8.内輪もめ
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北米へのマンガンレール進出、その新規開拓に立ちふさがるもう一つの難題は、現地でのアフターケアだ。いかなるトラブルにも滞りなく対処できなければならない。
この解決策として実地調査の結果、ぼくたちは米国内で鉄道分岐器関連の工場を持つ二社のどちらかとタイアップしようと判断した。LBF社とABX社だ。
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LBF社は、チェシー鉄道のカイナン購買課長がこの悩みに応えて紹介してくれた。オハイオ州シンシナティに工場がある。チェシー鉄道は分岐器にかかわる細々した仕事を同工場にまかせているとか。工場営業のボブ・カッツーラ(Bob Cattura)に紹介状を書いてくれて、付き合いが始まった。
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もう一社はABX社で、インディアナ州インディアナポリス近郊に工場を持つ。こちらは富田事業部長の強い依頼で、市江商事が取引先のサザンパシフィック鉄道に問い合わせ、同工場を紹介されたという。
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技術の和深と営業のぼくは両工場を数回訪れ、タイアップの意思を確認、当方のニーズに沿って天秤にかけていく。速玉と組みたい意欲の程度、技術力、工場の規模、営業姿勢、会社の信頼度、地理的優位性……、いずれも甲乙つけがたい。
ぼくはカイナン課長がその実力を認めるLBFに傾いているが、それ以上の意味合いはない。
この頃までの現地調査は、直接製品にかかわる市場規模や品質・納期・価格に重点を置いて進めてきた。
したがって流通経路といった、その先の商取引のことは思いも及ばなかった。だからLBFはどの商社もかんでないし、直取引の考えもない。
商取引としてLBFとどのようにつながろうと、総合的に考えると、市江商事経由のABXの方が明らかに優位だ。市江商事は米国の事情に詳しく、かつ積極的で信頼に足る。そこで当然の如く、富田事業部長の軍配は、「市江商事経由でABXとのタイアップ」だ。
両工場を技術的に対等評価している和深は、一方で事業部長の意向を重々承知だから、当然のご判断として素直に従った。ぼくも天のお告げと受け止め、内心ホッとして「ABXで行こう」と踏ん切りがついた。
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鋳鋼事業部内のこうした動きと並行して、全社的には二年前にスタートしたニューヨークの現地法人ハヤタマ・スチール・アメリカ(HSA)の拡充計画が予定どおりに進んでいた。「営業担当を一名増員する」 。
この要員にぼくを充てて、マンガンレールの北米進出を押し進めようとする富田天皇の意気込みは並みでない。この機会を逃したら、事業部の先行きが案じられるし、そうなれば、ここまで上りつめてきたわが身はどうなるか。そんなこともまだ頭をよぎっているのだろう。前年秋に亡くなった鵜殿専務を引き合いに出しては、「専務の遺言ですよ」などと、いつしか過半の役員の賛同を得かけている。ポーランド国鉄からの大型受注と順調な納入状況も強力な助っ人だ。
本来なら鋼材畑出身でなければ候補にも挙がらない要員に、
「魚住なら大丈夫ですよ。赴任するまで半年の準備期間があるんでしょ? 十分に鍛えられますよ」
あの手この手で説得して回っている。ラッキーなのは、鋼材部門でニューヨークへの出向を強く希望する者がいない。
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鋳鋼事業部からHSAへ出向=A富田ゴリ押しの流れを受けて、HSAの将来計画を進めている南部調査部長がぼくに詳しく聞くことになる。彼はこの前の人事で役員に昇格していた。
ぼくと同期の印南がニューヨーク所長を終えてこの部におり、その事務局だ。総務・社長秘書担当としてもうすぐHSAに赴任する那智もいる。彼らは増員の営業担当がぼくであると決めてかかっている。HSA社長の白浜も了解ずみらしい。
南部と印南は、八人の侍の総意としてぼくが連続徹夜で書き上げた、富田天皇お墨付きの「マンガンレール北米進出建白書」の確からしさ如何にあの手この手で質問を投げかける。ぼくはここぞと思いの丈を熱弁する。その成否を占うのが現地分岐器メーカーとのタイアップ≠ニ、みんなの考え方は一致する。が相手を市江商事経由のABXにするについては、彼らは「真っ向から反対」が旗幟鮮明だ。
ぼくが駐在員となり、HSAがマンガンレールの北米営業を仕切ることになる以上、
「流通経路も含めていかなることにもHSAの意思が反映されなければならない」 、と彼らは言う。
タイアップの相手決定は、事業部内で富田がどんな軍配を下そうと、彼らにとってはまだ白紙なのだ。おまけにHSA白浜社長から、
「そのために自分たちが現地にいるのだから、迅速対応を要する仕事への余分な介在は不要」
そう念押しを受けていると断言する。
ぼくは駐在したい一念で心が揺らいできた。直取引となると、煩わしさが増えるだろうが、いまはHSAと波風たてたくない。
調査部長と取り巻きにはありのままを伝えたのだから、あとは彼らと常務になりたての富田事業部長がよしなに結論を出してくれるだろう。
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現地分岐器メーカーとのタイアップで開拓する北米市場での新規取引について、HSA関係者が商社の介在を拒む明白な理由があった。
主力の鋼材はすべて商社経由であって、クレーム受付が主務のHSAへの口銭はこれからも微々たるものだ。それに対してニューヨーク事務所を現地独立法人にした結果、当然収益を目指し、その計画をニューヨーク市へ提出している。以降毎年市当局へ実績報告が義務づけられており、納税に到らないといずれ存続が危うくなる。
現地法人化した時点で提出した収益計画は、「そのうちなんとかなるだろう」といった無責任なものではなかったろうが、楽観性は否めまい。絵に描いた餅に近く、具体的な当てのあるものではなかった。「五年もすれば水面に浮かぶ、そんなあやふやな見通し」と、事務局の印南は自嘲気味に言う。
企画屋はえてして「やり方がまずかったからだ」と、実行部隊に責任を押しつけがちだが、HSAにそれは当てはまらない。企画・実践いずれも同じ穴のむじなだから、結果次第では自ら泥をかぶらなければならない。
そこへ、彼らにとって棚ぼたともいえる話が舞い込んだ。ぼくの書いた「建白書」を念入りに読み、マンガンレール・ビジネスがHSAにとってなんたるかを関係者そろってじっくり反すうしたに違いない。そしてぼくを呼んで、言葉巧みに事情聴取したのだ。
「君は心配かもしれないが、白浜社長は現地事情に明るいし、ぼくたちも最大バックアップするよ」
甘い言葉に弱いぼくに、南部調査部長は自信ありげにそんな言葉で締めくくった。
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それを契機にマンガンレール北米進出プロジェクトは、現地分岐器メーカーのどちらとタイアップするか──市江商事経由のABXか、直取引のLBFか──、流通経路の問題で役員会でも取り沙汰されるようになり、社長まで「どうなんだ」と、常務の事業部長と平取の調査部長にご下問することになる。もちろん両役員の答えは正反対。
ただしぼくをHSAに出向させることについては両サイドとも強く望むところだ。「営業担当交代及び一名増員」の人事だけは、日延べせず見切り発車した。
ぼくは増員としてではなく、前任との交代要員となり、従来の鋼材業務及び鋳鋼品の北米市場開拓≠担当する。
増員の一名は、鍛鋼品を米国石油掘削業界に売り込むための要員だ。三社合併で群馬県渋川工場に集約した鍛鋼品に、鋼材に次ぐ主力製品として全社あげて力を入れだした頃のこと。役員の間で、海外進出強化の判断もなされている。石油掘削や海水淡水化といった国際大型プロジェクトに欠かせないし、単独でも修理等で結構輸出実績がある。
鍛鋼の営業にいる長島の起用がすでに決まっていた。彼は鍛鋼・鋼材のいずれにも知識・技術ともに明るく、積極果敢だから、駐在要員に打ってつけとされたのだろう。赴任後、テキサス州のヒューストンに事務所開設の任を負っている。
やっと辞令を手にしたぼくはそれから半年間、長島と連れだって、鋼材二工場と鍛鋼の渋川工場を巡って特訓研修を受けた。それを終えてぼくは昭和五八年(1983)二月、ニューヨークへ赴任したのだった。その半年後に、妻が三人の子供を伴って現地合流することになる。
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昭和五一年(1976)に東京支社鋳鋼販売部へ転勤してから、HSA出向の辞令を受けるまでの六年半について述べてきた。
一つ書き残している。気が乗らないが、話の筋道上ここで触れざるを得ない。転勤した頃にさかのぼる。
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研究開発本部管理部から東京支社鋳鋼販売部への異動は、ぼくが挫折の果てに上司の田原や関係者を拝み倒して実現したのだが、受け皿の鋳鋼事業部にとってはどうだったか。ぼくが築地工場にいた一〇年前とは様変わりしている。生産現場も工場管理者も営業の面々も。
仲人を引き受けてくれた下里工場次長はその三年前に肺がんで急逝してしまったし、雀士の工場長以下、なじみの工場幹部はほとんどいない。いまやこの小事業部は、工場・営業のすべてが会社役員になりたての事業部長・富田天皇の掌中にあった。
工場長と販売部長をはじめ、役職の要所要所は富田が他部門から引っこ抜いてきた一族郎党と、鋳鋼プロパーでも好みの人材が配置されている。だから一係長を引き受けることなど取るに足らない人事だったのだろうが、富田としては、依頼元の研究開発本部や本社機構にはいい顔ができたに違いない。
ともあれ鋳鋼事業部にとっては本社からの押しつけ人事で、ぼくは招かれざる客=Bすぐに肌で感じた。
営業マンとしては新米だから新天地で発言権がないことは、どの会議でも容易にわかる。まともな意見としては受け取られず、事情に疎い外野席の雑音程度に位置づけられ、抹殺されどおしだった。
そのうち会議さなかでも、はすかいに坐って足を組んだ富田天皇のつぶやきが周囲に聞こえよがしだ。
「理屈っぽいきれい事じゃなく、もっと現場に密着した意見でなくちゃ」
そんなあからさまなこき下ろしに、並び大名はご無理ごもっともと、ぼくへの接し方がより好意的でなくなる。こちらも高い志の持ちあわせはないから、抗弁どころかわずかなプライドもしぼむ。
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研究開発本部を去るまで、ぼくの挫折感にかかわらず、田原主査は甘い人事考課を与えていた。鋳鋼販売部に来ていかにないがしろにされようと、前歴がものを言って、転勤の二年後、人並み以上のスピードで、同期の孔島とともに課長に昇格した。
孔島には築地工場で鋳造工程を追いかけていた頃、世話になった。彼は当時から人柄のよさと有能は聞こえ高く、作業課では要の一人だった。そしていま、営業のみならず工場にも人望厚く、事業部長をはじめ幹部にもっとも信頼されている。その彼との比較が露骨になるから、どうしようもなくなる。
そうした中でぼくが鋳鋼の輸出開拓を買って出たとき、事業部長と取り巻きはどう受け止めたのだろうか。
「輸出が事業部のなにほどの足しになるかはわからないが、彼は他に取り柄があるでなし、当面泳がせてみるか」
そんなところではなかったか。
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身内の酒席で酔いにまかせた戯言ではあれ、
「いつになったら本社ボケが直るんだ。課長なんだから、チッとは本腰の入った仕事をしたらどうだ」
まかせるに足る孔島を横目で見ながら、小馬鹿にした顔でそんな名指しのつぶやきをされれば、さすがのぼくも「そうですね」と頭をかいてすますわけにはいかない。例え相手が天皇であれ役員であれ、だ。
事業部長をはじめ、関係者のすべてがいやでも一丸とならざるを得ない、米国現地駐在員というこの目標が目の前にぶら下がっていなければ、とっくに堪忍袋の緒が切れて、破れかぶれの時限爆弾が爆発していたであろう。その待ちに待った「HSA出向」決定の知らせを受けたのだ。
呪縛がやっと解けた気持ちがはやる。こちらにはいまや実力専務の大島やHSA推進の中核たる取締役南部調査部長の揺るぎない後ろ盾がある。そんな思いで、“虎の威を借る狐”さながら、泥沼化の様相を呈してきた現地分岐器メーカーのどちらと組むべきか≠ノついて、臆面もなく宗旨替えして「直取引のLBF派」を鮮明にする。
富田天皇としては、言いなりの飼い犬に突然噛みつかれた心境に違いない。いまや常務取締役の地位でありながら、身の保全と言わないまでも、自らの功績と誇示できる成果がすぐそこにあると信じているのだろうか、事業部長の職を他にゆずる気配はない。それどころか、工場での生産連絡会議には毎回顔を出し、そのあとで八人の侍が集まる場にもわざわざお出ましになる。
場がくつろいだ酒席になると、ほろ酔いも手伝ってか、だれともなくつぶやきがはじまる。
「鋳鋼の将来はオレに任せておけ。オマエたちがどうなるかはオレの胸三寸だ。オレをもり立てることがオマエたちが生きのびる唯一の道なんだよ」
人事異動の駒いじりが趣味ともいえる天皇のこと。逆らうと翌月はどうなるか。
しかし「魚住」という手駒は、HSA出向が決定したいま、天皇の手の内にない。本来は気が小さく、上司に刃向かうような根性をこれっぽっちも持ちあわせないのに、常務の鋭い視線を感じつつも、わかったような振りをしてビールのグラスを傾けている。
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