4.身の丈を知る
|
|
昭和四五年(1970)五月末に一年間の米国ペンステート大学留学を終えて帰国の途に就いた。
留学中電話交信もままならなかった妻と、東京葛飾区の彼女の両親宅で無事再会でき、娘の成長ぶりに胸がこみ上げた。
速玉製鋼、現所属の本社人事部に出社すると、有田企画室長お告げのとおり、「調査室勤務」の辞令が待っていた。
本社は名古屋市の中心、中区錦一丁目の興銀ビル(当時)にあり、一〇階建ての三階以上を占めている。
その六階は企画室、調査室、開発部、海外協力部がオープンスペースで横なりに広がる。
調査室の陣容は、大島室長と田原主査の他に、次長以下男女4人のスタッフ。速玉の将来をにらんで、新事業探索を旨としている。ぼくは田原主査の部下として加わった。
大島室長は、数年前に速玉が全社を挙げて完成させた特殊鋼鋼材の最新鋭マンモス工場たる知多工場の次長だった。日本屈指のこの工場を更地からいまのフル稼働に導くべく陣頭指揮をとった人物だ。温厚な容ぼうながら上にはずけずけもの申す。酔った勢いで歌合戦にでもなると、十八番のドイツ民謡乾杯≠ェ威勢よく原語で飛び出す。
|
|
「今浦島だろうから、当分はあせらずに」
室長のいたわりとも言える言葉は、田原主査まで届かなかったようだ。
|
「いよいよだね、魚住君」
喜びをかみしめた開口一番は、ぼくへの励ましというよりも自身への確認だった。
横並びの机で膝すりあわせ、準備万端の業務内容と分担表をもとに、田原とぼくの仕事がもうはじまっていた。
意欲あふれる業務の説明は、専門用語と社内用語だらけで、すんなりとけ込めない。いちいち「すみません」とか「何ですか?」と言って待ったをかけるわけにもいかず、戸惑うばかり。新しい職場への出社初日に、出会いがしらでアッパーカットをくって高くもない鼻をへし折られた。
|
|
田原の仕事に対する姿勢は生やさしい程度のものではない。自他ともに手加減はなく妥協を許さない。ひょうきんで、黒縁メガネの人なつっこい笑顔はどう解釈したらいいのだろう。
|
一週間もすれば、一人前の補佐を要求され、もたもたするとすべて自分でやってしまう。怒りはしないが、こちらは沈む。その手際を多少でも真似できればまだしも、仕事の内容が消化不良だからついていけるはずがない。もたもたが続く。
主査は仕事の一つ一つに「Plan, Do, See」(計画、実行、反省)のチェックリストを設けている。二週間単位でその段階ごとに細目をチェックする。議論を好み反省に力が入る。イエスマンとノーコメントは許さない。こちらを半人前とは承知しているのだろうが、熱が入るとお構いなし。生半可な意見にも追及は厳しい。
ぼくはどうすればいいのだ。彼の後ろについているだけだから、これといった意見も反省も事実上持ちようがない。二人三脚というが、プランの段階ですでに足並みが乱れている。構想・意欲・信念ともに、彼は遠い。
|
|
が数ヶ月もすると、ぼくなりに田原主査の舞台裏が見えてきた。彼には緻密と大ざっぱが同居している。間違いや失敗にうじうじしない。失敗の責任が自分であろうがなかろうが、多くは笑ってすませる。一方上司や関係者には頭をかいて素早く謝る。あとはケロッとしている。
問題は「なぜ失敗したか」だ。原因分析を怠らない。これもそんなに時間をかけない。そうする過程が重要なのであって、失敗という結果はいわばどうでもいいのだ。
彼に手詰まりはない。頂上に到る道はいくつもあると言うよりも、彼には頂上がいくつもあるのだ。失敗すればその反省をふまえ、到る道が見つからなければ、別の頂上に頭を切り換えている。
その切り替えの素早さとリズム・テンポが絶妙なのだ。だから社内関係者は、例え重役であれ部長であれ、「それが田原君なのだよ」と逆に感心する。
|
|
田原主導による組織改革は次の年、昭和四七年(1972)一〇月だった。
ぼくたちの調査室と開発部が、特殊鋼鋼材の星崎工場に隣接する中央研究所に併合される形で、「研究開発本部」がスタートした。田原の目指す戦略を支える社内体勢が整ってきた証しだ。調査室は研究開発本部管理部と名を変えた。
|
|
それからぼくがこの目で確かめた四年間、田原主査のばく進がフル稼働した。ひたすら会社をもっとよくするために懸命なのだ。まだぼくをまかせるに足る部下だと信じているのだろうか。一方、ぼく自身はどの仕事においても達成感がない。つねに振り回されて、相変わらずついていくのに精一杯だ。どうしていいかわからない。ぼくも自分にあった場が与えられれば、こんな具合ではなかろう。充実を絵に描いたような田原とは裏腹に、ぼくは打ちひしがれていった。
陰でぼくを応援してくれていた大島室長が組織改革時に群馬県の渋川工場へ工場長として転任されたのも、ぼくにとっては痛手だった。新任の管理部長は田原主査にまかせっきりだ。
入社後、築地工場総務課を振り出しに、順調すぎるほどの陽当たりのよい坂道を心地よく歩んでいたはずが、急に暗い獣道に迷い込んでしまい、足がすくんだ。どうすることもできない挫折だ。
鍛え甲斐のあるものとないものがある。打てば響くものと響かないものがある。ぼくは田原の期待にかかわらずミスキャストだった。打っても響かなかったのだ。未熟を知らしめられる毎日、努力をしても到達すべき道のりは遠すぎる。
それに引き替えワラちゃん(田原)流<}ーケティングは一息つくことがない。大胆なアイデアと他を寄せ付けない説得力・牽引力。田原はそれらを目の当たりに展開してぼくを圧倒し続けた。
彼が始めた新事業をいくつか列記すると、
|
|
生き残った事業
|
…
|
ロストワックス精密鋳造法、NAK55(金型用鋼)、宇宙・航空機材、耐海水用鋼
|
|
|
|
失敗した事業
|
…
|
ファスタックボルト、ボーリング場
|
|
失敗した事業も、もちろん田原の綿密な原因分析に基づいて、彼の進言を尊重するかたちで経営判断がなされたものだ。が、その幹部たちを前にして、「責任は私です」と、田原は常に自身を責めて深く頭を下げる。その分析力と早めといえる撤退のタイミングと潔さに、幹部連はむしろ好意をもって感謝すらした。
余談だが、運動神経だけは彼に従順ではなかった。買い取った市内のボーリング場では、彼も仕事そっちのけで楽しんだが、ボールは彼の意に沿わない。ガーターに吸い込まれること多く、その都度奇声を発していたっけ。
|
|
それらすべてのプロジェクトを手伝い、実力のなさに悲観し続け、結局は古巣、鋳鋼事業部への転籍を懇願するようになった。田原の虚を突かれた顔を忘れはしない。
が、こちらも会社人生をかけている。田原のみならず、機会を見つけては関係上司へのゴリ押し的訴えがついに功を奏して、研究開発本部で四年たった三六歳のとき(1976年)、東京支社の鋳鋼販売部へ転籍が認められた。
その翌年、田原は心筋梗塞で急逝した。四二歳の若さで。
|
|
留学終えてから調査室、研究開発本部に籍を置いた六年間の話は、これ以上広げたくない。田原主査は信念を貫くとともに、ぼくを熱心に育てようとした。が、足手まといだったことはだれよりもぼくが知っている。彼が目指した頂上の一つ一つとともに。
この間に唯一ぼくを平常心にしたのがゴルフだった。だからここで思い切り気分を変える。
|
|
興銀ビル六階の本社調査室で一年たった頃だった。
田原が終業時刻を待ってぼくを近くのゴルフ練習場に誘った。夏も終わりに近づき、そよ風が心地よい夕刻だ。いかな彼もこの時は仕事を忘れている。その切り替えの見事さ。
|
「使い古しだけど」、と言って、クラブを数本プレゼントしてくれた。スプーン、五番、七番、ピッチング・ウェッジ、パター。小型バッグに入れて。
近々予定している本社コンペが彼の頭にあり、
「君をエントリーしているよ。これだけのクラブで十分だと思う」
手ほどきしながらこともなげにつぶやいた。
翌日から連日この鳥カゴで特訓を受ける。彼の指導は的確だ。いちいち「なるほど」と、うなずかせる。
実技は理論と逆だった。どうしたのだろう。ショットは飛距離も方向も思ったとおりにならない。その都度首を傾げて声を失う。広い額に汗が浮き上がり、太縁メガネはくもっている。
ぼくは「うまくいかんもんですね」とは言えず、神妙をよそおいつつ笑いをこらえた。
初のコースの成績はなぜか記憶にない。コースの名前すらも。多分思い出したくもない悲劇だったのだろう。
しかしそのコンペがぼくのゴルフ元年で、田原が火を付けた。直後から火は燃えはじめ、はまっていった。といってもコースでのプレイはまれで、土日は今村(現、新安城)の自宅から近い打ちっ放しで半日は過ごした。
クラブも田原と彼の仲間たちから「そろそろ」とのアドバイスを受け入れて、フルセットをそろえた。ラウンド一〇〇程度で回れるようになった。
|
|
田原主導の組織改革で研究開発本部に移ったのは次の年一〇月で、ここでの四年間がぼくのゴルフ熱に大いに寄与した。
こちらの休日は、星崎工場にあわせて木曜日だ。ゴルファーにとって好都合この上ない。練習場も安いし、土日に敷居が高いコースも、平日は特別料金で受け入れてくれる。
研究開発本部長の見老津常務は人一倍ゴルフを愛された。工学博士で根っからの学者タイプ。こむずかしい顔がぼくには苦手だったが、ゴルフの話になると急に目尻が下がる。
部下が右に倣えは世の常で、ぼくたちも同じ。常務の発案で有志が「M国際カントリー」の平日会員に名を連ねた。田原主査も、研究所の名だたる部長も研究室の同期も、もちろんぼくも。十数人は入会したはずだ。
二月に一度は内輪のコンペがあり、「常務杯」をぼくも二度手にした。オフィシャルハンデは「二六」になっていた。
|