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別作品「海の男の一生」で父・魚住京蔵の生涯を辿った。
紀伊半島南端近く、和歌山県の熊野灘に面する貧村で漁師家庭に生まれ、初等教育もろくに受けず、十六才から十七年間、オーストラリアの東北に広がる南洋アラフラ海で真珠貝採取に専心した。帰国してから六十八才で亡くなるまで、南洋での頑張りへの天のご褒美と云える愛妻くまとの二人三脚で、彼なりに納得のいく一生を全うした。
その息子がぼく、魚住京太。ここで自身の半生を振り返ってみる。
一九四〇年(昭和十五年)、京蔵(四十才)、くま(三十二才)の長男として生まれた。高校卒業まで二年下の弟ともどもできのいい少年として、ふる里和歌山県新宮市三輪崎で過ごす。
父の長い海外体験を血が受け継いでいるか、中学で英語の魅力に取りつかれ、高校でもこの学科だけは他を寄せ付けなかった。高二のとき、夏の特別講習で指導を受けた大学教授の心強いアドバイスもあり、当然のごとく大学はT外大英米学部を目指す。となると、同大学の入試科目に数学と理科は含まれていないからそれらの科目をないがしろにする。結果的に大学受験はその外大のみとなった。
自他ともに合格疑いなしとの確信にもかかわらず、大きな落とし穴。それがディクテーションだった。「聴く力」(リスニング・テスト)だ。一応ラジオで予習を怠らなかったが、なぜか会場のマイク音声にはサッパリついていけない。気が動転、頭は真っ白、天井を仰いだ。このディクテーション・テストの後は、やけになって筆記テストも他の科目も白紙提出となってしまい、不合格は理の当然だった。
一年浪人。その間、故郷で隣町に米国宣教師のいることを知り、英会話の特訓を受ける。併せて、二浪はならじと、数学と理科も頑張り、他の大学にも応募する。
幸い国立二期校のT外大入試前に、一期校のH大学社会学部および私立大学にも合格を確認。H大学に入学手続きし、外大は受験せず。
H大学社会学部入学の目的は、将来的に英語の教職を夢見てであり、それなりの誇りを描いていた。が、入学した途端、意に染まない大学の実態を肌で感じた。
H大学は社会科学の大学を標榜しているが、世間一般の受け止めでは商業・経済の大学だ。明治時代に渋沢栄一・森有礼らが創立した商法講習所が原点で、いまや経済社会の学問の殿堂。商学部・経済学部を柱とする四学部のうち、法学部はともかく、ぼくの偏見織り交ぜて、社会学部は取って付けの外様! 身勝手にそうと察するも、今更入試再々チャレンジは望むべくもなく、将来の夢は失せた。
いまは自らの誤解を悔い恥じているが、それなりのわが道のスタートだった。性格の弱い一面を認めつつ、あの頃を思い出しては半ば肯いている。
それがぼく、魚住京太だ。高校までの少年時代は、「海の男の一生」の所々に顔見世している。ここでは大学卒業から話を始める。
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秋10月に東京オリンピックがあった昭和三九年(1964)、ぼくはビジネス社会へ門出した。23歳。偏見による自虐にして不学無為の大学4年間、そのつけで留年または退学を覚悟したが、かろうじて年初に卒論がパスし、無事3月卒業がかなった。
月末、秋のオリンピックに向けて新幹線開業目前の東海道線で東京から名古屋へ。学生生活よサヨナラ≠フほっとした気分に引き替え、これから先に期待と不安相半ばして。
名古屋とその周辺に本社・主力工場をもつ速玉製鋼がぼくの受入れ先だ。名古屋が和歌山県南のぼくの故郷新宮市に比較的近いとの変な理由で、大学ゼミ担当宇久井助教授の勧めによる。他に望む会社はないではないが、学業成績からいっても、先生に従うのが得策と考えた。入社試験はちゃんと受けましたので、……。
速玉製鋼と先生のつながりは──
先年先生は経団連主催・欧米企業視察団の一員として米国各地を訪れた。団長が速玉の専務で、以来ゼミテン(ゼミの学生)に同社への推薦を依頼されていたよし。
ぼくの派遣で先生は初めて約束を果たすことになる。
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速玉製鋼は特殊鋼鋼材の国内最大手メーカーだ。他の事業もいくつか営んでいる。
配属先は鋼材主力二工場のどちらかを予想したが、案に相違して鋳鍛鋼の築地工場(名古屋市港区竜宮町)に配属された。千五百人の所帯だ。現場の作業環境が他工場と比べて厳しいことは新入社員研修で既に承知している。総務課人事係に席があった。大学での卒論「アメリカの労働組合と団体交渉」が配属の参考にされたか。
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出発点の職場が思惑とは違ったが、直属上長になる係長の湯川が社費による米国留学を経ていると知り、希望がわいた。会社案内で「入社五年後に一年間の海外社費留学応募の資格が与えられる」と謳われており、これにチャレンジするつもりでいたから。
辞令交付のとき本社人事部長がぼくにこう耳打ちした。
「湯川くんは速玉きってのホープなんだ。しっかり指導してもらいなさい」
労働運動が盛んな頃で、総評傘下の鉄鋼労連に属する速玉製鋼はおとなしい方だったが、築地工場だけはやや不安要因を抱えていた。各社とも共産党と社会党には神経質で、とくに民青(「日本民主青年同盟」、共産党系の青年組織)を目の敵にしており、俗に左翼分子が七人もあれば、会社をつぶせるといわれていた頃だ。
卒論タイトルと配属の関係はともあれ、鋳鍛鋼の工場勤務、しかも総務課人事係が現実となったいま、まるきり未知の世界に興味を覚えた。
係長の湯川は三〇過ぎで、一八〇センチはある長身・丸顔の男前。人事部長の耳打ちどおり、将来の会社幹部が約束されたといえるエリートだ。事務所も現場もそれを認める存在だが、人当たりは穏健そのもの。むしろだれにも慕われているように見えた。
新婚ほやほやだった。まだ学生気分が抜けないぼくを弟分のようにかわいがり、ときどき新居に招いては、奥様が手料理をご馳走してくれた。
二年間湯川の部下として、デスクワークはほどほどに、作業現場を歩き回り、現場の人たちと声をかけあうようになる。一方係長は、製造業における人事管理、教育訓練の手ほどきにも熱心だった。お陰でTWI(Training Within Industry)という教育の資格を得、講師を務めるようにもなった。
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総務課長の下里は速玉技術員養成所の第一期生だ。技術員養成所は、高校と専門学校をあわせた現場管理者養成のための社内教育機関で、下里課長はそのたたき上げだ。剣道有段者にして、見るからに精悍。実践派を身をもって示し、大卒エリートの係長とはひと味違う脇のしまった管理者だ。現場幹部に信頼厚く、労働組合との絆は自他ともに許していた。
築地工場への大卒新入社員の当年配属は四人だった。数年前からあわせて十数人いるが、総務課はぼくが初めてだ。課長はそれを意識してか、厳しい特別待遇をした。現場幹部らとの話し合いでは声高に笑いを発散させるが、ぼくに向かっては、
「魚住君、これはなんだね!」
「こんな書き方では現場に通じるわけないだろ!」
係長の湯川を飛び越して、ドスのきいた声が周囲に響く。湯川は見て見ぬ振り。
硬骨の軍人あがりだ。愛のムチのようでもあったが並みではない。同じ原稿が二度、三度と突き返されることもあり、何くそと、ぼくの反抗心も高鳴った。
一方では自宅に呼び、寝泊まりさせることもある。組合幹部もよく来合わせた。酒を酌み交わしながら、彼らとの丁々発止の中で、工場では見られない別の姿を見せてくれた。冗談の通じない堅苦しい指導もぼくには幾分血の通いを感じさせた。
課長・係長とも現場労務管理、とくに左翼対策に怠りなさそうだが、思ったほど監視的な色メガネはなく、ぼくに対してもその類の注意や要望はなかった。
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新入りとして、課の人たちに、ずいぶんお世話になった。
中でも配属当初から気軽に工場内を詳細案内してくれた庶務係長。鋳造、鍛造、それぞれの工程に沿って各生産現場をぼくの理解を確かめながら巡り、ところどころで立ち止まっては、現場キーマンらしき人たちにぼくを陽気に紹介。手取り足取りで各種実地体験もさせてくれた。
女性たちの親切も忘れられない。何かと戸惑う都度誰かれなく気を使ってくれ、時々リーダー格の女性宅に課の数名とともに呼んでくれ、茶菓子を頬張りながらの雑談を通して、工場の別の一面を教えてくれた。
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入社して二年間は「知多寮」に住んだ。大卒男子の寮で、百人近くがここから通う。名鉄河和線沿線南加木屋駅のつい近くだ。
築地工場への通勤経路は、太田川駅で名鉄本線に乗り換えて、神宮前で降りる。駅名のとおり熱田神宮はすぐそこだ。
工場勤務の間熱心に続けたサークル「謡の会」の練習がつい近くの健保会館だったから、ちょくちょく神社境内をうなりながら散歩した。一度お披露目でシテを演じた「大仏供養」はいい思い出だ。
神宮前からは、名鉄バスで「竜宮町」へ。築地工場はこのバス停から道路を隔てて見える。寮から工場まで小一時間程度だった。この煤けた工場団地の一帯を竜宮町とはよく名付けたもの。浦島太郎の頃はさぞかし桃源郷だったのだろう。
東京から直行で知多寮に入った日、賄いのおばさんたちが陽気にしゃべる三河弁が変で、食事で出された赤だしの味噌汁を一口してうんざり、気落ちした。思えば遠くへ来たもんだ≠ニ。
何のことはない。いま、三河弁は懐かしいし、赤だし、きしめん、味噌煮込みうどん……、好物だ。
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現場の人たちとは、教育訓練の講座で冷やかされながら講師役を務めたのがきっかけで、終業後手荒く付き合わされる機会が増えた。工場正門の真向いに居酒屋が二軒あり、
「行こみゃ〜か」
と、そのどちらかに引っ張り込まれ、へべれけになるまで飲まされた。
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配属後数ヶ月たった秋の一日、「新入社員座談会」があり、大卒の部で一〇人ほどが選抜されて集まった。築地工場からはぼくが指名されていた。
本社会議室に顔を揃え、人事部長の司会ではじまる。
各自が自己紹介に続けて入社の感想を話したあと、「速玉への提言・要望」、「何がしたいか」、「会社の将来像・自分の将来像」、「……」、そんなことが笑いをまじえて自由討論されていく。
そのどこかでぼくは格好つけてこう言ったようだ。
「社長を目指します。こうありたいという夢を実現するために」、とかなんとか……。
深い考えもなく、その場の座興で発言したつもりだった。が、間の悪いことに司会の人事部長は座興で終わらせなかった。
「魚住京太君ですね。たのもしい! 君の夢を聞かせてください」
まさかの合いの手に、アガリ症のぼくは度を失った。目はうつろで定まらず、思いつくままトチリトチリ、ちょうど読んでいた翻訳本のどこかを、いかにも自身の考えのように述べたのだった。
人事部長はそれと察してすませてくれたから助かったが、二の矢が放たれたら即討死♀ヤ違いなしだった。
悪いことは重なるものだ。この座談会の模様が社内誌「速玉通信」に掲載された。ぼくのうかつ発言付きで。
それから当分の間、工場はもとより、知多寮でも、ときどき呼び出される本社でも、「社長」「社長」とからかわれた。
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あの発言が、一方でぼくに幸運をもたらした。
座談会の二ヶ月後に、
「速玉通信の二木島ですが」
と女性から電話があり、
「あの記事を担当した者です。ひょっとしてご迷惑になったのでは?」
あの一件の記述が気がかりなのかどうか。
「そんなことないですよ。こちらこそありがとうございました」
あたりさわりのない応答をすると、
「実はこんな企画があるのですが、ご協力いただけないでしょうか?」
今回の企画は「私のふる里紹介」で、ぼくもその候補の一人らしい。那智の滝や熊野三山といった故郷周辺の名勝がものを言ったのだろう。
湯川係長に相談すると、ニヤッとして「やってあげろよ」。
変な励まし方をする。
「ぼくでよろしければ……」
ということになった。
二木島瀞、彼女について湯川はよく知っていた。係長の思わせぶりな話をかいつまむと、
彼女は二年前の短大卒で、学生新聞の主筆だった。それが認められて人事部労働課に配属され、社内誌記者としていまや一人前。
「才女だとみんな言ってるよ」
まんざらでもない顔でぼくを見た。
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特集の一環として南紀熊野≠ェ速玉通信に出たあと、彼女から思わぬ手紙が知多寮のぼく宛に届いた。
「名古屋城で徳川家の秘宝展が催されています。よろしければご案内したいのですが」
女性から先に手紙を受け取るのは生まれて初めてのこと。ぼくは舞い上がった。断るはずがない。
初デートはぼくにしては大成功だった。次の約束を取り付けたのだ。そして……、二人は急接近していく。
どこで聞きつけたか、湯川まで、「君、瀞ちゃんと仲いいんだって?!」
次いで周囲に目をやりながら、
「労働課長がサ、彼女の胸の内を読んだようなんだよ。いい話だね」
それから一年、結婚が交際の前提になっていた。もはや隠しようがなく、そうする必要もなかった。先頃人事課長に昇格して本社にいる湯川からも励ましの電話があった。
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それはぼくにとって悪夢以外の何ものでもない。突然の交通事故が彼女を奪った。社用車をあてがわれて、本社から鋼材の星崎工場に向かっている途中だったという。
トラックと正面衝突して社用車ははね飛ばされ、コンクリートの電柱に激突・破壊。同乗の上司は奇跡的に助かったが、彼女と運転手は即死だった…………。
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