1.食あたりか? |
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6月8日(日)、イスタンブール空港でトルコ入国審査に並んだとき、数人が腹痛を訴え、そのうち一人が病院へ運ばれた。
そのときぼくはなにも感じなかったが、妻は思い当たるような顔をして、「機内食の○○じゃない?」と。
空港に出迎えたガイドのナジ氏が冒頭挨拶で、「生野菜はなるべく食べないように。水道水で水洗いしていますので」。
ある観光誌によれば、「ミネラルウォーターでもあまり飲まないように。飲み過ぎると、下痢になる恐れがある」。
何をか云わんやだ。翌日、イスタンブールからトロイへの長距離移動の途中で、妻がおかしくなった。小一時間カーフェリーに揺られたこともあったので、疲れと船酔い≠ニ、そのときは決めつけた。
翌日彼女は元気になったが、トルコ最終日のイスタンブールでも不調を訴え、お目当てのブルーモスクは見ず仕舞いになった。
ぼくはトルコ3日目のパムッカレから下痢に悩まされた。それからずっと、エジプトでの最終日まで、心配は尽きなかった。
…………
大腸ガンの手術をして2年たっている。S状結腸部の切除で、なんとか事なきを得た。その後の定期検査でも異常はない。ただ、手術による体の変調を免れることはできなかった。一日数回はトイレに通うようになった。自然現象とはいえ煩わしい。
が、場合によってはどうなっていたことか。安堵もし、自宅では日常生活の一部になっている。週2回通っているテニススクールも普段どおりに戻った。問題は旅行。
あれからしばらくは国内近場の旅行もひかえた。半年ほどして、はじめて旅に出た。「芭蕉講読会」の仲間と小夜の中山≠ヨの日帰りバス旅行だ。幹事にその旨伝えたが、迷惑をかけずにすんだ。
妻と温泉宿連泊の旅を数回経験した頃、というと術後約1年半だが、『フランス11日間』のツアーに参加することにした。体力を見極めること、もう一度ヨーロッパを見たい、まとまった紀行文をものしたい……、理由はいろいろある。
自身驚いたことに、なんの不調もなく、ほぼ快適な旅で、最大の心配事は杞憂に終わった。帰って2ヶ月間は紀行文に専念して、われながら充実した日々を過ごした。
それから半年たって、『エジプト・トルコ13日間』のツアーである。
ムリかなと思いつつも、今をおいてない旅先≠フ考えを優先した。妻が簡単に同意したのは助かった。珍しく説明会にも出て、トイレ休憩については十分に確かめた。食事や水のことも。なんとかなりそうだ!
…………
さて、とくにトルコ。6月11日(水)、石灰棚のパムッカレから怪しくなった。
水道水は、歯ブラシを湿す水に至るまで気をつけているのに。食事があわないのか? 朝のジュースの水は? 生野菜には手をつけていない。酒もほどほどにしている。疲れも少なからず関係しているのかなあ……。
疑心暗鬼がつのって、海外旅行では楽しいはずのアメリカン・ブレックファーストも、味気ないものになってしまった。昼食・夕食も、とくに口にあった料理は思い出さない。トルコは世界三大料理とかで、期待はあったのだが。
トルコの宿は四つ星・五つ星ホテル・オンパレードだったが、そんなこんなでありがたみが薄れた。
文句のつけようのない観光内容を思えば、これ、本当になんとかならないか。下痢や体調不良に悩まされた半数以上の仲間とともに、嘆いたことであった。
観光客としてはトイレのチップにしか使わないであろう50クルシュ硬貨(約45円)には頻繁にお世話になった(エジプトでは50ピアストル硬貨=10円)。
エジプトも含めて、観光地、ホテル、レストラン、カフェ、みやげ物屋、サービス・エリア……、トイレ事情には非常に詳しくなったことを申し添える。
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2.トプカプ宮殿、山田寅次郎、トルコ軍艦の遭難 |
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三つの判じ物を理解いただけるだろうか? イスタンブールでは、トプカプ宮殿に関係することに触れたい。 |
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山田寅次郎? 車寅次郎なら……柴又の寅さん。 |
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トルコの軍艦エルトゥールル号? 昔、故郷近くの和歌山県串本町大島沖合いで難破したトルコの船について聞いたことはあるが、名前までは……。 |
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このツアー参加を決めてからトプカプ宮殿を調べたら、「山田寅次郎が献上した甲冑が展示されている…………」。 |
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トプカプ宮殿への途中、ガイドのナジ氏がその日(6月8日)の朝刊を見せて、「私たちはご恩を忘れていません」。
第8面の大半を占める記事には記念塔をバックにトルコ大統領の写真がある。目が覚めた。
明治23年(1890)に、トルコの軍艦(乗員656人)が紀伊半島南端の沖合いで遭難し、大半が溺死した。が、69人が地元民に助けられ、明治天皇の命で、軍艦2隻で本国へ送り届けられた。
その追悼式典が今年も遭難現場に近い紀伊大島の記念塔の所で行われ、アブドゥラー・ギュル・トルコ大統領が感謝を込めて出席した。そんなレポートらしい。 |
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旅を終えて振り返ると、標題の一つ一つがツナガッテイタ! |
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トプカプ宮殿中庭の左奥にある宝物庫の武具展示室に日本の鎧、甲、太刀がガラスケースに収まっていた。それらは全て明治25年(1892)に、時の皇帝アブドゥル・ハミト2世に献上したものである(との説明書き)。
これを行ったのが山田寅次郎で、彼はそのとき日本人として初めてイスタンブールを訪れ、トルコを親日国にする功績を残した。そのきっかけは2年前(1890年)に起きたトルコの軍艦エルトゥールルの遭難事件だった。
エルトゥールル号は、ハミト皇帝が日本に派遣した特使一行を乗せており、帰路の航海中暴風雨(台風)に遭い、和歌山県串本町沖合いの紀伊大島樫野崎灯台付近の岩礁に衝突難破した。
587人が溺死し、残りの69人が、大島住民総出の救助活動と介抱によって生還できた。住民は、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにも拘わらず、浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、献身的に生存者たちの回復に努めたという。
知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示したと伝えられる。日本海軍の2隻により、生存者たちは翌年初めにオスマン帝国の首都イスタンブールに届けられた。両国の国交がはじまるはるか以前の話である。(Wikipediaを参考)
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寅次郎は当時24歳で、事件を知って、一民間人として全国的に義捐金を集めるキャンペーンを行い、それを携えて、4ヶ月の航海でイスタンブールに上陸した。
文部大臣に義捐金を手渡し、皇帝ハミト2世に拝謁して明珍作の鎧甲、豊臣秀頼所持とされる太刀、等を献上した。
トプカプ宮殿の宝物庫に展示されているのは、そのときの品々だった。 |
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以降彼は、皇帝に請われて約20年間国賓待遇でトルコに滞在し、両国の友好親善に尽くした。
その間に日露戦争が始まり、寅次郎は自身の意思でロシア・バルチック艦隊のボスポラス海峡通過を監視し続けた。擬装して海峡を突破しようとするその瞬間を見逃さず、母国へ通報。日本勝利の陰の功労者となる。ロシア嫌いのトルコからも快哉を得た。
帰国後も、1925年には日土貿易協会を設立し、トルコとの文化交流に努めた。
1931年に招かれてトルコの新しい首都アンカラを訪れ、かつて日本語を教えた士官で時の大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク(トルコ共和国建国の父)と再会する。昭和32年(1957)、91歳で死去。 |
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朗読(15'17") on |