Part0 あらまし Part3 南紀三輪崎 Part6 那智勝浦
Part1 熊野三山1 Part4 太地くじら館 Part7 ホテル浦島
Part2 熊野三山2 Part5 串本海中公園 Part8 駅、鉄道、バス
Part5 串本海中公園
 6日目(5月15日)は串本海中公園へ行った。
 半潜水型海中観光船「ステラマリス」に乗って、30分ほど串本の海底を楽しむ。
 「海中展望台」ではたっぷり時間をかけて、珊瑚礁や多種多様の魚だの、海中の自然に見とれる。
 「水族館」で、予期しない展示に出会った。エルトゥールル号! その重要な遺物が近年発見され、陸揚げされてここにある。
串本無量寺
 海中公園へのバス待ち時間を利用して訪れた。
 虎関禅師の開山による臨済宗東福寺派の古刹という。
 宝永四年(1707)に大津波で流出したのを、天明六年(1786)に本山の東福寺から派遣された愚海が再建したという。
 愚海と円山応挙が京都で親しい間柄だったそうで、応挙は本堂の完成祝いに自作の障壁画12点を弟子の長沢芦雪に託した。芦雪はこの地に1年あまり滞在し、襖絵などの作品を残した。それらを展示しているのが「応挙芦雪館」で、串本無量寺が俗に「絵の寺」といわれる所以。
 時間がなく、入れず仕舞いは悔いが残る。
串本無量寺、その他の写真
串本海中公園
「ステラマリス号」で海中散歩
海中展望台はおとぎの国模様だった
水族館
 水族館はお座なりに見て歩いたが、出口の所に予期しない展示があった。「エルトゥールル号大鍋発掘物語」。串本海中公園センターのパンフレットはこう述べている。
 「オスマントルコの軍艦『エルトゥールル号』は、明治二十三年(1890)公式親善のために来日しましたが、帰国の途中で台風に遭い、串本町紀伊大島沖で沈没しました。
 この遭難で乗員656名のほとんどが命を落としましたが、島民の懸命な救助により69名の命が救われました。また、時の明治政府も遭難者の救護と帰国に尽力を注ぎ、これらの活動がトルコの人々に深い感銘を与え、日本とトルコの友好の礎となりました。
 2007年トルコ海底考古学研究所は、今なお海中に沈むエルトゥールル号の遺品回収のために発掘プロジェクトを立ち上げ、2009年1月ついに海中遺品のシンボルともなっていた大鍋の引き揚げに成功しました。
 今回、この大鍋をお借りし、展示の運びとなりました。数々の運命をくぐってきた大鍋をぜひご覧いただき、エルトゥールル号の悲運の物語を感じ取っていただければ幸いです。
 以下は私ごと。
 昨年(2008年)6月にエジプト・トルコに旅した。トルコ・イスタンブールで、トプカプ宮殿への途中、現地ガイドのナジ氏がその日(6月8日)の朝刊を見せて、「私たちはご恩を忘れていません」と言った。
 第8面の大半を占める記事には記念塔をバックにトルコ大統領の写真がある。目が覚めた。
 明治23年(1890)に、トルコの軍艦(乗員656人)が紀伊半島南端の沖合いで遭難し、大半が溺死した。が、69人が地元民に助けられ、明治天皇の命で、軍艦2隻で本国へ送り届けられた。
 その追悼式典が今年も遭難現場に近い紀伊大島の記念塔の所で行われ、アブドゥラー・ギュル・トルコ大統領が感謝を込めて出席した。そんなレポートらしい…………
雑記帳第44話「エジプト・トルコ2008」参照
 それにしても今回この旅の間に、なぜ紀伊大島へ行かなかったのか。自身何度も首を傾げ、地団駄を踏んでいる。
 トルコへの旅を終えた昨年6月から強く意図していたのに、今回は願ってもない近在6泊なのに、串本に行って比較的時間にゆとりもあったのに、………。
 潮岬は見飽きるほど行っているからいいとしても、幼い頃を振り返っても未だ大島は訪れた覚えがない。
 次回の南紀熊野では、両親の墓参の次に、必ず果たすべきことだ。
串本海中公園、その他の写真   
串本町地図(串本、潮岬、紀伊大島)
朗読(7:32) on
<4.太地くじら館 6.那智勝浦>
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