさにもない。こちらはそれを話せる相手はなく、追い詰められた孤独を味わっている。
 いつお縄になるかと首を洗って待ったところ、呼び出しがかかる。いよいよと覚悟して通産省の小部屋で待つと、担当者は入るやいなや、
「あれはなかったことにしましょう」
 それだけ言って、頭を下げる相手を見やりもせず、そそくさと部屋を去った。こちらはわけの分からないまま、自身の強運に感謝した。
 その頃からあれこれ考えるようになった。
 左半身の不自由はほどほどに蘇生してきているが、こんな具合で会社人生が続いていくのだろうか。
 HIALでは経営実務をまかされた形であり、好きなように振る舞わせてもらっている。
 それでなぜ満足感がないのか。
 ぼくは速玉では課長級だ。入社時のエリート街道から紆余曲折を経たとはいえ、大卒同期六〇数人の中でまだ引け目を感じる状況ではない。
 が、脳梗塞のあと会社復帰したとき、お抱えの医師に言われた言葉が重くのしかかっている。
「会社組織はね、厳重な決めがあるんですよ。役員は、心身健全にしていざのときは命を捧げてもらわんといかんのです。残念ながら君は心身健全という資格から外れてしまった。普通の怪我や病ではないからね。
 なにも役員になるだけが生きがいではないでしょう。現状をふまえて、意義ある会社人生を見つけてほしい。非情ですが、それが大勢の社員を養う会社のあり方なんですよ」
 この前の人事異動で企画室の印南(いなみ)や鋳鋼販売部の孔島(くしま)をはじめ、同期数人が次長職に昇進した。なぜぼくが昇進しないのか。気持ちを切り替えているつもりだが、治まろうはずのないもやもやがはじまった。会社役員にはまだ遠い地位だが、今後このような悲惨な気持ちを定年まで味わうことになるのだろう。
 実力はないのに、プライドだけは人一倍ある。こんな状態で人生が終わっていいのか。
 リハビリの効果もあり、なんとかやって行けそうだと勝手に思いはじめる。思いがつのる。
 家族五人の長としての自覚はこれっぽっちもない。長女が大学二年、長男は高校で、次女は中学。これからが一番出費がかさむというのに、
「速玉をやめることになるが、迷惑はかけないから。なんとかなる」
 妻には有無を言わせず、よく言えたものだ。
 妻は覚悟していたらしい。(たな)ざらしになっていた保母の資格を生かそうと動き出した。幸い近くの保育園に職を得た。
 子どもたちは事情を察したのだろう。長女は家庭教師のアルバイトをはじめ、長男はいつの間にか新聞配達をしている。
 二歳下の弟が赤坂見附の会計事務所に勤めていた。
 その彼にことの成り行きを話した。思いとどまらせるのが無理と判断したようで、
「兄貴の気持ちが変わらないのなら、ぼくなりに協力するよ」
 と支援を約束した。
 夕刻よく会うことになり、彼なりにぼくの第二の人生設計をシミュレーションする。「妻と二人だけの新会社」という危なっかしい構想をいかにうまく軌道に乗せるか。
 ぼくの思惑にこれといった切り札があるわけではない。いずれも経験を活かして、鉄鋼業界の英文翻訳、経営分析資料の作成・フォロー……。これで商売が成り立つと信じ、妄想の中で本人は起業成功の夢のみ描いている。
 後日談だが、弟は、ぼくが速玉製鋼を退職して一年間、毎土日を返上して江東区東陽町の事務所に駆けつけてくれた。彼専門の経理システムを導入し、保母を続けながら会社を手伝う妻にその実務を仕込んだ。この分野はぼくの無知なる急所で、感謝のほかない。愛弟子たる妻が最も敬うゆえんである。
…………
 速玉を去るべくHIAL白浜社長に打ち明けると、予期していたようだ。
「ぼくはとめないがね。あと二年で五〇歳だろ? 退職金は二倍になるし、役職も一段上になっているから、そうしたら?」 、とだけ言って無理強いしなかった。
 速玉常務の南部もとめなかった。
「困ったら相談しに来い」と、居酒屋はしごで激励してくれた。
 昭和六三年(1988)一〇月、ぼくは四八歳で速玉製鋼を去った。

(了)

朗読 14:41



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