モスタル (10月8日)
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ |
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ドブロヴニクでホテル・ペトカに2泊した2泊目、真っ暗がりの4時半起床。テレビをひねって見るともなくCNNに目をやる。南太平洋でまた地震が3回あったようだ。
インドネシア・スマトラ島にマグニチュード7.6の大地震が襲ったのは、旅行出発数日前だった。震源地に近いバタン市の惨状が生々しく報道されたのは記憶に新しい。数千人の犠牲者が予想されている、といっていた。
次いでフィリピン沖で地震・津波があり、昨日は南太平洋のサモア島近海でマグニチュード8.3の地震が起きたばかりだ。津波による被害者も含めて、犠牲者は200人とかいっている。
杞憂に終わればいいが、どこもここも何か空恐ろしい予感がする。逃げ場のないパニック。 |
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ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォ(Sarajevo)は訪れなかった。サッカー日本代表の監督だったイヴィチャ・オシム氏(Ivica
Osim)のふる里で、友人から「何か記念になるようなおみやげ」をねだられていた手前、残念な気がしていた。
この町モスタルで意外な出会いがあった。昼食に入ったレストランの主人だ。往年、サッカーチーム「FK. VELEZ」でオシム氏と一緒に活躍したとか。そのことは終章で触れる。 |
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モスタルは、旧ユーゴスラヴィアの一角であるボスニア・ヘルツェゴヴィナの南部に位置し、同国2番目の人口を有する。約11万人。
朝ドブロヴニクのホテルを発って、140`を3時間近くかけて走る。繁華街とは少し離れた駐車場でバスを下りて、レストランまでしばらく歩く。
オスマン朝時代の影響を残すというモスタルは、これまでの各都市とはひと味違って独特の雰囲気がある。西洋と東洋が同居している。 |
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昼食のあと、賑やかな通りやひと渡り要所を巡ったあと、フリータイムをとった。
渓谷を流れるネレトヴァ川に架かった名物の石橋(Stari Most)界隈は観光客でごった返していた。狭い路地の両サイドはみやげ物屋オンパレード。どの店も商売繁盛は見て取れた。それでも店員たちの物腰は、どこかの国のように売らんかな攻勢の性急さは感じられず、かといって居丈高でもない。温かみのある雰囲気を味わえた。 |
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モスクのミナレットがここにもあそこにも……、トルコ旅行を思い出した。カトリック教会もあるところが彼の国と違う。
通りがかりに弾痕がちりばめられた家壁が軒並み目につく。1992年に独立宣言したあと、この町もユーゴスラヴィア連邦の攻撃を受けた。追い打ちをかけて共闘していたボスニア人とクロアチア人の戦闘と、世に知られる「ボスニア紛争」の生々しい傷跡だ。
石橋は1993年に破壊され、2004年に復旧されたそうだ。旅を通じて他の町も何らかの戦闘の名残をとどめていたが、モスタルはとくにひどかった。 |
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数時間だけの立ち寄りだが、印象に残る町だった。
それは気のよさそうなレストラン店主のホスピタリティや路地と石橋界隈の大賑わいのせいばかりではない。戦争にメチャメチャにされながらも、まだ失っていない落ち着いた伝統……、そんな感想すら抱かせる町の佇まいだった。 |
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午後2時までこの町を見物したあと、北へ300`先にあるクロアチアのプリトヴィッツェへ。
バスは高速道路を疾走するが、途中ぼくの時計で6時26分に日没。景色が闇に吸い込まれたあと、向こうに満月が見えた。 |
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朗読(11:11) on |