ピーチャンとぼくの五十代 (第2章)
第2章 子持山だよ

 脳梗塞が引き金となって、二十数年勤めた大同特殊鋼を四十八才でやめ、家族の大迷惑を顧みず無謀な起業。試練のわが五十代を励まし続けてくれたピーチャン。そのピーチャンもいなくなってしばらく。
 自前の会社も幸運に何とか軌道に乗り、精神的ゆとりも出てきた頃。
 …………

 山歩きを始めて二年ほど経っている。その間にピーチャンがこの世を去ったこともあって、気晴らし半分が夢中になり続いている。もちろん弱い左足のリハビリが本位で、東京近郊の低山がほとんどだ。
そんなとき、思わぬハプニングに見舞われた。一九九九年、五九才の秋だった。

 暗転

 『十一月三日、三頭山(みとうさん)』、楽しみにしていた。

一つ、山頂の絶景
 三頭山は、大岳山(おおたけさん)御前山(ごぜんやま)とともに奥多摩三山の一峰。富士山の眺望で有名な山だ。この三月に登ったが、あいにくの雨と霧。お目当ての富士山はおろか、二、三〇b先はおぼつかなかった。今回はその仕切り直しだ。

二つ、ピーチャン
 ピーチャンが死んで一年になる。緑のセキセイインコ。墓の土を景色のいい山に撒こうと思っていた。一年、区切りもよいし、場所は絶景の三頭山山頂。ぼくにとってはこれがメインイベントのつもりだった。

  その二日前の朝、暗転した。
  目が覚めると左に強いしびれを感じる。手も足もだ。
 「あいうえお、かきくけこ。さしす……」、舌のもつれはない。
 ゆっくり起き上がる。ちゃんと立てる。ふらつかない。
 よかった。たぶん脳梗塞の再発だが、かすったのだ。
 一五年前にやられて身にしみているはずなのに、最近の暴飲暴食がたたったか。血圧さえ気をつけておればよい、と安易に堕していた罰だ。
 何より怖い証拠が体重、七四キロ台。医者の忠告を四キロ以上も上回っていた。

 少し歩いてみる。左足は固いコンニャクを踏みつけた感じ。いままでより少しひどい。幾分力が入らないような気もする。
 息を吸うと、左肺が少し圧迫されるように感じる。
 後頭部左がやや緊張している。
 手足の指はむくんでいるようで、ここもいつもよりしびれているが、意のままには動く。
「入院することもないでしょう」
 主治医は診断の結果、薬を増強するに(とど)めた。
 その日から禁酒とダイエットを始める。『四キロ減量が生命線』を頭に。 
「あんたまさか! 山歩きしているんだよ」
 電話の向こうで、先達(せんだち)仲間は絶句した。
 十一月三日の三頭山はあきらめざるを得なかった。それ以上に悲観した。
《山はダメかも……》

 赤城へ

 三日後、ウオーキングを始めた。浦安海岸往復、二時間程度は何とかこなせた。
 一週間して、頭と肩の緊張も、手足のしびれも、和らいできた。人気(ひとけ)のないところで裕次郎の『狂った果実』を歌ってみた。

夏の陽を浴びて
潮風に揺れる花々よ
 …………

 声量も音程も悪くなっていない。
《カラオケ大丈夫!》。

「気分転換してきたら?」
 妻が旅行雑誌と保養所名簿を広げて勧めた。
《そうだ、入院したことにして》
 二、三日会社を休むことにした。土、日を合わせるとゆったりの保養だ。
 幸い、群馬県赤城村に宿がとれた。『ヘルシーパル赤城』。ステーションワゴンで気ままなドライブ。月曜日の昼に出社することにして、四泊五日の旅になった。 
 十一月十一日(木)、九時出発。
 マンションの道端垣根に寄る。ピーチャンの墓だ。土を一握りスーパーのビニール袋に入れる。赤城の山すそに撒く準備ができた。

 …………
 ヘルシーパルに着いたその日の午後から翌々日まで、昼間の田園散策以外は体がとろけるほど温泉に浸った。が、体重は思ったほどとろけなかった。
 あの日から二週間。禁酒、ダイエット、そしてウオーキング。それでトータル二キロだけの減。
《そのうちきっと下がるはず。下がってくれなくっちゃ》
 期待、願望を無情に打ち砕く失望体重計と飽きずにらめっこを繰り返した。

 ひとり山歩き

 一九九九年十一月十四日(日)、無風快晴。時期はずれの陽気。
 近くの子持山(こもちやま)に目をつけていた。無理せず登れるところまで登ろう。そんな算段で、九時、赤城の宿を出発。
 ジーパン、スニーカーにウインドブレーカー。リュックには昨日買った菓子パン二個、リンゴ一個、柿半分。そして水一・八g。
 国道一七号線を通って隣の子持村に入り、しばらく田舎道を走る。途中雙林寺(そうりんじ)という古刹を経て、子持神社入口に着く。古刹も神社も昨日念入りにお参りしてある。
 ここからさらに狭くて落ち葉だらけの小道を走ると子持神社奥ノ院、子持山登山口だ。(標高 七三〇b、頂上は一二九六b)

 駐車場にはすでに二〇台ほど先客がいて、全員すでに出発していた。
《ゆっくり歩こう。疲れたら引返す》
 そう言い聞かせながら身支度を終える。一〇時。

 前日はかなり予習した。各種の案内書を丹念に読んだ。子持牧場まで車を走らせて、近くの林で二時間ほど予行演習もした。宿のフロントにもしつこく訊いた。
「大した山ではないですから」
「小学生がよく登っているんですよ」
「最近はお年を召した方もかなり登っているようですね」
「行き帰りで4時間もあれば」
「見晴し抜群です」
 異口同音に勧めてくれた。
『上州子持山ハイキング』
 ぼくは確信を持って実行に移すことにした。
《無理しないで、行けるところまで行って戻ればいいのだ》
《山の中腹でもいいから、景色のいいところにピーチャンの土を撒こう》

 登山口から一〇分ほど歩いて沢沿いの山道に入る。
 いきなりガレ場だ。四月にエンジョイした生藤山(しょうとうざん)笹尾根のようなところを予期していたから、裏切られた感じ。
 うっそうたる杉林。陽射しも生い茂った枝に遮られて弱々しい。
 初めてのひとり歩きだ。そしていま、前にも後ろにも人はいない。歩くにつれて、寂しさと開放感が交錯する。一瞬、
「ジーッ」
 鳥の鳴き声が(つんざ)いた。

 屏風岩まで約二〇分。
 確かに左足は弱い。ひざにやや負担を感じる。スニーカーはいまもコンニャクを踏んでいる感触。左肩は重く、後頭部はまだ少し緊張が走っている。
《余分なハンデ、自業自得》
 いや、これからの訓練次第でハンデは克服できる。自分しか味わえないチャレンジだ。まるきり愉快なことではないが、暗くなることもない。現にいま登れている。 
 一五年ほど前、脳梗塞にかかった当初、萎えた手足のハンデに安住したい諦観が(かす)めた。
「さあ、リハビリ。人生終わってもいいのですか」
 先生に言われるまでもなく、車椅子から立ち上がって歩行訓練を開始。その甲斐あってほどほどに蘇生した。
 好きなゴルフは飛ばし屋の尊称をお返しすると同時に熱が冷めた。代わりに新しい仲間に恵まれて、山歩きが趣味に加わった。ずい分楽しめるまでになってきていたのに。
 頭上に屹立(きつりつ)する屏風岩を眺めながら、そんなことを考えたり思い出したりした。
 岩山の麓に歌碑があった。

子持山紅葉をわけて入る月は
  錦につつむ鏡とぞ知る    (円珠尼)

 屏風岩を過ぎると杉林が雑木林に一変した。周囲が急に険しくなった。そのはず、ここから頂上(一二九六b)まで、標高差約五〇〇bが急な勾配になっているのだ。
 ほぼ紅葉は終わっていた。枯れた落ち葉が急登を埋めている。その下はザレ場。小枝や木の根っこや岩肌に掴まりながらでなければ登れたものではない。回想も失意もひとまずお預け。よじ登りに専念することにした。

「おはようございまーす」
「こんにちは!」
「ひとりですか?」
「頑張ってくださーい」
 一〇人以上の女性中高年グループに道を譲った。続いてカップルが、子供連れが、ツアーグループが。次々と元気に先を越していく。
 
 何度も小休憩して、その都度水を飲んだ。ウインドブレーカーはとっくにリュックの中。スポーツウエアは汗でべとべとになっている。
 岩角に腰を下ろし、柿半分をかじりながら、「時」も「われ」も忘れて雑木に覆われた険しい登山道を見下ろした。小鳥の声々が賑やかだ。
 「チリチリッ、チリチリッ」、「ツーツー」、「チチーッ」、「ガーガーガー」、「ピピピッ、ピッピッ」、「チッチッ、チッチッ」「……」
 そう、案内書にも『野鳥の宝庫』とあった。
 鳴き声ばかりでなく目を凝らすと遠くで近くで小鳥たちが飛び交っている。ピーチャンの土を持ってきてよかった。
 
「もうすぐですよー」
「一面開けて別世界でーす」
「景色最高、頑張って!」
 下りるグループ、登るグループ、交互に励まされながら、やっと雑木林の急登を抜けた。そして右前方、目線に獅子岩(大黒岩)が現れた。十一時四〇分

 こちらから眺めると、角度によって大黒様や獅子に見えるからその名がついた、と書いてある。

 『子持山で最も目立つ獅子岩は、鉄鎖により岩上に上れ、関東平野、利根川、赤城山、武尊(ほたか)山などが一望できる大パノラマが広がって……』(続中高年向きの山一〇〇コース、山と渓谷社)

 こちらはその雄姿を眺めるだけで過ぎ、振り返ってはご尊顔を仰いだ。普段なら上州の空っ風に立ち向かう獅子奮迅の姿が、今日はこの陽気、狛犬か大黒様がお似合いだ。
 
「ここからは悠々稜線漫歩ですよ」
 朗らかな山男にそう言われたわりには悠々といかない尾根道を歩くこと小一時間。ようやく頂上が見えてきた。
《登ったんだなあ》
 というか、
《帰れるのかなあ》
 というか、とりあえず満足と不安を両手に引っさげて山頂へ歩数を踏みしめた。

 山頂にて

 子持山山頂は南北にかけて細長いデコボコの平面だ。 (一二九六b) 一二時三〇分
 小春日和の日曜日、正午過ぎ。老若男女の登山客が一〇数人くつろいでいる。弁当を広げたり、写真を撮りっこしたり、眺望を楽しんだり、歓談したり、……。
 ぼくは何よりもまず、なすべきことがあった。
 
 ピーチャンの墓から盛り土を少量スーパーの袋に入れてきている。
 山頂の象徴「十二山神」の裏手は静かで、見晴しも至極いい。人に踏み荒らされる心配がない程度のほどよい茂みにもなっている。

 リュックから袋を取り出した。一掴みの土を、春になったらきっときれいな草花で賑わうようなブッシュを選んで撒いた。そして遠くの山並みを見渡しながら、一年間思い続けた望みがこんな形で実現できることに満足した。きっとピーチャンも、『ピーチャン、ダイスキダヨ!』と喜んでくれるに違いない。

 生まれて死ぬまでかごの鳥で、一切味わえなかった大自然を、いまからゆっくり満喫してもらおう。冬の木枯らしは冷たいが、野生に戻ったピーチャンにはマンション片隅の垣根よりいいのではないか。
 春になれば緑が萌えてくる。草花も木々も彩りを競い合う。小鳥たち仲間のさえずりも賑やかになるだろう。四季の恵みを思う存分受けてほしい。鳥かごのピーチャンと付き合うこと正味八年。自由を奪ってしまったという負い目からやっと解放された。

主よ、人の望みの喜びよ  (バッハ)
『魔弾の射手』序曲  (ウエーバー)

 この間ずっと、ぼくがピーチャンと一緒に聴きたかった楽曲が、やさしく、厳かにこだまする。一つはピアノの澄んだ音色で、もう一つはホルンの心洗われる響きで。

 ぼくも死んだら灰にして山に撒いてほしい。墓石も戒名も仏壇も要らない。このこと、まじめに願っている。
 すべて、終わりは次の始まりだ。『死後』、この万人にとって未知なる世界。無限の「無」の始まりなのか、何らかの「有」の始まりなのか、神か仏に尋ねるしかない。そのスタートを何らかの束縛で制限されたり、手を合わせられたり、「○○信士」とか「××居士」とか、意に添わないニックネームをつけられたりして、迎えたくない。
 決して宗教を否定しない。仏教の哲学もぼくなりにもっともっと教えを請いたい。第一、今回の(やまい)でも、ずっと苦しいときの神頼みをしている。だからといって「神を信じる」、「仏を信じる」、と短絡したくない。白状するが、神や仏を信じ、自己の弱さと限界に気づいている人をぼくは尊敬するし、そうなれたらといつも願っている。
 世の中、むずかしいものだ。「葬式も戒名も墓も要らない」について、妻と意見が対立している。言うは易し、に終わるのだろうか。

 下山

 十三時、下山開始。
 来た道を戻るのだから、と言い聞かせつつ尾根道伝いを柳木ヶ峰まで下った。ここから屏風岩まで四、五〇分のはずだ。
 急傾斜は見上げるよりも見下ろすほうが凄みを帯びる。加えてきわどい岩石とザレ場。小枝等に掴まりながらよじ登るのも難儀だが、そこを下るとなると、状況はもっと厳しくなる。
 枯葉のザレ場を数回滑って転び、右手首の捻挫を案じた。急降下を傾斜なりに三、四回転した。何とか事なきを得たのはラッキーだった。メガネは少しゆがんだが。
 
 用心に用心を重ねた結果でもこうだ。スニーカーでなく、登山靴ならと後悔した。やはりハンデ、とも思った。が、真実はまさに「過酷な急斜面とすべり車」だった。《まだやれる》、転びながら変な自信も得た。
「ここが登れたのだから次は檜洞丸(ひのきぼらまる)よ!」
 通り過ぎた女性グループの弾んだ声。ぼくもそれなりに次の山へつながったと信じた。
 子持神社奥ノ院(子持山登山口)着、十四時四〇分。
 
 宿の脱衣場で汚れた下着を袋にしまった。今日はとくにべとべとの濡れ具合がうれしかった。大幅な体重減の期待と山を歩けた満足感が合わさって、である。体重計の方は非情。なにほども減量していない。満足は半減した。
 
 温泉の広い浴槽(ゆぶね)をひとり占めした。湯気が雑念と疲れを取り去って、体中を弛緩させてくれる。
 続いて泡風呂にしばらく浸る。泡立ちが徐々に生気を与えてくれた。
 露天風呂に肩まで浸かる。フーッとため息をつきながら、
「ピーチャン、イイコダヨ」
 ピーチャンの物まねをしてみた。
「今日から子持山だね。子持山だよ」
 だれともなく、(つぶや)いてみた。夕日は赤城連山に沈みかけていた。

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「ピーチャンとぼくの五十代」 表紙
まえがき
第1章 ピーチャンだよ
第2章 子持山だよ
第3章 第二の人生、垣間見
第4章 もうすぐシニア
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