まえがき
 喜寿(77才)を過ぎて1年、八十路も近い。年相応にわが過ぎ越し方を振り返りたくなった。
 たまたま先月、父の生涯を「海の男の一生」として、小説仕立てでまとめた。その文中、紀元2600年の昭和15年(1940年)に魚住京蔵とくまの長男として生まれた京太がぼくだ (名前は全て仮称)。

 南半球・オーストラリア北方のアラフラ海で16才から17年間、真珠貝採取の潜水作業に明け暮れた父と違って、なんと代りばえのない人生か。確かに。
 かもしれないが、本人としてはそれなりに、なんのなんの。喝采したり、無性に腹が立ったり、涙が出たり、がっかりしたり、……。思い出しては、いつしか冷静さを失っている。

 そう、中学生の頃から高校卒業までガリ勉をとおしたあと、1年浪人を経て東京のH大学に入学。学生4年間はまさに不学無為だった。教職を目指していたのに学問に興味を失い、かといって何の文化・スポーツ活動もせず。どうにか卒業できた、が本音だ。
 即、名古屋が本社の大同製鋼(現、大同特殊鋼)に入社。
 5年後に1年間、米国の大学へ社費留学。その経験を生かして鋳鋼品の輸出業務に励み、42才でニューヨークの現地法人勤務。ある成果は上げ得たと内心達成感はある。
 その間の不規則生活も原因したか、駐在2年半たって脳梗塞にかかる。たまたま日本へ出張中のことで、米国駐在はその時その場でデッドエンド。45才。ニューヨーク近郊に住まう妻と3人の子供たちは大迷惑を(こうむ)ることになる。彼らは、高校3年になる長女を卒業までもう1年残すことにして、やむなく日本に引き揚げた。

 会社の心遣いでの闘病生活とほどほどの勤務を3年。一生は一回のみと、当てのない身勝手さで、妻には有無を言わせず大同を退社。新天地を求めた。48才。
 当てのない起業をして10幾年。本人は還暦(60才)を機に社会生活に区切りをつけるまで、人生悔いなしを追求したのだが、とばっちりをもろに受けたのが妻。人生最大の試練に見舞われたにも拘らず、火事場の馬鹿力≠ネらぬこれほどの女丈夫とは知らなかった。感謝あるのみ。

 概略、こうしたわが半生模様。
 20年ほど前に開設したホームページ「中高年の元気!」のあちこちに書き残してある。こんな具合だ。

1.父母の生涯とぼくの幼少期
 「海の男の一生」 (雑記帳第110話)
2.学業を経てサラリーマンの四十代まで
 「三輪崎太地、ぼくの速玉時代」
 (雑記帳第79−83話)
3.屈折の五十代
 「インコのピーチャン」 (雑記帳第7話)
4.怪獣だらけの講堂の建立由来探求に打ち込んだ数年の六十代 (実年齢を10年下げてある)
 「怪獣の棲む講堂物語」
 (雑記帳第46−48話)
5.七十代の今日この頃
 雑記帳第65話以降、各種紀行文とエッセイ
 その間の「3.屈折の五十代」。
 上記「インコのピーチャン」という自称童話の筋道がぼくのその頃を代弁している。これを主軸にして、ここでまとめることにした。
 50代は家族に迷惑をかけっぱなしだが、自身は身勝手ながらもそれなりの生き方ができた。
 と言えるのもピーチャンとの出会いがあったればこそだ。緑のセキセイインコ、利口な小鳥だった。
 
 ぼくが50才のとき、生まれたてでわが家の一員となり、以来8年間、両足の不幸にもめげず愉快な家族として生き抜いてくれた。
 性格弱くくじけるのが得意のぼくを、身をもって励ましつづけてくれたピーチャンは、いまもぼくの心の支えである。
 
 ピーチャンがこの世を去って今年がちょうど20年目。ピーチャンのいるわが過ぎ越し人生の50代を辿ることにする。

(2018年5月某日)

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「ピーチャンとぼくの五十代」 表紙
まえがき
第1章 ピーチャンだよ
第2章 子持山だよ
第3章 第二の人生、垣間見
第4章 もうすぐシニア
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