熟睡していた。モーニングコールで6時起床、6時半朝食。
部屋に戻っていつものとおりラジオ体操。旅行中の日課になっている。
頭の中で奏でているピアノ伴奏に合わせて、ラジオ第一。ぼくが先導して妻があわせる。続いて首と足腰の体操。仕上げはラジオ第二。
屈伸で指先が楽に地面をなでた頃が懐かしいとか、イナバウアーとまではいかないが、目がまともに空を仰げたのになあとか、もどかしさがないわけではないが、10分程度の体のほぐしが、一日の軽快な行動の大いなる助けになっている。……この簡便でさわやかな健康法が家ではやったりやらなかったり。帰ったら続けることにする。 |
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どなたに感謝すべきか、今日もこれからも、快晴、穏やかで風なし。これが地中海気候!
8時15分、ツアー・ハイライトの一つ、ドブロヴニク市内半日観光に出発した。 |
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クロアチア最南端でアドリア海に面した小さな町だ。到着したルジャ広場と街並みは海沿いで、棕櫚(しゅろ)なのだろうか、並木も温暖地を呈している。
レンガ色鮮やかな瓦屋根の家々がぎっしり並んでいる通りをぶらぶらしたり、何隻もヨットが浮かぶまぶしい海を眺めたり、自由時間を楽しむ。 |
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そのあとメインストリートのプラツァ通りを歩いてピレ門へ。市街の西側にあたる。城門をくぐって、1周約2`の城壁をぐるり巡った。万里の長城の坂道を上っている感じで、いわば本丸を目指している。大いなる起伏に顔を赤くしながら上りつめた。
城壁そのものもさることながら、途中途中、そこから見渡せる周囲の景観が見事。レンガ色の屋根屋根、切り立った岩壁とアドリア海……、シャッターを押しまくった。 |
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フランス語で「4」をquatreといい、「44」をquarante-quatreという。String
Quartetは弦楽四重奏曲の英語表記だ。英語の「quarantine」が検疫所であることは、有人宇宙ロケットが帰還したときの常套語で、よく知られている。それが「40」と関係あることはうすうす察していたが。
旧市街の起伏に満ちた城壁を上っている途中で一行が立ち止まる。ガイドの説明をS添乗員が通訳しながら、ドブロヴニク港から広がる湾の左側を指差す。
「向こうの岸辺に見える細長い建物、わかりますか? あれがクァランティーナ(Quarantina)といいまして、昔の検疫所です」 |
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14世紀頃アドリア海東方でペストがはやったそうだ。その感染を防ぐため、海外から来た船を遠い沿岸に留め置き、船員たちは全てその細長い建物に、潜伏期間と見なされる40日間隔離された。ここから40日をあらわすイタリア語『クァランティーナ』が、「検疫」および「検疫所」の語源になり、建物がその旧跡という。ヨーロッパでは一番古いそうだ。 |
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もう一つ、クロアチアの国名について。
正式名称はクロアチア語で、Republika Hrvatska。「フルヴァツカ」と表記・発音する。
なぜか英語では「Republic of Croatia」で、発音はクロエイシアだ。日本語では「クロアチア」といっている。
HrvatskaがなぜCroatia? その辺の事情をもっと掘り下げたいところだが、とりあえずは素通りすることにした。 |
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昼食後、南へ200キロ走り、モンテネグロのコトルへ。
1時間ほど旧市街を見物して、ドブロヴニクへとんぼ返りする。
行き帰りは当然国境越えがあって、パスポートを求められたり求められなかったり。 |
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コトル見物は次章に譲るとして、帰りは湾を船で横断して近道した。おかげで夕刻にはドブロヴニクに着いた。
アドリア海の真珠と呼ばれるドブロヴニクの自慢は真昼の景色だけではない。夜の美景は見過ごしたが、暮れなずむ山水の風景も捨てたものではなかった。 |
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朗読(08:07) on |