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3.3日目 (6月27日、火)
観光バスツアー |
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6時起床、曇り空。朝からバス観光を予約してある。
~源氏ロマン宇治と伏見を巡る~
萬福寺普茶料理と平等院・醍醐寺
今日は京都市内を離れ、宇治・伏見。あじさい寺の三室戸寺を皮切りに、約7時間の観光だ。
9時40分、バスは20数人の客を乗せて京都駅烏丸口を出発。蒸し暑い。
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三室戸寺 |
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西国三十三カ所第10番札所。山号は明星山で、本山修験宗の別格本山。開山は宝亀年間(770-780年)と古い。
お寺の案内には、約1200年前(宝亀元年)、光仁天皇の勅願により、いまの三室戸寺の奥、岩淵より出現した千手観世音菩薩をご本尊として創建された、とある。
杉木立の参道を上って本堂に着いた。現在の本堂は約180年前(文化2年)に重層入母屋造りとして建築されたという。後ろに室町時代の十八神社社殿、東には鐘楼と三重塔が見える。
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四季折々の花が見られるという「花の寺」。境内の広い傾斜地には枯山水と池泉の2つの庭園(総計5千坪)、それを取り巻いて、アジサイが今は盛り。10,000株だそうだ。
山門手前から本堂に向かって咲き競っている。青、赤、白だけではない。様々で、微妙な淡い色合いが思わずホッとさせてくれる。
帰りの途中で、芭蕉のこんな句を見た。
やまぶきや
宇治の焙炉の
匂ふとき
西行の歌も。
暮れはつる
秋のかたみにしばし見ん 紅葉散らすな御室戸の山
まこと、境内は全体にわたって心和ませる。さわやかな小一時間は、本日のいい出だしとなった。
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参考までに全体図。
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三室戸寺 その他の写真 |
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萬福寺 |
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まずはお寺の紹介パンフレットを引用する。
1654年(江戸時代)、中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川4代将軍家綱公の尊崇を得て、1661年に開創された寺院であり、日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、黄檗宗の大本山です。
黄檗宗では、儀式作法は明代に制定された仏教儀礼で行われ、毎日よまれるお経は黄檗唐韻で発音し、中国明代そのままの法式梵唄を継承しています。
建造物は、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は、日本では他に例がなく、代表的な禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊、額、へいなどが国の重要文化財に指定されています。 |
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今様観光的には普茶料理が売りなのだ。普茶?
昼前に着いて、本堂から廊下を渡り、食堂へ。途中立ち止まりたいところが数ヶ所あったが、食後の楽しみとした。
代り映えのしないテーブル席の部屋に案内され、こんな料理が出た。
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「普茶」とは、普く大勢の人にお茶を差し上げるという意味で、お寺での行事について協議や打ち合わせの時に茶礼という儀式を行い、その後の謝茶(慰労会)で出される中国風精進料理を普茶と言います。(萬福寺パンフレット) |
確かに(中国風)精進料理なのだ。が、ぼくにはこれといった印象がない。妻たち女性は、それなりに愛でていた。
ぼくには上記パンフレットのご託宣とは裏腹に、他の寺院との際立った違いが感じられなかった。普茶料理を「これが中国風?」と、目にも口にもそう思わなかったのと同じように。恥じ入るべし。
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大雄宝殿(本堂)
日本では唯一最大の
チーク材を使った歴史的建造物。 |
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開版
斎堂前にある魚板で木魚の原形。
時を報ずるものとして今も使われている。 |
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全体図(案内書より)
…………
山門を出れば日本ぞ茶摘み唄 (菊舎尼) |
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萬福寺 その他の写真
一口メモ。
隠元禅師とかけてインゲン豆といきたいところだが、どこを探してもそれを裏付ける情報なし。一応忘れることにする。
が、さるブログにはこうあった。
「隠元さんは日本に移住するつもりで様々な文物を持ってきました。絵画では南画を、仏具では木魚を、食では飢饉対策との情報から豆、蓮根、孟宗竹、西瓜等をも持ってきたと言われています」。真偽やいかに?
インターネットの語源由来辞典はこう書いている。「明の僧であった隠元禅師が1654年(承応3年)に来日した際、日本へ持ち込んだことから、〝隠元〟の名がついたとされている」。
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平等院 |
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永承7年(1052)、関白藤原頼通によって父道長の別荘を寺院に改め創建された。翌年の天喜元年(1053)に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立され、現在鳳凰堂と呼ばれている。
庭園は浄土式の借景庭園として史跡・名勝に指定され、現在鳳凰堂周辺の洲浜や平橋・反橋などが整備されている。
他にも平等院には、大和絵風來迎図、梵鐘、鳳凰一対など、平安時代の文化財が多くあり。とくに11世紀の仏像群としては唯一伝来する、雲中供養菩薩像52躯は、いずれも雲に乗り、様々な楽器を奏でて舞うなど、伸び伸びと繊細に彫り上げられている。 |
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十円玉の裏側が平等院の鳳凰堂だとはじめて気づかされた。十円玉と違っていかにも重厚なたたずまい。確かに鳥が羽を広げた形に似て、その中堂の屋根に一対の鳳凰。なるほど、それで鳳凰堂。
その全体像を水面に映す阿字池。宇治川や対岸の山々を借景として取り込み、洲浜、平橋、反橋や小島が配されて、史跡名勝平等院庭園を形づくっている、という。
まさに壮観。他の神社仏閣とは異次元の景観だった。 |
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平等院 その他の写真
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醍醐寺 |
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伽藍、霊宝館、三宝院、と広大な寺院だ。五重塔は、京都府下最古の木造建築とか。3ヶ月前も天気に恵まれ、心地よい参拝をしたのだった。 |
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貞観16年(874)、聖宝尊師が開創。以来、醍醐・朱雀・村上の父子三代の聖帝、穏子皇后の帰依により醍醐寺永世護持の基礎が築かれた。
南北朝、室町幕府、桃山時代、江戸時代と、歴代碩徳の座主を迎え寺は守られてきた。が、明治の廃仏毀釈で、寺領は国に返還、経営基盤は大きく揺れ、衰退の一途をたどり始めた。しかしこの苦境の中、一山に伝わる一切の宝物を、一紙に至るまで流出する事なきを旨とした結果、現在、伝承文化財は、国宝69,420点、重要文化財6,521点におよぶ。 |
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3月末に訪れたときのと併せて、添付写真が55枚。とくとご覧あれ。
3つのエリアそれぞれに特徴がありそうだが、それはそれ。
唐門を入って三宝院の庭園、そして表書院では屏風絵。伽藍エリアでは仁王門の向こうに金堂があり、その右向かいが五重塔。この塔は天歴5年(951)の完成で、京都府下最古の木造建築という。
出口手前の霊宝館には、国宝・重文の仏像がずらり並んでいた。この付近、3月はしだれ桜が咲きかかっていた。
醍醐寺 その他の写真
3月28日参拝時の写真(参考)
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勧修寺 |
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山号は亀甲山。山科区の門跡寺院で、真言宗山科派大本山。「かじゅうじ」と読む。
昌泰3年(900)に醍醐天皇が創建。開山は承俊、本尊は千手観音、寺紋は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院という。
庭園の「勧修寺氷池園」は、「氷室の池」を中心に造園され、周辺の山を借景に、広大な自然美を楽しむ「池泉庭園」。 |
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残念ながら、氷室の池以外に強い印象を得なかった。
勧修寺 その他の写真
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平等院からの帰りがけ、鴨川に松原橋がかかっていた。ガイドさんいわく、「冗談ですが、こちら平等院があるほうが極楽で、橋を渡ると地獄、とも言われています」。
確かに橋の向こうに「六道珍皇寺」。今は地の人に「六道さん」と呼ばれているようだが、門前は昔「六道の辻」といい、あの世と現世の分岐点。JTBの本によると、「昔は亡くなった人の亡骸を棺に納めて鴨川を渡り、このあたりで僧侶が亡者の霊魂に引導を渡し、野辺送りをするのが習わしだった」とか。
近くに浄瑠璃寺といった極楽の寺もあるから念のため。
なぜこの件を引き合いに出すのか。鴨川を三途の川と見立て、松原橋があの世への道とすれば、まさに落語「地獄八景亡者の戯れ」。ウィキペディアのあらすじ紹介を引用する。
サバの刺身を食べて食当たりで死んだ喜六が、冥土への旅路で伊勢屋のご隠居と再会するところから始まる。三途の川渡り、賽の河原、六道の辻、閻魔の庁などおなじみの地獄の風景が、登場人物が入れ替わりつつ描写される。最初に登場する喜六の他、居並ぶ一同に閻魔大王の裁定が下される所までがだいたい前半。
閻魔大王の裁定により、一同の中から4人の男が地獄行きとなり、後半はその4人と地獄の鬼や閻魔の話。4人が4人とも曲者揃いで、あれやこれやの手を使って鬼たちを困らせる。 |
ひと頃桂米朝の軽く1時間を超すこの落語に聴き惚れた。筋書きといい、個性あふるる登場人物といい、ギャグの数々といい、まさに落語の絶品。また聴きたくなった。
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