ザダール旧市街 (10月5日)
クロアチア
 スロヴェニアのポストイナから南下して、昨夜はバルカン半島最北西部にあたる、アドリア海に面したクロアチア・オパティヤという町で一泊した。
 その「ホテル・オパティア」を7時半に出発して南へ南へ、バスは海岸沿いを400`疾走する。昼食休憩をまじえて6時間程度を要した。
 朝、10度を少し下回っていた気温は、南下につれてどんどん上がり、ザダールに着くと25度だった。
 アドリア海に臨むこの旧跡の町、のどかな好天気が逆効果となったか、旅を終えて印象は薄い。
 海岸に来て、妻は「モナコに似てるわね」という。そうかなと思いながら周囲を眺め、2年前の秋、モナコにはじまってパリまで巡ったフランス旅行を思い出した。あのときもコートダジュールはこのような天気だった。
 海沿いの堤防がシーオルガンという、波の音をパイプオルガン風に奏でる壮大な楽器になっている。海が荒れていれば、または船団が波を蹴立てたなら、オルガンの音色はいかほどに高鳴ったろう。凪いでいるから断続的に穏やかな音色を奏でるのみ。サンサーンスの交響曲第3番「オルガン付」にはほど遠く、か細い音量に変な納得をしながら、石段に座ってしばしくつろぐ。数隻のヨットがのどかな景色に色を添えていた。
 旧市街を散策した。城壁に囲まれている。カトリック教会が多く見られる。
 中世を思わせる建築物に挟まれた細い道のあちこちは、15世紀、ルネッサンスの頃に造られたという石畳だ。すべすべにすり減った表面は時代をおびて味わいがある。
 第2次世界大戦中はイタリアの支配下にあって連合軍の攻撃を受けたためか、その後の旧ユーゴスラヴィアの内戦によるものか、集合住宅の壁に銃弾の痕(あと)が生々しい。ここで初めて目にした光景に、その後ほとんどの町で出くわすことになる。
 夕刻130`南下して、6時過ぎ、トロギールのホテル・メディナ着。
 バスを降りて忘れ物に気づいた。ジャケットとハンチングだ。ザダールへ着く前の昼食レストランで、イスの後ろに置き忘れたに違いない。
 帽子は旅の前にスーパーダイエーで買った安物だし、ジャケットはこの旅でサヨナラしてもよいと思っていたから、まあよしとしよう。問題はポケットに何を入れていたか。あれこれ思い出そうとする。財布、パスポート……、幸い命の次に大切なものは今ここにある。日程表だけだった、ということにしよう、ポケットの中身は。悔しさよりも恥ずかしさ一杯で、添乗員には言わないことにした。
 …………
 全ての観光を終えた帰国前夜(10月10日)、置き忘れなきよう、バス車内を総ざらえした。と、
 「これどなたのですか?」
 若い女性があのジャケットとハンチングを両手で掲げているではないか。
 最前列の棚にあったとのこと。ポケットには日程表がちゃんと入っている。うれしいやらみっともないやら、頭を掻きながら感謝した。
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トロギール市内観光 (10月6日)
クロアチア
 オプションということで、希望者のみ観光することになった。1時間半ばかり。
 周りを城壁に囲まれた小さな島がこの町という。本土とは橋が繋いでいる。1997年に世界遺産に登録された。
 トロギール観光の目玉といえる聖ロヴロ大聖堂を、時間に追い立てられずに内覧できた。12世紀末から15世紀にかけて建てられたこの大聖堂は、教会部分がロマネスク様式で、鐘楼の2階部分からはヴェネチア風のゴシック様式という。「この調和が見事なのです」とガイドが言っていた。
 町自体は紀元前385年頃、ギリシャの植民都市として建設された。現存の直角に区画された道路網は、その頃できたものとか。
 中世以降、何代もにわたって建てられた公共・個人の建物、広場、城塞などが残る歴史都市だそうである。
 路地の奥まったところの空間は、例外なく物干しに利用されていた。美観を損なうものではなく、かえって納得の原風景で、生活の知恵が息づいているように見えた。他の旧市街でも同じような光景に度々出会った。
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スプリット市街、旧跡 (10月6日)
クロアチア
 ザグレブに次いでクロアチア第2の都市スプリットは、アドリア海沿岸でトロギールから南寄りに40`もない。トロギールを出て、添乗員の説明が終わるか終わらないうちに町に着いた。10時半。
 この旅でよく耳にした言葉、地中海気候=I 独特の青空、心地よい空気。カラッとして、季節的には晩夏といえる。海は塩分が濃いせいか、エメラルド・グリーンがまぶしい。水着の男女を何人も見かけたから、多分まだ泳げるのだろう。
 海岸通りを30分ほど散策して、お目当てのディオクレティアヌス宮殿に向かう。
 宮殿はスプリット旧市街の中心にある。ローマ皇帝ディオクレティアヌス(245-313)が退位を前にして建築し、没するまでの数年間を過ごされたという。
 一時は9000人を収容したといわれる小都市をなす宮殿全景は、西側、北側、東側のファサードからそれぞれ塔が突き出ており、南側は海に面している。
 建造には、地元の白い石灰岩や高品質の大理石が使われたとされ、大理石の大半は目と鼻の先にあるブラチ島の石切り場から持ってきたという。(ウソか本当か、米国ワシントンのホワイトハウスの大理石もブラチ島から運んだとか)。
 この建物を詳細見て回る。内部も中庭もほぼ原型のまま残されており、人が住んでいる。ローマに支配されていた3,4世紀頃を現在に持ってきたような、不思議な光景だった。
 全ての道はローマに通ずではないが、ヨーロッパ諸国を見てきて、ローマ帝国の歴史を知ると知らずでは旅の楽しさの広がりが違うと、つくづく感じている。
 古本市で塩野七生の「ローマ人の物語」を6冊まで買い求めたのはいつだったか。2冊目まで読んで、中断したままだ。そこまででもディオクレティアヌスはチラリと登場したのではなかったかな。
 「帰ったら続きを読まなければ」、いつもの意欲倒れにならないように。
 去年の6月、エジプトへ行った。ナイルの河口アレキサンドリアはクレオパトラで有名だ。そこでポンペイの柱というのを見た。確かディオクレティアヌス皇帝が関係していたはずだ。かすかな記憶を頼りにその時の紀行文を辿って見た。ある! 自信がわいた。
 それにしてもローマ皇帝の権力たるや、計り知れない。遠くエジプトまで傘下に置き、文化を広げている。1700年も前に。
 参考までに、エジプト紀行のその部分を転載する。
 …………
 「ポンペイ」の名で知られるこの柱は、西暦293年に、ローマ皇帝ディオクレティアヌスによって建立された。高さ27b、胴回り8b、アスワンの赤色花崗岩でできているという。
 神殿セラペウムに付属する図書館の柱の1本で、当時は同様の柱が400本あったとか。運搬にナイル川が重要な役割を果たしたとはいえ、エジプト南端のアスワンから北端のここまで、どのようにして?
 西暦391年、キリスト教徒によって神殿が破壊され、図書館を偲ぶものとしてはこの柱1本だけが残っている。
 地下の図書館跡が生々しく、印象に残った。通り道に並ぶ発掘品も見応えがあった。
 …………
 ローマ時代のディオクレティアヌス宮殿は別格としよう。
 歩きながらガイドは時々左右の建築物を指差して、中世から現代へ続く建物の変遷の具体例を話した。チプリアノ・デ・チプリアニス宮殿(ロマネスク様式、14世紀)、旧市庁舎(ゴシック様式、15世紀)、ミレシ宮殿(バロック様式、18世紀)、プロクラティヴ(ネオ・ルネッサンス、19世紀)、旧硫黄温泉(アールヌーヴォー、20世紀初頭)。
 自由時間を利用して、幾つかの路地を歩いたり、陽光をまともに受ける海岸の景色を楽しんだり。
 広場で子供たちの大掛かりな催し真っ盛りだった。舞台に立つ数10人も小学生の子供たちなら、数百人に及ぶ大勢の観衆も子供たちと親たち。
 舞台では幾つかのグループに分かれて歌合戦中。あめ玉で片方のほっぺたをふくらませて、大声で歌いまくる。声援合戦も大賑わい。
 宮殿の静けさとは対照的で、また、その無邪気な華やぎようは、10数年前までの旧ユーゴスラヴィア内戦の災厄とは無縁の世界だった。
 2時過ぎてスプリットをあとにする。点在する小島や湾の対岸が濃紺の海に栄(は)える美景に再び目を奪われながら、200`南のドブロヴニクへ。反対側の車窓は、オリーブ、アーモンド、ヒース、イチジクの木々が行き過ぎる。
 バチン湖という人造湖のところでトイレ休憩&写真タイム。歴史の町とはひと味違った自然の眺めだった。
朗読(18:39) on
<往路、ブレッド湖、ポストイナ鍾乳洞 ドブロヴニク>
まえおき
往路、ブレッド湖(S)、
ポストイナ鍾乳洞(S)
プリトヴィッツェ湖群(C)
ザダール(C)、トロギール(C)、
スプリット(C)
リュブリャーナ(S)
ドブロクニク(C) アラカルト1
コトル(M)、モスタル(B) アラカルト2
(S):スロヴェニア、(C):クロアチア、
(M):モンテネグロ、(B):ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
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