閑話休題、しばしピーチャンと離れる。

 古希過ぎて、年金生活にある三輪太地(ぼく)は、ある日安楽椅子に寝そべって、二度目の社会人生と言える五十代を振り返っていた。こそっと垣間見ることにする。

……………………

 脳梗塞で倒れてから三年後の昭和六三年(1988)一〇月、三輪は速玉製鋼を去った。その翌月に、東京・江東区東陽町のビルの一室に妻と二人の会社を創業した。
 四八歳のその年から還暦に至る十数年のことを彼はあちこちのエッセイで触れている。
 それらをつなぎ合わせてみた。

第3章 二度目の人生、垣間見

 楽天家の彼。そのうちなんとかなるだろう≠ニ、安易に速玉を去り、会社創業は、プライドのなせる見せかけと云えた。物事、思い通りに行くわけないのに、ほどほどにそうなってきたと本人が信じられるのは、自らの努力に関係なく、その都度時の氏神と拾う神に恵まれたことによる。
 …………

 新会社を(株)ケーエスビー(KSB)と名付け、東陽町のTTCビル三階、10畳の部屋を事務所として借りた。リクルート事件のさなかで、それまではリクルート・コスモス社の会議室だった。
 従業員は妻椿(つばき)と二人。それこそ「なんとかなるだろう」との淡い期待で、表看板を「鉄鋼関連の英文翻訳、経営資料作成」としてスタートした。
 現実は甘くないどころか、世間の現実を知らなかった。前の会社の同僚や関連会社は協力を約束していたが、具体的な業務内容と実力があいまいだから、彼らは協力のしようがない。
 速玉と速玉興業から翻訳の仕事、関連会社からはちょっとした経営資料の作成依頼はあったが、収益とは縁遠い。そのうち仕事は来なくなり、退職金の積み立ては底をつき、倒産は時間の問題だった。

 TTCビルは浜島橋梁がオーナーで、管理担当のC課長が援助の手を差し伸べた。やせぎす、きまじめ。頭は低いが一本筋が通っている。四十代前半にして髪の毛は薄い。三輪を近くの喫茶店に誘って、彼自身の口でKSBの業務内容とこれからの考え方をしゃべらせ、じっと聴き入る。
 数日して三輪に都内の浜島関連会社一覧表を見せ、彼を伴って一社また一社と回り、丁重に協力依頼してくれる。各社はそれなりに対応してくれたが、C課長の好意にかかわらず、どこともはかばかしい注文には至らなかった。
 が、その間にC氏は三輪を観察していた。ワープロや表計算ソフトをこなしている、何とか人前で教えられそうだ。世間では、個人用のPC98パソコンが出回りはじめた頃のこと。
 TTCビルの最大テナントは、四階の全てを占めるN文化センター東陽町教室だ。講座は文化・娯楽・スポーツまでバラエティに富み、朝から夜まで、一円の主婦で賑わっていた。ときどき三輪も何らかの講演会に出席したり、人気のある都内巡りに参加していた。
 まだ同センターはワープロやパソコン教室を開いていなかった。C氏は三輪を当教室責任者のD所長に引き合わせる。定年を前にした気のよさそうな所長はビル・オーナーの依頼を断れず、一応のオファーをする。

 ・ 教室を一室無料で貸し与える。
 ・ 講座が実現すれば広報紙で宣伝する。
 ・ 受講料の65%を与える。

 やっと仕事にありつけそうだ。N文化センターの名前をバックに、EPSON社にPC98互換機の貸し出しを打診する。12台の承諾を得た。ワープロの「一太郎」、表計算の「ロータス1−2−3」、データベースの「Let'sアイリス」、それぞれの使用に発売元の各社が応じてくれた。まさに、「人のふんどしで相撲をとる」。
 「シニアのためのパソコン入門」は最初から定員12人が満席で、三ヶ月1クールの講座がずっと続く。

 講師は三輪一人の期間が二年ほどで、そのうちパソコン・プロのONさんが社員として加わった。
 徐々に彼女が教室を仕切ってくれるようになり、カリキュラムを増やし、その分彼女が友達の輪から講師を引っ張ってきた。
 思わぬ好評に、浜島橋梁のC課長もNセンターのD所長も大いに喜び、三人の打合せも冗談が飛び交うようになった。

 やっと家賃が収入から払える。そこそこの給料を妻に届けられるようになる。
 生徒のみなさんや当ビル・テナントで、ハード・ソフト・指導それぞれのお客が増える。事務の従業員を一人雇う。会社らしくなってきた。

 前後するが、教室をはじめて二年近く経った頃か、江東商工会議所から依頼あり。「パソコンをビジネスに活かす」と銘打った講座に四〇数社が参集した。
 その中にH木材H社長がいて、
「うちの業務を見てもらえないか」
 にわかアドバイザーになって、テレマーケティング要員を二名派遣することになる。三輪も毎月の同社営業会議に出るようになった。

 パソコン教室に並行して、三輪は業務ソフトの導入・運用指導をKSBのもう一つの柱にするべく行動していた。
 当時この業界の大手はOBC、PCA、ミルキーウエイの三社だった。OBCに的を絞って「奉行シリーズ」のインストラクター資格を得た。この(くだり)の裏話は彼がぼく≠フ名で綴った別のエッセイに現れる(雑記帳第29話「不亦楽乎」)。

 ONさんはパソコンにのみ有能ではない。三輪の右腕となって会社をもり立てた。当然彼女もすぐ「奉行」のインストラクターになり、OBCのソフト普及とユーザー指導に当たる。妻もあとを追い、指導資格を取得した。(株)KSBは江東区の地場産業に位置づけられてきた。

 1990年代は、後半にかけてもバブル景気がまだ居続けており、何をやってもそれなりにうまくいっていた頃だ。やらないのは罪=B
 社会環境は中小企業に追い風で、どこも経営効率化に熱心だ。パソコンをビジネスに活用することが常識化してきた。業務ソフトの売れ行きが比例して大いに伸びる。ソフトメーカーも上記の大手三社に加え、EPSON社ら数社が名乗りを上げた。

 KSBは江東区の中小企業に的を絞って、業務効率化を支援すべく地道な努力を重ねている。H木材社長の勧めで、区の異業種交流会に入る。
 そのうちユーザーニーズと業者の攻勢を受け入れて、OBCの他に、PCAと廉価版ソフトのOKN社をラインアップすることになった。

 平成元年(1998)三月、Yana氏が加わる。三輪より二回り若く、三四歳だった。
 起業して一〇年、還暦を二年後に控えて後任を探そうと思いはじめた頃で、まさに時の氏神だった。
 Yana氏はCSKの有望社員だから、並みの勧誘に乗るはずがない。三輪は自分なりに調べあげ、不動の熱意でアプローチをはじめる。手練手管が通用しないことは自明だし、三輪も嫌いだ。彼の将来を思いやる誠意と三顧の礼しかない。
 ほどよい感触を得た頃、Yana氏の大好きなオーストラリアへ、ツアーに参加して一〇日間一緒した。道中二人で毎晩語りあった。Yana氏のKSB入社はその二ヶ月後に実現した。
 Yana氏が中小企業支援を受け持ち、ONさんはパソコン教室を切り盛りしながら支援事業もサポートする。
 従業員も七人になって、10畳の部屋から引っ越した隣の40畳の部屋も手狭なくらいだ。取り扱っている業務ソフト三社の全ての導入・運用指導ができる態勢になった。

 もう一段の飛躍を期して、中小企業支援に重心を置こうとするところまではよかった。Yana氏とONさんの了解を得ているし、OBCをはじめソフト業者のサポートは揺るぎない。
 夢がふくらむ。もっともっと伸びると思いをはせる。もっと伸ばそう、早く。

 三輪はいまや妄想の(とりこ)になって砂上に楼閣を築いていた。Yana氏ともう一方の片腕のONさんに任せきってしまえばいいものを、逆にむち打つが如く、彼らにムリなノルマを課すようになった。
 ONさんは体に変調を来し、Yana氏の朗らかさは消えた。それでも三輪は突き進もうとする。自らの非に気づかず、自分の実力のなさそっちのけで、高い目標を変えようとしない。二人に対して猜疑心(さいぎしん)がつのる。
 独断専行のつけで、業績はつるべ落としとなった。三輪は六〇歳の還暦を前にして、功名心にとりつかれたのだろう。魔が差したとしか言いようがない。(これが彼の性根)

 ONさんが去ってやっと夢から覚めた。目標≠ヘ三輪が勝手に絵に描いた餅だった。還暦の年、Yana氏に経営の全てをゆだねて引退した。

 (株)KSBは数年して、Yana氏が有望企業に合併させた。終結決算で赤字補填がいくらになるかと気をもんだが、三輪の心配とは裏腹に、思いがけず黒字をなし、配当をいただいた。
「誓ってYana氏に足を向けていません。ONさん、許してください」
 三輪の正直な心情だ。

 三輪の妻椿(つばき)のメモも残っていた。二人が起業した頃から一二年ばかり、三輪が還暦を迎えた年のようだ。
 彼女の心境で「閑話休題」の幕とする。
昭和六三年(1988)〜 (夫の速玉退職後)
    夫は四八歳で速玉製鋼を中途退職しました。そしてわけの分からない起業です。本当に振り回されました。
 資格を生かして保育園の保母になりました。生活の足しになり、子どもの学業費用にも役立ちました。空いた時間で(株)KSBのにわか経理担当をしました。
 あれから一〇年たって平成元年(1998)頃、やっと生活にゆとりが出てきました。テニスと趣味の俳句をはじめたのはその頃です。
 私の今の願いは、子供たちの幸せ、夫と一緒の海外旅行、そして仲間とのテニスです。全て健康であればこその楽しみです。
 夫との共通点はほとんどありませんが、苦しかったことは忘れ、楽しかったことはよく覚えている、これは共通しています。
 私は今が楽しく幸せです。夫は相も変わらず、見果てぬ夢と妄想に浸っています。私なりになんとかわかってきたつもりです。家計にまで迷惑を及ぼさない程度の小さな幸せのようですから。
 この起業話に落ちが着く。
 還暦の年に会社を去ってからずっと、ONさんとYana氏に与えた過大な重圧と、その結果倒産寸前に至った結末を悔いる日々が続いていた。その時は、社業存続を目指してのYana氏の決断で、(株)KSBは他社に吸収合併されたのだった。
 数年前のある日、突然、あのとき退社せず残ってくれていた女性Yumiさんから電話。新浦安駅近くのレストランでお会いすることになった。Yana氏、Yumiさん、三輪と妻の四人で。
 彼らの願いは(株)KSBの復活だった。会社名も業務内容も。ぼくが反対するはずはない。ぼくの申し出は、唯一、「三輪本人は同社とは一切無関係」ということ。2018年の今も、順調に発展していると聞き、陰ながら彼らと同社を心より応援している。

……………………

朗読: 20 : 19

< 第2章 子持山だよ 第4章 もうすぐシニア >
「ピーチャンとぼくの五十代」 表紙
まえがき
第1章 ピーチャンだよ
第2章 子持山だよ
第3章 第二の人生、垣間見
第4章 もうすぐシニア
閉じる