トプカプ宮殿は前章(Part5)で書いた。他のトルコ観光地の印象をここで記す。「某日@某所」の写真集にコメントしたのと重複するところもあるが、ご容赦願いたい。 |
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トロイの遺跡
6月9日(月)、イスタンブールからトロイまでは遠い。バスは350`を6時間半かけて走った。マルマラ海に沿って西へ西へ。ダーダネルス海峡をカーフェリーで渡って、エーゲ海沿いを南へさらに100`ほど。午後3時を過ぎて遺跡に到着した。
紀元前800年代にホメロスによって書かれたというギリシャの英雄叙事詩「イーリアス」は、「トロイの木馬」として子供の絵本でも映画でも有名。物語はその400年前にさかのぼり、トロイ戦争が舞台のピークになっている。
19世紀になって、この壮大な伝説絵巻を事実と信じて発掘を開始したのがドイツのハインリッヒ・シュリーマンで、1870年代にヒサルルクの丘(Hisarliktepe)の発掘までたどりついた。
栄枯盛衰を繰り返したトロイは、紀元前3000年頃から三千年にわたって9都市が入れ替わったとされており、シュリーマンが発掘に成功したのは第2市の時代(紀元前2500-2200年)と云われている。ここから「プリアモスの財宝」をはじめ、膨大な金銀財宝が出た。
シュリーマンの死後、ドイツの考古学者が第7市(紀元前1200年頃)の層から要塞を発見、「トロイの木馬」の舞台と断定された。
とガイドのナジ氏、地層の図を指しながらここまで話して、ニヤッとした。
「発掘されたとして世に伝わっている膨大な宝物は実際の10分の1というのが定説です。トルコではもっぱら『シュリーマンは大泥棒』と呼ばれています。作業を手伝った土地の者も相当にくすねたと……」
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「トロイの木馬」は二度映画で見た。一度目はイタリアの美女ロッサナ・ボデスタ主演で、監督がロバート・ワイズだった。ワイズはその後「私は死にたくない」「ウエストサイド物語」「サウンド・オブ・ミュージック」を作った巨匠。
ぼくは高校時代、西洋史の勉強にかこつけて新宮の映画館で見た……。
もう一本は最近の話。ブラッド・ピット主演で、監督はウォルフガング・ペーターゼン。この監督の作品では「ザ・シークレット・サービス」「エアフォース・ワン」「パーフェクト・ストーム」が記憶にある。いずれも肩のこらない娯楽物だった。
ペーターゼンの「トロイ」は3時間近くの長編映画だ。ぼくはワイズの作品の方が印象に残っている。ロッサナ・ボデスタ! |
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エフェスの遺跡
6月10日(火)、トロイの近くアイワルクという町からエーゲ海に沿って南へ250`を4時間で走り、正午にエフェスの遺跡着。
トルコでも指折りの古代遺跡群という。古(いにしえ)の景観が広大な土地に果てしなく展開していた。
紀元前7世紀から120年かけて建築されたというアルテミス神殿(Artemis Tapnagi)跡。そこに高さ19b、直径1.2bの円柱127本のうちわずか1本が残っている。
ローマ時代の体育館、聖母マリアのついの住み家≠ニいい伝えられている『聖母マリアの家』(Meryam
Ana Evi)、共同便所跡……、いずれも十分に原形をとどめていた。
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昨年フランスのヴェルサイユ宮殿へ行ったとき、17世紀のトイレ事情の哀れを聞いた。その1600年も前にこのような公衆トイレが!(写真左側)
大劇場は2万4千人を収容できたとか。4世紀頃には剣士対猛獣の戦いが行われたという。(写真右側) |
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パムッカレの石灰棚
200`西のエフェスから前日夕刻到着していた。
6月11日(水)、8時半にホテルを発って、見物に向かう。
パムッカレは、炭酸カルシウムを含んだ天然温泉による石灰棚だ。くつ袋とタオルを用意した。
たしかに体温程度の温かさで、心配したほど滑ることはない。「なぜ泳ぐところがないのか?」 開発ラッシュで温泉が枯れつつあり、プールの池は閉鎖したとか。他にもあちこちが進入禁止になっていた。
それでも観光客は大勢いる。全員裸足で、ズボンは膝までたくし上げて、人肌の湯の感触を楽しんでいる。
「ロシアの美女たちが大勢来ているはずです。目の保養になりますよ!」
ガイドのナジ氏が予告していたとおりだった。若い女性たちがビキニ姿で、日光浴を謳歌していた。
パムッカレ(Pamukkale)は、トルコ語で「錦の城」の意だそうである。全体を見回して、そのようにも思えた。
石灰棚のぬるま湯が広がる景観は、異次元の世界とも感じる不思議な趣きで、目の保養だけでなく、結構楽しいひとときだった。
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カッパドキアの奇岩群
前日はパムッカレから410`東に走り、コンヤという中世に繁栄した町に泊まった。
6月12日(木)、早朝さらに東へ、230`を3時間かけてカッパドキアに着く。
この地はアナトリア高原にあって、トルコの東西でも南北でも、ちょうどど真ん中にあたり、標高1200b。
その奇岩群というか、キノコ状の岩峰。太古からエルジェス山の火山活動で堆積した溶岩や火山灰が長い年月をかけて浸食され、このようになったという。眼前に広がる景色がまだ現在進行形というから…………
翌13日(金)の3時頃まで、デジカメの便利さとメモリーの大容量に助けられて、撮りも撮ったり……。その写真の数々は「某日@某所」に譲るとして、ここは必要最小限にとどめる。
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ウチヒサール(Uchisar、鳩ノ巣)(カッパドキア)
数多くの穴が開いている巨大な一枚岩が、あちらにもこちらにも見える。
住民は昔から鳩の糞を集め、ブドウ畑の肥料として役立てていたという。火山性で土地がやせているカッパドキアならではの知恵なのだ。
いまもその名残(なごり)に鳩が群がっている様子がうかがえた。
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カイマクルの地下都市(Kaymakli Yeralti Sehri)
(カッパドキア) |
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岩窟住居ともいっている。蟻の巣のように地下何階にも延びている地下都市だ。
紀元前400年頃からできたらしいが、発祥・歴史に謎が多く、一時はアラブ人から逃れたキリスト教徒が住んだこともあるという。迷路に次ぐ迷路、ここで約2万人が生活したというから………… |
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ギョレメ野外博物館(カッパドキア) |
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カッパドキアの奇岩群を利用して展開された歴史遺産である。
4世紀頃からキリスト教徒が住みはじめ、岩の中に数多くの岩窟教会を造って、信仰を守り続けたという。11世紀に建てられたユランル・キリセ(蛇の教会)、カランルク・キリセ(暗闇の教会)に入る。
保存状態がよく、内部装飾はみごとで、特色のある壁画が描かれていた。とくに後者は、フレスコ画がきれいに残っていた。キリスト像、受胎告知、洗礼、最期の晩餐……(撮影禁止)。
ギリシャ正教徒の教会だったようで、第一次大戦の際、彼らはカトリック教徒によって追放された。その後、トルコとギリシャの仲がいまもって良くないとか。 |
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ゼルベ野外博物館(カッパドキア) |
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奇観のキノコ岩の多い地域だが、ここにもウズムル・キリセ(ぶどうの教会)といった初期キリスト教時代の教会がある。同時に多くの住居も。
キリスト教徒が去ったあともトルコ人たちが住みついて、洞窟住居を使っていたというが、今は野外博物館となっている。
壮快な天気のもと、カッパドキア見納めとばかり、奇景・奇観にシャッターを押し続けた。帰ってからの整理の煩わしさを少しは気にしながら。 |
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トゥズ湖
カッパドキアからアンカラまで310`、約5時間。その途中、トゥズという塩湖があった。遠くに見えはじめたとき、「海か湖のようだが岸辺が白く広がっている……??」 近づくにつれてさらに疑問と驚きがいや増した。
湖畔へ歩いて、粒塩とたわむれた。売店で買った塩「Salt Lake」を、いま自宅でスイカにまぶしている。
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ブルーモスク(イスタンブール)
アンカラから寝台特急「Ankara Express」で、翌早朝イスタンブール駅着。6月14日(土)。
この駅は市のアジア側で、ハイダルパシャ駅という。ヨーロッパ側で「Orient express」の終点になっているスィルケジ駅は、ボスポラス海峡の対岸にある。
そのままバスでブルーモスクへ向かう。
高さ43b、直径23.5bの巨大ドームの周囲に6本のミナレット(尖塔)を持つイスラム教寺院である。トルコ帝国が栄華を誇った17世紀の初めに、スルタン・アフメットによって建てられ、オスマン・トルコ建築の極みといわれる。
正式名はスルタン・アフメット・ジャーミィ(Sultanahmet Camii)という。内壁を飾る2万枚以上のイズニック・タイルは青を基調としたもので、様々な紋様の組み合わせだが、連続した美しさがある。そのため、このジャーミィはブルーモスク≠フ愛称で親しまれている。
すごい観光客の数! ぼくたちは早くてよかったものの、くつを脱いで上がる入口に近づいたら、後ろは目の届かないところまで参詣道が埋め尽くされていた。
内部はいうまでもなく荘厳にして豪華。写真撮影は許されているが、広すぎて、景観・雰囲気をどのように……。どこに焦点を合わせてもうまくいくはずがなかった。
パリのノートルダム寺院に代表される大聖堂の荘重さとは少し違う素朴な空気を感じた。昭和初めに伊東忠太の造った築地本願寺が頭に浮かんだ。
タイルの何枚かが泥棒に持ち去られたといい、その部分が無残に欠けていた。
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ブルーモスク正面から公園と道路を隔てたところにあるアヤソフィア博物館(Ayasofya
Muzesi)は、外観だけ写真撮影した。
往時ギリシャ正教の大本山として君臨しながらも、後にイスラム寺院に姿を変えた、イスタンブールを象徴する建物だそうである。内部は多数のモザイク画が残っており、ビザンツ文化を味わえるらしい……、となると入りたくなるのが人情だが、ままならず。案内書を購入したので、それで我慢する。 |
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トルコの国旗 |
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国旗をこれほど見せつけられた国はない。赤地に白の星と三日月を配している。
その意味するところは諸説あって断定できないようだ。
『救国の伝説からとられた三日月と星は、民族の進歩と国家の独立を象徴し、赤色はオスマン朝の色とされている』との説もありますが、と前置きして、ナジ氏はこう言った。
「最も信じられている説として、トルコ革命の指導者で初代大統領ケマル・アタテュルクが、トルコ革命での勝利の夜に戦場を歩いていて、サカルヤの岩山で流された血の海に、三日月と星が映って見えた……その状景を象徴しているとされています」。
イスタンブールのどこでも、トルコのどの観光地でもはためいている。
一方で、三日月と星の組み合わせがイスラムの象徴といわれ、また、三日月はギリシャ神話の狩猟の女神アルテミスのシンボルで、星は聖母マリアを表すとも云われている。国民それぞれが都合のいい解釈をしているのだろうか。
Euro2008(欧州サッカー選手権)で、トルコ代表が準決勝まで勝ち進んだ。真偽定かでないが、200万本の国旗が売れたそうだ。日本でも試合の模様がテレビ放映された。あの熱狂と、国旗の乱舞が眼に浮かぶ。
そのEuro2008について触れざるを得ない。スイスの競技場に居合わせたわけではないが、トルコ国内でトルコ国民が予想もしなかった快挙に巡り合った。Part7で詳しく書く。
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朗読(22'23") on |