6.輸出への道
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昭和五三年(1978)、工場時代に鋳造工程で世話になった同期の孔島とともに課長に昇格した。研究開発本部から東京支社鋳鋼販売部に転勤して二年後。彼が鋳鋼第一課長で、ぼくが第二課長だ。孔島はいまや営業の核の一人となっている。
ぼくの課は総勢七人で、うち女性スタッフ二名。営業の人数分守備範囲が広がったことに加えて、自ら輸出開拓を志願した。
鋳鋼品の輸出は可能か。課長になる前から目をつけていた。中でも社内で言うマンガンレールだ。金属元素のマンガン成分を一三%含む強靱な特殊鋳鋼品で、鉄道線路が交叉する分岐部に組み込まれる。その井桁の各部分が寝そべったカエルのような形状のため、欧米では専門用語としてもフロッグ(frog=カエル)と呼ばれている。
フロッグ自体は形・大きさ・材料とも種々雑多で、普通レールの組み立てが一般的だが、安全がより強調されるところにこの一体の特殊鋳鋼品が投入され、重要保安部品と指定されている。それがわが社で言うマンガンレールだ。
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ユーザーは国鉄(JR)と全国の私鉄で、当社築地工場(名古屋)が国内総需要の八割を生産し、残りの二割は千穂製作所粟津工場(石川県小松市)だ。
一〇年ほど前までは数社で競合していたようだが、低採算性ゆえか需要規模が小さいためか、いまはこの二工場だけになっている。千穂は、二社以上でなければいけないという、国鉄の随意契約に付きあわされた形だ。ほどほどの利益で満足しているようで、あまり積極的ではない。一方ユーザーとして、国鉄・私鉄とも輸入品は未だかつて使用していない。
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いわゆる一体型フロッグのマンガンレール、これまで当方に海外から何度も引き合いがあったようで、受注台帳を何年かさかのぼると、こんな名前が目に入る。台湾、エジプト、タイ、ウィーン市電。
契約事項、ミルシート(製造内容書)、スペック類(仕様書)は基本的に英語だったはずだが、どうしていたのだろう。忘れた頃にやってくるたまたまの引き合いだから、商社におんぶにだっこで、こちらはほとんどを日本語で通していたのではなかろうか。
当社主力の鋼材では大人数の輸出部があり、ニューヨークに事務所をもつくらいに海外にも力を入れているのに、鋳鋼部門の営業はもっぱら国内本位だった。
一般鋳鋼品は国内で中小メーカーとしのぎを削っているのが現状だから、輸出は論外。価格だけでも太刀打ちできるはずはないだろう。
数少ないマンガンレールの輸出も、すべてが車両を含む鉄道敷設・増設といった大型の国際入札にからむもので、どの商社も分岐部用品などついでの関連品としてわが社へ照会していたようだ。千穂は関与せず。
スペック等でエンドユーザーとやり取りした形跡はないし、煩わしい翻訳は商社内の事務処理で片がついていたようで、トラブルの形跡も見当たらない。海外現地での事故関連の話を聞かないのは安堵と喜びこの上ないが、逆にラッキーな気もする。
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それとは別に、田辺物産経由で米国チェシー鉄道から、数ヶ月前にフロッグ単体でまとまった量の注文があり、この一〇年間で三度目とか。形状もほぼ従来と同じだから、前の木型が使えそうだと。
先方本社はオハイオ州クリーブランドだが、購買部は首都ワシントンに近いボルチモア市にある。ペンステート留学時代、寮隣室の友マルコ・シングスの故郷で、数日泊めてもらった町だ。
ぼくはこの取引に着目した。数年に一度ではあれ、フロッグ単体でリピートオーダーを得ている。
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チェシー鉄道は米国大手だから、同国鉄道各社への拡販が可能かどうか、調査する価値がありそうだ。ぼくの持ち味を活かせるかも知れない。一年間とはいえ米国留学中に、結構各地を旅し、多少は土地勘もある。
が調査といっても、自分以外に頼りようはないし、やるとしてもどのように。市場規模や需要分布、現在の調達先、流通経路、その他諸々の文献調査が手はじめとなろうが、そんな重宝な資料がすぐそこに転がっているはずはない。
技術分野は端から手に負えない。スペック等の解析を通じてわが社と米国規格の技術的土俵の比較、どんなクレームやトラブルがどれ位発生しているか。幸い現客先との間になんのトラブルも聞かないが、何しろ重要保安部品だ。何かあったときにわが社が適切に対処しうるかどうか。疑問は次々に浮かぶ。
一方、それらをこなせる技術屋が当事業部にいるか? いるとしても片手間でできるわけはない。事業部が大事な仕事として位置づけなければ話にならない。
考えれば考えるほど幅広すぎてとても手に負えそうもない。思いを同じくする仲間がいないか。それぞれの知識・経験に基づいて知恵を出しあえる仲間が。納得のいく調査を共にし、成果に導きうる仲間が。つまるところ、頼りがいのある選りすぐりによる一大プロジェクトが必要だ。
所詮見果てぬ夢か。一課長としては妄想もいいところで、一歩も踏み出せるはずがない。田原主査ならどうしただろう。
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鋳鋼事業部自体も悩みを抱えていた。全社的に売上高は六、七%を行ったり来たりで肩身が狭い。しかも万年低空飛行の収益を脱することができないでいる。粉じん、騒音、地響き、危険等、改善ままならない環境問題を引きずり、「撤退すべし」が全社役員会でちょくちょく議論されているのはもっともなこと。
革新的打開策などあり得ない。が、手をこまねいているわけにもいかない。そんなときだったのだ。酒席の雑談で、いやがられながらもぼくが繰り返してきた犬の遠吠え#ュ言──海外、とくに米国へのマンガンレール輸出開拓──。
「やらないよりはまし」くらいの位置づけかもしれないが、現状打破のはけ口の一つとして、遠吠え≠ェ事業部幹部の間でささやかれだした。
こうなるといやでもぼくの存在が重くなる。普段ならうとましい外野席だが、そこにほのかな明かりが射し、言い出しっぺの一言居士に幹部の目が向けられるときが来た。
取締役に昇進した富田事業部長が旗を振り出したから、尋常でないスピードでことがはかどっていく。見果てぬ夢が現実味を帯びてきた。
築地工場次長の切目がプロジェクトリーダーとなり、技術二、生産一、工程一、ぼくと孔島を含む営業三の面々が指名され、それぞれ役割分担がなされる。ぼくが思い描いてきた、部署をまたいだ横断組織だ。富田はこれを、マンガンレール=フロッグ(カエル)になぞらえて、「カエル・プロジェクト」と名付け、切目以下を八人の侍≠ニまじめにからかった。
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ぼくは忙しくなる。日常業務の合間を縫って、近くの溜池にあるJETRO(日本貿易振興機構)へ通いはじめた。ついこの前までは考えられなかった事業部公認の仕事として。
備え付けの書棚から手当たり次第に米国の百科事典、名鑑を取り出し、テーブルに広げる。とくにジェインズ(Jane's)とトマス・レジスター(Thomas Register)が役に立った。
徐々にデータベースが構築されていく、と言いたいところだがそううまくはいかない。
一口に鉄道フロッグといっても形状・材料・材質、……、種々雑多なのだ。加えて、なぜだろう、一般鋼材の長なりレールに比べてどの資料も注目度は極めて低い。
鋳鋼製一体型フロッグに至っては、重要保安部品であるにもかかわらず、ぼくの目には皆無。どんな専門的統計データにも姿を見せない厄介な生き物(frog=カエル)だ。
しかし各種資料をあさり、違った角度から外堀とも云えるあらまほしきデータを拾い、それらを重ね合わせたり周辺情報と交わらせてみたりすると、自分なりに何らかのモザイク模様が浮かんでくる。鉄道会社の名前や購買部門の所在地、会社毎の総延長距離、何を運んでいるか(人、鉄、工業用品、鉱石、木材、綿花……)。易しいところからなんらかの手がかりがほの見えてきた。
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毎月工場で行われる「生産連絡会議」(工場と営業の合同会議)終了とともに、八人は工場内の一室に集まってディスカッションにはいる。
役割分担に従ってデータらしきものが構築され、それをたたき台に各自の持ち場と経験に照らして解析する。問題点をつぶしていく。有望手がかりを探す。
そのうち各種英文資料もできあがってきた。わが社のフロッグ生産量、形状・種類、品質、コスト、納期、等々。
英文カタログもそれなりに作った。名称やぼくの英語説明文がどこまで通用するか心許ないが、ピカピカの速玉オリジナルだ。
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こうなれば次は現地市場調査だ。期待半ばのステンレスバルブ素材販路の調査とあわせて、三ヶ月に一度、立て続けに米国出張が許された。工場技術の和深課長と営業のぼくがペアで、出来たての資料・カタログを携えて。
入社三年上の和深は、プロジェクト発足以来ぼくにとってかけがいのないエンジニア。入社以来築地工場で鍛えられ、知識・技術経験とも文句なし。思わぬ出会いだった。
その都度二人でタッグを組んで二週間程度の出張とし、米国に広がる鉄道会社や関連団体を巡って、精力的に調査を進める。
ありがたいのは、チェシー鉄道購買部のカイナン(Kynan)課長が速玉製品を十分に信頼していたことだ。
「何度かまとまった量を受け入れているが、現場から一度もクレームを聞いていない」、と言う。
納めた素材は同社マーティンスバーグ工場(ウェスト・バージニア州)でフレーム・ハードニング(熱処理)されたあと、各地の線路に敷設されている。
彼は、速玉製品がチェシー以外の鉄道にも行き渡るようになれば、業界にとってもメリットありと認めている。だからぼくたちの「北米市場参入」の意気込みに積極的に賛同し、協力を約束した。
業界の内部事情も隠さない。
「安全がとくに重視される部位用の鋳鋼製フロッグは、米国のメーカーはすでに撤退しており、どの鉄道もイギリス、フランス、中米等、数ヶ国から輸入しているのが現状だ。当社は日本の速玉とイギリスの一社から仕入れており、品質に対する現場の評価は速玉が上だ。品質本位(Quality
First)だから、価格はほどほどに譲歩している」。
カイナン課長の紹介状のおかげで、他の鉄道数社へ事情聴取の道がつながった。
偶然とはいえ、彼がペンステート大学の出身とは、ラッキーだった。年下だが、在学年度では先輩にあたる。
何度目かの訪問で彼のオフィスに入ると、壁になつかしい写真が二枚かかっている。いつぞや留学したペンステートのオールドメイン講堂と大学の象徴たる勇猛なニタニー・ライオンの石像。間違いない。指さしながらぼくの声は上ずる。
虚を突かれたカイナン課長はキョトンとした顔で、
「Why do you know them?」(なぜ知ってるの?)
「I stayed there one year as a student.」(一年間学生でしたから。)
課長とぼくとのつながりはこの瞬間にビジネスを超えた。
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米国出張から帰るとすぐ、工場の寮に八人の侍が集まる。欲しいデータの不明欄が穴埋めされるに従って、憶測が推測、予想へ。ポンチ絵を前に議論に花が咲き、期待が膨らむ。四度目のタッグ出張を踏まえてのディスカッション終えたところで、どうやら「アメリカは有望市場」だ、として建白書を作成した。
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* 速玉フロッグはアメリカ(あえて言えば、北米)の品質基準をクリアしており、国際的にも自信を持ってよい。工場努力で競争力をさらにアップできる。
* 価格OK(当時、一ドル=二五〇円)、納期も海路コンテナー船で大丈夫(空輸は考えなくてよい)。
* アメリカの鉄道の総延長距離は日本の一〇倍以上だから、鋳鋼製フロッグの需要もそれなりに見込めそうだ。
* アメリカは自国に供給源はなく、どの鉄道も輸入に頼っている。チェシー鉄道と同様に参入の余地は十分残されている。
* 納入後のアフターケアが問題。メンテナンス対策とトラブルへの対処。アメリカの分岐器組立メーカー(数社あり)とタイアップできないか。
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切目工場次長に任せて見守っていた富田事業部長が、「自分の目で確かめる」と米国出張を決意し、ぼくたち二人を従えて現地入りした。
明らかに自身の活動を役員連中にアピールするためのデモンストレーションではあるが、事実上八人の侍のマーケティングが全社にお披露目されることになる。カエル・プロジェクトが鋳鋼事業部の将来構想に欠かせない柱になった。
八人が一致して切望し、事業部長も必須と考える次なる要件は、「本格進出を果たすには、生情報による機敏できめ細かい現地対応が欠かせない」。
他人まかせではなく、メーカー自らが駐在員を現地に置くことだ。その役目はぼくしか考えられないし、ぼくはそれを望んでいる。ただしこの考え、弱小の一事業部で果たせないことは当然として、そんな夢物語が全社的にすんなりと受け入れられるはずはない。
そして昭和五五年(1980)が年明けた。
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全社的には、鋼材の海外業務拡充を図って、五月にニューヨーク事務所を現地法人に発展させることになっている。
社名はハヤタマ・スチール・アメリカ(HSA、Hayatama Steel America, Inc.)とし、社長と二人のスタッフはすでに辞令を交付され、赴任準備中だ。
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新事務所は、手狭なパンナム・ビル三階から、すぐ近くのクライスラー・ビル五四階に引っ越す。
現ニューヨーク所長の印南は、こうした引き継ぎ作業を終えてから、東京支社調査部に戻り、南部部長の下で海外戦略の事務局を担当することになっている。
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HSAのスタートに「もっと早く気づいておれば……」。
富田事業部長は八人の侍に向かって悔しさをあらわにする。であれば、このマンガンレール北米進出のカギを握る現地駐在員構想、一応は営利企業として出発するHSAの「収益に寄与すること間違いなし」とか何とか言って、営業要員の一名増員に持ち込めたかもしれない。それがタイミングを失してしまったいま、過ぎたるは及ばざるがごとしで、持ち出しようがない。
全社売上高の数%をさまよう小事業部から、八〇%を占める鋼材の海外拠点としてやっとスタートまでこぎつけた現地法人に、肝心の鋼材とは無関係にしてまったく新たな問題を投げかけるなんてもってのほかだ。
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ただ、HSAとしてゆくゆくは、さらなる充実を図って総務一、営業一のスタッフを追加する≠ニいうことになっている。これに乗っかって、次のステップの営業要員に立候補する手が残されているが、はたしてどうか。
鋼材とは無関係な弱小事業部から割り込むわけだから、さらなる充実どころか場合によっては本家本元の足を引っ張ることになりかねない。さりとて鋼材の仕事を兼務させようにも、土俵が違いすぎる。鋳鋼しか知らない人材の起用など笑い話にもならない。ぼくたちにとってHSAは、揺らぐはずのない頑丈な門によって通せんぼされている。
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