10.駐在員として

 社内役員を巻き込んだいわゆる局地戦も治まって、LBFとの商談が急速に煮詰まった。その頃からオハイオ州の同社シンシナティ工場へ、速玉興業ロサンゼルス支店(HTLA)の有井(ありい)が同行するようになっていた。ゆくゆくは彼に仕事をゆずる手はずで。
 工場長のグレッグ・オワッセー(Greg Owassay)、営業担当のボブ・カッツーラ(Bob Cattura)とは互いにファーストネームで呼びあう仲だ。ぼくの名前は「京太」だから、ニックネームも「Kyota」。

 HSAに赴任し、妻と子供三人が現地合流してから一年経った昭和五九年(1984)五月始め。そよ風が心地よく、ニューヨークの空は晴れわたっている。
 アトランタ本社の副社長がシンシナティ工場のグレッグとボブを伴って、ニューヨーク、クライスラー・ビルのHSAオフィスを訪れた。速玉興業からはロサンゼルス支店長が同席。
 白浜社長は予め夕食の予約をしてあり、社長夫人とぼくの妻椿(つばき)は夕刻レストランで一緒することになっている。

 客人を社長室に招じ入れて、午後の会議は、ぼくにとって晴れがましい舞台だった。
 すでに取引は内定していた。大型の年間契約だ。製品は一三%マンガンの鋳鋼製フロッグ(frog)。
 速玉鋳鋼事業部のプロジェクトとして八人の侍が努力を傾けて数年。本日(おおやけ)に答えが出るのだ。

 午後二時から会議がはじまり、LBFが用意した年間契約書に両社トップがサイン。公式行事はこれで終了した。

『年間契約』

 速玉製鋼とLBFは緊密に連携して、北米鉄道各社の需要に適切・積極的に応えるものとする。
 そのため、速玉はLBFに需要に見合うフロッグ各種を総計月平均一〇〇トン、年間にしてミニマム一二〇〇トンを継続的に供給するものとする。
 速玉は生産能力増強により、将来的にはLBFの要望量に近づくよう努力する。

 この量、わがプロジェクトの調査では北米需要量の数%に過ぎなかった。一方、LBFの思惑は、独占禁止法を考慮に入れ、『鋳鋼製フロッグにおける北米需要量の一〇%までを速玉材で占めるようにしたい』、その量、月平均で見積もれば少なくとも三〇〇トン。
 両社合意の年間契約量は需要に比べれば(つつ)ましいものであった。築地工場の現状キャパを考慮し、いわば安全運転でスタートを切ったのだ。

 ぼくのニューヨーク駐在が決定したとき、フロッグの件については、いわば八人の仲間が数年かけたビジネスチャンス追求の向こうにあらまほしき答えがほの見える段階だった。むしろ仕事は、供給責任に関すること、つまり──

・ 多品種少量への対応
・ 北米という広い市場への対処
・ 現地での加工、組立、修理
・ トラブル対策
・ 築地工場のキャパを需要にどう合わせていくか
・ その他必要とされる現地との連携プレイ

 LBFが協業相手に決定してから、ニューヨーク・シンシナティ間を何度も何度も往復した。LBFの工場担当者たちとこぞってこれらの課題にできうるベストの対応≠練り上げ、想定問答を加えて一つ一つ確認していった。
 そうした結果として本日この場は、速玉とLBFの両社が手を携えて進もうというスタート台なのだ。

 まさに花の五月(May Flower)、百花繚乱のセントラルパークは夜もライトアップで優雅な雰囲気をかもしていた。

 レストランタバーン・オン・ザ・グリーン(Tavern on the Green)≠ヘ南北に細長い公園の南寄りにある。言うまでもなく高級、それでいてカジュアルな雰囲気。シャンデリア輝く華やかなホールにジャズのBGMが流れている。
 英語がまだ不自由な妻椿(つばき)の緊張に、テーブルのみんなが気を配ってくれているようだ。LBF副社長夫人はムール貝を一口食べてみせ、「Marvelous!」(おいしいわよ!)と身振りを加えてすすめる。白浜社長夫人はそれとなく通訳を務めてくれている。
 ムール貝以外に料理はなにが出たか、妻もぼくも覚えていない。フレンチ・レストランだから、フランス料理だった。それだけは確かだ。

…………………………

 ニューヨーク駐在の二年半で、フロッグの北米市場開拓以外に何をしたか。

 正直大した仕事をしていない。帯鋼や機械といった他の事業部のことはもとより、肝心の鋼材関係も、社長の陰に隠れてなにもしなかった。
 二つだけ書く。と言ってもやはりいずれも鋳鋼の分野だ。

 一つはバルブ素材のことで、仕事もさりながらパインハースト=B串本とのあのことを忘れはしない。

 フロッグのおまけの形で、そこそこに市場調査したステンレス鋳鋼品のバルブ素材は、米国拡販できたとはいえない。が、ノース・カロライナ州の一社だけ興味を示してくれた結果、少量ながらリピートユーザーとなった。現地ブローカー串本の手厚い支援による。うまくビジネスにつなげてくれた。

 彼と知りあったのは、米国市場調査で出張最後の頃だった。ぼくと同年配。丸顔でやせぎす、如才ない。
 串本によると、ノース・カロライナ州サザンパインズ(Southern Pines)という町に耐熱・耐蝕バルブ・メーカーのミュラー社(Muller Valve)があり、結構商売させてもらっている。
「お宅のステンレスバルブ素材、ひょっとしたら打ってつけかも知れませんよ。調達に苦労しているようですから」
 耳よりの話と受け止め、彼に伴われて訪問すると、早速図面数枚が出され、
「実地テストしてみたいから、これらのサンプルを届けてほしい」
 技術の和深は自信ありげにぼくを見てうなずいた。

 HSAに赴任して数ヶ月。電話に出ると、串本がいかにも華やいで、声に自信がみなぎっている。
「うまくいきそうですよ。詰めた話をしたいからと、お呼びがかかりました」
 どうやら具体的に話が進んでいるようだ。ぼくの声も弾んだ。
 串本は、
「大丈夫ですからその辺の二、三社を回るということにして、二泊三日で出張してもらえませんか。木曜日にミュラーで注文書を受け取り、金曜日はパインハースト≠ナ祝いましょうよ」
 総務担当の那智に小声で打ち明けると、片眼をつむって了解のサインをくれた。彼は仕事でぼくの強い味方であると同時に、ゴルフの好敵手だ。ときどきコースで八〇台を競っている。

 ゴルフ道具をかついで出発し、サザンパインズ近くのムーア空港(Moore County Airport)でレンタカーする。
 串本の予告どおりミュラー社でまとまったスポット発注書と定期購入契約書を受け取った。

 女性購買部長とレストランで昼食をともにしたあと、串本の運転でパインハースト・カントリー(Pinehurst Country Club)へ。全米オープンが開かれることもある指折りの有名ゴルフ場だ。串本が自慢げにこう話していた。
「クラブハウス自体がゴルフの殿堂(World Golf Hall of Fame)ですからね」

 当夜はゴルフ場内の立派なホテルに泊まって、翌日のワンラウンドは、秋黄葉の良き日、わがゴルフ人生最高の優雅なひとときだった。
 ぼくたち二人だけで回り、それぞれに黒人中年のプロキャディが付き添う。
 スタートホールを終えると、ぼくの飛距離はキャディ氏≠フ頭にたたき込まれてあり、次のホールから、状況にあわせて使用クラブは彼が決める。その的確さといったら! 冗談好きのぼくのこなれないダジャレに付き合っているようだが、無駄口はたたかない。一打終えるごとに素早く次のショットのクラブを手渡す。苦手のグリーンも、彼の指示どおりにパッティングすればいいのだから何の悩みもない。
 さわやかな陽光の下で、本物のプロのすごさを感じた。スコア? 悪いはずはない。

 翌朝ホテルをチェックアウトしたあと、玄関横の駐車場でレンタカーのドアを開けようとして串本は思わず舌打ちした。ロックアウトだ。カギを中に置いたままドアをロックしてしまっている。
 しばらく串本の途方にくれた様子に、「エイヴィス(Avis=レンタカー屋)に電話しようよ」と、ぼくはありきたりのことを言う。彼はジッとドアのカギ穴を見つめながら意を決した様子で、
「ハンガーをもってきます」
 駆け足でホテルへとって返す。針金の簡易ハンガーをひねくりながら戻ってきた。

 バラして先端をカギ穴に入れる。何ほどもかからなかった。カシャッといってロックが解けたのだ。そのまれなる才能にぼくが目を丸くして感嘆すると、彼、照れながら、
「初めてじゃないんですよ、ロックアウトは」
 告白気味にそそっかしさを強調して話をそらし、
「針金は、自分の車で何度もやってますので」
 過去の経験がまったくやましくないのだとことさらに弁解した。

 鉄道フロッグ以外で思い出すもう一つは営業ではなく、連携支援業務のこと。
 ヒッチナー社(Hitchiner Manufacturing Company)との関わりだ。田子製作所へ小型タービンブレードを納入したときに登場した、ロストワックス精密鋳造法の技術提携先である。
 調査室田原主査の下で同社とのつながりができてから、鋳鋼販売部での客先開拓業務を含めて都合一〇年間はお付き合いの関係にあることが考慮されて、HSAでも技術担当の木本(きのもと)を差し置き、ぼくが担当することになった。

 ヒッチナー社の本社工場は米国東部ニューイングランド地方、ニューハンプシャー州ミルフォードにある。
 二年半の間で何度訪れたろう。日本からの出張者も、重役から担当者に至るまで何人も入れ替わり訪れたから、そのアテンドを含めて結構な回数になったはずだ。大島副社長も白浜が勧めて、ぼくの案内でニューヨークから足をのばした。

 単独のときはコネチカット州グリニッチの自宅から年代物の愛車カトラスで往復した。行きは大西洋海岸沿いにボストンを目指し、そこで九三号線に乗り換える。この高速道は米国東北部を北に向かって走っており、ニューハンプシャー州を縦断する。
 州に入ったところで一般道に降りる。マンチェスター市の手前を西へしばらく行くと、人口一万人そこそこの小村ミルフォードに到着する。
 そこにヒッチナーという、業界では名の知られた会社がある。従業員は一千人を少し上回る。堅実で、技術的には業界を一歩リードしている。ミルフォードは農村であると同時にヒッチナーの町だ。
 自宅からここまで片道三〇〇キロ弱、半日のドライブは快適だった。新緑の初夏と黄葉の秋の道中は格別、「これがニューイングランド」とうっとりさせられた。

 単独では毎回一泊の出張で、夕食はいつもクキ副社長が数名を伴ってレストランに案内してくれた。社長が同席されることが多かった。中年銀髪のジェントルマンで、朗らか、スタイル満点。ただし冗談がお好き。ぼくに十分わかるように、スローテンポで話してくれる。彼の口癖は半分図星で痛かった。
「君はわが社へ仕事で来ているのかい? チープ・ウイスキーの仕入れが本命だろ!」
「そのうちリカー・ストア(liquor store)が感謝状をくれるよ。遠路はるばる、貢献大だからね」
「車のスペースは大丈夫かい?」
 ニューハンプシャー州の酒税は全米一安い。それをぼくに教えたのが他ならぬ社長だった。スコッチやバーボンの銘柄も懇切丁寧にアドバイスしてくれた。

 肝心の仕事もクキ氏と技術担当副社長がうまく取りはからってくれて、双方の取次ぎ役としてそれなりに役割を果たせた。速玉製鋼としては極めて小粒だが、ユニークな事業として評価していた。ゴルフに関係あることも幸いしたのだろう、ぼくの報告が本社役員会で話題になることもあったようだ。

目 次 7. 寄り道
1. サラリーマン事始め 8. 内輪もめ
2. 仕事と私事 9.タイアップの行方
3. ペンステートの一年 10. 駐在員として
4. 身の丈を知る 11. 家族、体調
5. 新天地で 12. 倒れる
6. 輸出への道 13. HIAL、そして


閉じる Close