第3章 二度目の人生、垣間見
楽天家の彼。そのうちなんとかなるだろう≠ニ、安易に速玉を去り、会社創業は、プライドのなせる見せかけと云えた。物事、思い通りに行くわけないのに、ほどほどにそうなってきたと本人が信じられるのは、自らの努力に関係なく、その都度時の氏神と拾う神に恵まれたことによる。
…………
新会社を(株)ケーエスビー(KSB)と名付け、東陽町のTTCビル三階、10畳の部屋を事務所として借りた。リクルート事件のさなかで、それまではリクルート・コスモス社の会議室だった。
従業員は妻椿と二人。それこそ「なんとかなるだろう」との淡い期待で、表看板を「鉄鋼関連の英文翻訳、経営資料作成」としてスタートした。
現実は甘くないどころか、世間の現実を知らなかった。前の会社の同僚や関連会社は協力を約束していたが、具体的な業務内容と実力があいまいだから、彼らは協力のしようがない。
速玉と速玉興業から翻訳の仕事、関連会社からはちょっとした経営資料の作成依頼はあったが、収益とは縁遠い。そのうち仕事は来なくなり、退職金の積み立ては底をつき、倒産は時間の問題だった。
TTCビルは浜島橋梁がオーナーで、管理担当のC課長が援助の手を差し伸べた。やせぎす、きまじめ。頭は低いが一本筋が通っている。四十代前半にして髪の毛は薄い。三輪を近くの喫茶店に誘って、彼自身の口でKSBの業務内容とこれからの考え方をしゃべらせ、じっと聴き入る。
数日して三輪に都内の浜島関連会社一覧表を見せ、彼を伴って一社また一社と回り、丁重に協力依頼してくれる。各社はそれなりに対応してくれたが、C課長の好意にかかわらず、どこともはかばかしい注文には至らなかった。
が、その間にC氏は三輪を観察していた。ワープロや表計算ソフトをこなしている、何とか人前で教えられそうだ。世間では、個人用のPC98パソコンが出回りはじめた頃のこと。
TTCビルの最大テナントは、四階の全てを占めるN文化センター東陽町教室だ。講座は文化・娯楽・スポーツまでバラエティに富み、朝から夜まで、一円の主婦で賑わっていた。ときどき三輪も何らかの講演会に出席したり、人気のある都内巡りに参加していた。
まだ同センターはワープロやパソコン教室を開いていなかった。C氏は三輪を当教室責任者のD所長に引き合わせる。定年を前にした気のよさそうな所長はビル・オーナーの依頼を断れず、一応のオファーをする。
・ 教室を一室無料で貸し与える。
・ 講座が実現すれば広報紙で宣伝する。
・ 受講料の65%を与える。
やっと仕事にありつけそうだ。N文化センターの名前をバックに、EPSON社にPC98互換機の貸し出しを打診する。12台の承諾を得た。ワープロの「一太郎」、表計算の「ロータス1−2−3」、データベースの「Let'sアイリス」、それぞれの使用に発売元の各社が応じてくれた。まさに、「人のふんどしで相撲をとる」。
「シニアのためのパソコン入門」は最初から定員12人が満席で、三ヶ月1クールの講座がずっと続く。
講師は三輪一人の期間が二年ほどで、そのうちパソコン・プロのONさんが社員として加わった。
徐々に彼女が教室を仕切ってくれるようになり、カリキュラムを増やし、その分彼女が友達の輪から講師を引っ張ってきた。
思わぬ好評に、浜島橋梁のC課長もNセンターのD所長も大いに喜び、三人の打合せも冗談が飛び交うようになった。
やっと家賃が収入から払える。そこそこの給料を妻に届けられるようになる。
生徒のみなさんや当ビル・テナントで、ハード・ソフト・指導それぞれのお客が増える。事務の従業員を一人雇う。会社らしくなってきた。
前後するが、教室をはじめて二年近く経った頃か、江東商工会議所から依頼あり。「パソコンをビジネスに活かす」と銘打った講座に四〇数社が参集した。
その中にH木材H社長がいて、
「うちの業務を見てもらえないか」
にわかアドバイザーになって、テレマーケティング要員を二名派遣することになる。三輪も毎月の同社営業会議に出るようになった。
パソコン教室に並行して、三輪は業務ソフトの導入・運用指導をKSBのもう一つの柱にするべく行動していた。
当時この業界の大手はOBC、PCA、ミルキーウエイの三社だった。OBCに的を絞って「奉行シリーズ」のインストラクター資格を得た。この件の裏話は彼がぼく≠フ名で綴った別のエッセイに現れる(雑記帳第29話「不亦楽乎」)。
ONさんはパソコンにのみ有能ではない。三輪の右腕となって会社をもり立てた。当然彼女もすぐ「奉行」のインストラクターになり、OBCのソフト普及とユーザー指導に当たる。妻もあとを追い、指導資格を取得した。(株)KSBは江東区の地場産業に位置づけられてきた。
1990年代は、後半にかけてもバブル景気がまだ居続けており、何をやってもそれなりにうまくいっていた頃だ。やらないのは罪=B
社会環境は中小企業に追い風で、どこも経営効率化に熱心だ。パソコンをビジネスに活用することが常識化してきた。業務ソフトの売れ行きが比例して大いに伸びる。ソフトメーカーも上記の大手三社に加え、EPSON社ら数社が名乗りを上げた。
KSBは江東区の中小企業に的を絞って、業務効率化を支援すべく地道な努力を重ねている。H木材社長の勧めで、区の異業種交流会に入る。
そのうちユーザーニーズと業者の攻勢を受け入れて、OBCの他に、PCAと廉価版ソフトのOKN社をラインアップすることになった。
平成元年(1998)三月、Yana氏が加わる。三輪より二回り若く、三四歳だった。
起業して一〇年、還暦を二年後に控えて後任を探そうと思いはじめた頃で、まさに時の氏神だった。
Yana氏はCSKの有望社員だから、並みの勧誘に乗るはずがない。三輪は自分なりに調べあげ、不動の熱意でアプローチをはじめる。手練手管が通用しないことは自明だし、三輪も嫌いだ。彼の将来を思いやる誠意と三顧の礼しかない。
ほどよい感触を得た頃、Yana氏の大好きなオーストラリアへ、ツアーに参加して一〇日間一緒した。道中二人で毎晩語りあった。Yana氏のKSB入社はその二ヶ月後に実現した。
Yana氏が中小企業支援を受け持ち、ONさんはパソコン教室を切り盛りしながら支援事業もサポートする。
従業員も七人になって、10畳の部屋から引っ越した隣の40畳の部屋も手狭なくらいだ。取り扱っている業務ソフト三社の全ての導入・運用指導ができる態勢になった。
もう一段の飛躍を期して、中小企業支援に重心を置こうとするところまではよかった。Yana氏とONさんの了解を得ているし、OBCをはじめソフト業者のサポートは揺るぎない。
夢がふくらむ。もっともっと伸びると思いをはせる。もっと伸ばそう、早く。
三輪はいまや妄想の虜になって砂上に楼閣を築いていた。Yana氏ともう一方の片腕のONさんに任せきってしまえばいいものを、逆にむち打つが如く、彼らにムリなノルマを課すようになった。
ONさんは体に変調を来し、Yana氏の朗らかさは消えた。それでも三輪は突き進もうとする。自らの非に気づかず、自分の実力のなさそっちのけで、高い目標を変えようとしない。二人に対して猜疑心がつのる。
独断専行のつけで、業績はつるべ落としとなった。三輪は六〇歳の還暦を前にして、功名心にとりつかれたのだろう。魔が差したとしか言いようがない。(これが彼の性根)
ONさんが去ってやっと夢から覚めた。目標≠ヘ三輪が勝手に絵に描いた餅だった。還暦の年、Yana氏に経営の全てをゆだねて引退した。
(株)KSBは数年して、Yana氏が有望企業に合併させた。終結決算で赤字補填がいくらになるかと気をもんだが、三輪の心配とは裏腹に、思いがけず黒字をなし、配当をいただいた。
「誓ってYana氏に足を向けていません。ONさん、許してください」
三輪の正直な心情だ。
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