1. 前置き、初日 5. 5日目(バスツアー)
2. 2日目(バスツアー) 6. 6日目(自由行動)
3. 3日目(バスツアー) 7. 7日目(自由行動)
4. 4日目(自由行動) 8. アラカルト
8.アラカルト
  7日間の京都は終わった。長居したとの気持ちの半面、もっと効率よく回るのだった、と心残りがある。
 いまや京都に魅せられたぼくのことだ。いずれ近いうちにもう2、3度訪れてこれを補完し、英文編に挑戦出来ればとの期待感がある。
 書き残したこと、いくつか挙げておく。まずは今回6泊した京都ロイヤルホテル周辺の写真を備忘録的に羅列する。
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 最終前日、平安神宮を訪れた。受付で神宮建築者について尋ねたが、「???」。無理もない。ぼくの愛読書の名が「伊東忠太を知っていますか」(鈴木博之氏編著、王国社)というくらいだから。
 10年ほど前に書いて、その後今年の4月まで改訂を繰り返してきたわれながらの長編小説「怪獣の棲む講堂物語」の重要登場人物が伊東忠太博士。彼が東京帝大の学生の頃、この平安神宮建築に深く関与している。それが頭にあるから、是非にと訪れたのだ。
 訪問記は第6章で触れた。ここではぼくの伊東忠太への思い入れと彼の京都とのかかわりを、知りうる範囲でつづってみたい。

伊東忠太と京都

 前章の「西本願寺」境内で、同派の築地本願寺を思い出しての発想と言いたいところだが、本件予定の行動である。忠太は京都と結構つながりがあるのだ。
 なんにでもかこつけて忠太に関するうんちくを傾けたい身。この旅行記から横道にそれすぎの感もあるが、お許しを乞う。

  「第2京都主義」というブログに、京都の建築物で伊東忠太が関わった幾つかが取り上げられている。
 わが小説とまんざら無関係でもないし、自称忠太信奉者として、忠太博士の更なる紹介にもなりそうだから、大半をその助けで「忠太と京都」に思いをはせる。

 まずは次の2つの建物。忠太の設計としてどの紹介でも取り上げられている。(今回どちらにも立ち寄らず。なぜ? 写真はブログより)

西本願寺伝道院 1912年
(旧・真宗信徒生命保険会社)
祇園閣 1927年

 一般的に旧名で伝えられている西本願寺伝道院は、西洋建築一辺倒だった明治から大正期にかけて、あえてアジア建築の新風を取り入れた斬新な建築だ。

 祇園閣は、東山の瀟洒で風光明媚なたたずまいには異質な、祇園祭の鉾のような形で突っ立っている。まさに忠太! (依頼した大倉喜八郎の感想は?)

平安神宮

 平安神宮も忠太の設計だ。彼、20代半ばの初仕事! もちろんこれ、曰く因縁付き。

 明治26年(1893)、東京帝大大学院で日本建築を研究していた忠太の指導教官が木子(きこ)清敬(きよよし)
 京都では2年後の明治28年(1895)に「第4回内国勧業博覧会」と「平安遷都千百年記念祭」が開催されることになり、その目玉事業として大内裏の復元計画が持ち上がった。
 この事業の代表の一人が木子で、彼の推薦により、忠太は平安遷都記念祭協賛会より記念殿建築技師に大抜擢で任命される。

 それは良しとして、忠太は当時から自己主張が強い。一方事業規模は予算の関係で当初予定の8分の5に縮小された結果、満足のいく仕事にはならなかったようだ。
 平安神宮の名自体、当初は「平安遷都記念殿」と称し、単なる模造大極殿(だいごくでん)として建築されようとしていたのだが、工事の途中で桓武天皇を祀る「平安神宮」へと変更になったという。
 祭神は平安京に都を移した第50代桓武天皇の他に、京都に都があった最後の天皇でもある第121代孝明天皇が昭和15年(1940)に加えられている。

 明治28年(1895)完成。
 木子清敬、伊東忠太、佐々木岩次郎の共同設計になっているが、実際は木子は顧問格の名誉職で、伊東が理論的な設計を担い、佐々木が技術的な実地を担ったとされている。
 昭和51年(1976)1月、放火により本殿・内拝殿など9棟が炎上焼失。現在の社殿は、昭和54年(1979)に再建された。

 伊東と佐々木のウマが合った証拠に、のちに二人の共同事業がいくつかある。……豊国廟(1898)、宮崎神宮(1907)、旧徴古館(1907)、浅野総一郎邸(1909)、増上寺大殿(1925)。

 いずれにしても、忠太は平安神宮建築に、考案・設計・監督として携わった結果、官僚や宮大工といった人脈を得て、建築の巨人への道をスタートできたのではないか。

大谷光瑞との出会い

 伊東忠太は明治35年(1902)から3年半かけて、アジア・中東・欧米を行脚する。
 その時、中国の貴州から雲南に入るあたりで大谷探検隊(大谷光瑞主宰)の一員である学生と遭遇する。
 帰国後、法主・光瑞を西本願寺に訪ねる。意気投合し、早速「大連別院」(中国)と「鎮西別院」の設計を依頼される。が、この2つとも、檀家の反対にあってあえなくとん挫し、旧態依然の寺院建築案が採用された。2人の思いは、当時ではあまりにも斬新すぎたか。しかしこれが光瑞が忠太のパトロンとなるきっかけだ。

 光瑞依頼による忠太の代表作……神戸六甲山の別荘・二楽荘(1909年)(1932年消失)、真宗信徒生命保険会社(現・西本願寺伝道院、1912年)。
 さらに、西本願寺の建築物として最も有名なのが、古代インド様式の伽藍を持つ築地本願寺(1934)。当初はだれにも奇異に映ったようだが、今や浄土真宗本願寺派の東の一大拠点。それでも忠太、信徒のお節介が気に入らず、出来栄えについてずっと不満を漏らしたという。(岸田日出刀著「建築学者・伊東忠太」に詳細記述がある)。

大倉喜八郎と忠太

 大谷光瑞と並んで、大倉喜八郎が伊東忠太の重要なパトロンであることは、「怪獣の棲む講堂物語」で触れてある。
 忠太が設計から建築の全てに関わり、完成に至るまで東京・本郷から当時のローカル電車で通いつめ陣頭指揮した、彼唯一の西洋建築である怪獣だらけの講堂、東京郊外国立(くにたち)の一橋大学「兼松講堂」である。講堂内部にある無数の怪獣のほとんどを彼が粘土をこねて作った。
 大倉なしではこの講堂はあり得なかった。東京商科大学(現・一橋大学)は、当時国立(こくりつ)に格上げされたとは言い条上、関東大震災で焼失した神田キャンパスを西の果て武蔵野原野に引っ越そうとする、政府からはえてして疎んじられてきた経営・経済大学で、東京帝大工学部の有名教授たる伊東忠太とはどこをさがしても何の接点もない。なおかつ、そのキャンパスに新築すべく講堂の政府予算は、ただでさえ大震災関連ということもあり、極めて厳しかった。
 そんな中で神戸の兼松商店が政府予算の5倍近くに及ぶ寄付を申し出てくれた幸運にも恵まれ、大学側は校の伝統的精神を体現してくれる建築者は伊東忠太博士を置いてないという途方もない結論に行き着く。
 この夢を実現させたのが大倉喜八郎だ。彼の無二の親友が渋沢栄一で、渋沢は同大学の生みの親で育ての親。大学の切なる夢を自らのものとする渋沢のたっての願いを大倉は誠実に受け止め、伊東忠太への道を開く。
 あとは拙著「怪獣の棲む講堂物語」に譲るとして、同大学のいばらの歴史と辛苦奮闘に自分を重ね合せた忠太は、多忙を顧みず引き受けて、1年半後に日本では他にないロマネスク様式の「兼松講堂」を実現する。
 当時建築された、東京帝大の安田講堂、早稲田大学の大隈講堂、慶應義塾の三田図書館に代表されるように、あまねくカレッジ・ゴシックとして知られる大学講堂の建築様式をあえて避け、なぜその一時代前の旧式で幾つかの難点が指摘されるロマネスク様式を選んだのか。忠太博士と兼松講堂を語るうえで、解き明かすべき決定的な謎の一つだ。
 くどいが、忠太博士による「兼松講堂」は、佐野善作学長をはじめとする教授・大学関係者は当然として、兼松商店、渋沢栄一、大倉喜八郎なかりせば、夢幻(ゆめまぼろし)だったに違いない。

 かく言う大倉は、戊辰戦争から日清、日露戦争の特需で大儲けし、大倉財閥を成した。
 忠太が関わった大倉関連の建築では、大倉集古館(1927年)、祇園閣、大倉喜八郎京都別邸、等がある。

大倉集古館
Part 8 朗読: 16' 35"
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おわり
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