12.倒れる

 ヒッチナー社・ミノセイ副社長ご夫妻を成田空港で迎えた。
 お二人は鋳鋼事業部が作成したスケジュールで行動し、その滞在七日間のすべてをぼくが案内することになっている。

 到着二日目は名古屋へ行って、速玉本社で箕島(みのしま)社長、大島副社長をはじめ、関係役員と会った。速玉幹部も、ユニークな事業としてロストワックスに注目しているから、製法・用途・市場……、ミノセイ氏が思わず身を乗り出すほどみなさんよくご存じだ。
 話がどんどんはずんで、ミノセイ氏自身満足の笑みの中で日本に来た意義をかみしめたようだ。彼はぼくの通訳のつたなさを心得ているから、恥をかかせることなくうまくやってくれた。ぼくの体調は外見上わからないから、幹部はたのもしそうに肩をたたいたり、握手をしてくれた。

 三日目は研究所と精密鋳造の作業現場を訪れたあと、夕刻以降は箱根の温泉でゆったりしてもらう。いつぞやクキ副社長を案内した旅館をご夫婦とも気に入ってくれた。できるだけ邪魔しないようにと、こちらも自分でくつろぐことにした。

 四日目の午後は、翌日の講演本番を控えてリハーサルだ。東京支社の大会議室に関係者が集まった。演題は「ロストワックス製品とマーケティングのあり方」で、すでにそう張り紙してある。
 南部(みなべ)取締役・調査部長、白浜HIAL(ハイアル)専務、木本(きのもと)技術部長、そして本社企画室で海外戦略を担当している印南(いなみ)もいる。
 木本は当初通訳を引き受ける手はずになっていたようだが、ぼくにその役目をゆずった形だ。いつもの鷹揚な笑顔で、
「大変だね。いつでもピンチヒッター引き受けるから」
 と安心させてくれた。それがすぐに現実となる。

 リハーサルがはじまったのはいいが、通訳のぼくが要所要所で言葉を失い立ち往生する。ヒッチナー社内での時よりひどい。彼の英語が分からないのではない。彼がなにを話したのか、そこのところがぼくの頭で真っ白けの空白なのだ。
 木本がすぐに気を利かせて、交代してくれた。ぼくはすっかりしょげかえるし、出席者一同キツネにつままれたようで、失望を隠さなかった。ミノセイ副社長だけが
You have overworked these days. Better to sleep well tonight.」(過労ですよ。今夜はゆっくり休みなさい)
 といたわってくれた。

 翌朝、都内ホテルの一室で、目覚めると左半身がなえていた。左は腕も足も動かせないのだ。思いが通じない。
 一〇時に東京支社でミノセイ副社長の講演がはじまることになっている。
 起き上がるのに極度の窮屈を感じ、わけもわからずいらだったまま、ベッドを降りようとして床に転げ落ちた。なぜ? なぜだ?!

 (しび)れがひどい。目の前がぐるぐる回っている。

 どうにか右片足立ちして、右手でタオルをぬらし顔をぬぐう。どのように背広を着、ズボンをはいたのか。ネクタイは結べるはずがない。
 廊下の壁を伝ってなんとかエレベーターに乗る。一階ロビーから玄関に横付けされているタクシーまでフロント従業員のお世話になる。
「大丈夫ですか? 救急車を呼んだほうがよいのでは?」
 しきりに気遣ってくれるが、ぼくは仕事のことで頭がいっぱいだ。

 東京支社入口に着いてタクシーをぎこちなく降りようとすると、たまたま海外協力部の仲間と目が合う。彼はしばらく絶句したままぼくを見つめ、あわてて同僚を呼んで二人の肩でぼくを支え、六階の鋳鋼販売部に届けてくれた。

 しばらくして救急車が駆けつけ、ソファーにく≠フ字で横たわっているぼくを担架に乗せ、近くの慈恵医大病院に運ぶ。
 その間閉じた(まなこ)の奥は、暴風がびゅんびゅん渦巻いている。ひたすら治まってくれることを願いつつ、ミノセイ副社長のことが何度も頭をかすめる。周囲で話し声が聞こえるが、目を開けたくない。エビのように丸まった姿勢で、時だけが過ぎてゆく。脳梗塞だった。
 血圧は二〇〇をはるかに超え、医師の診断は『高血圧、脳梗塞』。思えば昨年秋からの症状のすべてが、一丸となってこの成人病に向かっていたのだ。

 入院の翌朝、睡眠薬の助けで目覚めの気分は悪くない。が現実は、頭のてっぺんからつま先まで、左半身がきれいになえて言うことがきかない。ベッドを坐位に動かして左手を見つめる。手のひらに涙が落ちた。
 これで終わりか。妻と子供たちはどうなるのだろう。何とかせねば、……負けてたまるか。

 医師が来て言う。
「病気はもう過去のことです。いまからリハビリ! 人生をこのまま終わりたくないでしょう? さあ!」
 車椅子で看護師に誘導され、平行棒のような器具に両手を置いて、片足引きずってのよちよち歩きから再生訓練を開始。

 入院三日目は花冷えの合い間で、窓に陽光が射している。副社長ご夫妻は翌日の帰国を前にして見舞ってくれた。講演は木本の助けで順調に果たせたらしい。
 お二人の微笑みは本物だ。いたわりと激励の心でぼくの失意を勇気に変えてくれた。
「米国に戻ったら、ミルフォードへ来てアルバムの整理を手伝ってほしい」

 それがありえないことはお互いよくわかったいた。

 病室で一週間経った。取締役の南部(みなべ)調査部長が部下にどでかい花束をもたせて見舞ってくれた。包容力のある笑顔がバツの悪さと緊張を解きほぐしてくれる。容態を尋ねて一息したあと、口頭辞令を伝えた。
「回復したらぼくのところに来ることになっているから」

 ペンステート大学留学中にお会いした、当時企画部長で現在副社長の有田も単身そっとお越しになった。優しいまなざしで、
「無理せず良くなってくれ。何でも相談に乗るよ」
 顔を近づけて激励してくれた。

 …………
 病院に一ヶ月入院してリハビリ、あと二ヶ月は葛飾区の妻の里で療養とリハビリ。ニューヨークのHSA出向は強制的に解かれた。

 その時、妻・椿(つばき)は子供たち三人とニューヨーク市郊外グリニッチの自宅にいる。
 会社からどのように伝わったのだろうか。妻がどのように切り盛りしたのだろうか。総務担当の那智が親身に助けてくれたおかげで、半年後になんとか引き上げることができた。もうすぐ高校三年になる長女を卒業までもう一年現地に残したままで。妻はこう振り返る。

 一九八三〜八五年、夫の転勤で米国に二年半滞在しました。
 言葉に不自由しながら、コネチカット州グリニッチという町で子供たちの現地教育に専念しました。現地で運転免許を取り、子供たちの学校送り迎え、地域社会との接触に努めました。仕方ありませんが、夫は家庭にほとんどノータッチでした。
 一九八五年春、夫が日本出張中に倒れたため、その半年後に戦災引揚者同様の帰国になってしまいました。

 米国滞在中、
・ 言葉がわからず、人も知りませんから、苦労しなかったはずはないのですが、何も思い出せません。夢中だったからでしょう。むしろ懐かしいです。
・ 子供たちは三人ともうまく現地に溶け込んでくれたようで、助かりました。当初から学業を苦にすることなく、言葉のハンデを抱えながらいつの間にかそれぞれ友だちもでき、余計な心配を取り払ってくれました。
・ 日本人の皆さまにはずいぶんお世話になりました。「恩返しは次に来る人にしなさい」と言われたことを覚えています。
・ 引き上げの一切合切で会社の那智さんが力になってくれました。おかげで何のトラブルもなく帰国できました。
・ 高校三年を前にした長女を現地に残すことにしました。彼女は卒業まで学校の先生宅に下宿させていただきました。美術担当の女教師です。長女と共にご恩は忘れません。

 ぼくは入院後三ヶ月たって職場復帰する。左半身はまだ思ったように言うことを聞かない。
 松葉杖で東京支社六階の調査部へ行くと、部長席の隣に新しいぼくの机があった。
「こっちのことは何も分からんだろうから、しばらく自由に勉強しろ」
 南部は部員六人に紹介しながら、こう指示した。

 部長の実力は音に聞こえている。千客万来とまではいかないが、社内外を問わず来客が多い。
 よほどの客でない限りぼくを同席させる。各部門の会議に出るときは、(おおむ)ねぼくを伴う。外出する際は「行くか?」、と誘う。
 各部員が全社の状況をそれぞれの分担に応じてレクチャーしてくれる。徐々に仕事の仲間入りができるようになった。

 その間隙を縫って、ぼくなりの職場におけるリハビリがはじまっていた。軟式テニスボールを握って左手指の運動。座席下では重りをくっつけた左足が上下している。
 当時出たてで高価なA5型ワープロを買った。手のひらより少し大きめ。仕事と指先運動の一挙両得をねらってのこと。

 取締役・南部(みなべ)部長の指導は昼間だけではない。
「飲んでもいいんだろ?」
 一応は探りを入れて、五時半過ぎると銀座・新橋界隈へ。こちらは体が元手≠フ後悔が性根までしみているのかどうか、半分は断らずに付き従う。医師の「多少はね……」を拡大解釈するも甚だしい。
 なじみの居酒屋、バー、サロンは何軒あるのか。断らなければ週に一度は連れ出された。
 南部はハシゴ派。ぼくは二、三軒目で遠慮するが、彼は帰る気配がない。宵っ張りで、あと一、二軒は続くのだろう。
 新橋の小広いサロンとその近くのピアノバーへよく行った。それまで人前で歌ったことはなかったから、ここで結構仕込まれた、ピアノ伴奏付で。言語障害、失語症といった後遺症に至らなかったことに感謝しつつ、勧められるままマイクに向かった。それでもぼくは石原裕次郎の数曲でお仕舞い。
 南部は「As Time Goes By」(時の過ぎゆくままに)のようなスローバラードをよく歌った。十八番(おはこ)は「リリー・マルレーン」を原語をまじえて。

 昼間も時々仕事を外れて連れ出された。一つ覚えている。モジリアーニ展。上野の美術館へお供した。絵画オンチを自認するぼくに「美しけりゃいいんだよ」と、こともなげに言っていた。

 ──あれから二〇年、南部(その後、副社長井田製鉄社長、会長)からハガキの招待状を受け取った。「(とう)の会」という絵画展を日本橋でやっており、南部も会員として出展している。それまで彼が絵を描くなど、本当に知らなかった。お得意はゴルフと麻雀だけではなかった。

目 次 7. 寄り道
1. サラリーマン事始め 8. 内輪もめ
2. 仕事と私事 9.タイアップの行方
3. ペンステートの一年 10. 駐在員として
4. 身の丈を知る 11. 家族、体調
5. 新天地で 12. 倒れる
6. 輸出への道 13. HIAL、そして


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